2009年3月アーカイブ

「ワルキューレ」パンフレット ヒトラーを暗殺するだけではナチス・ドイツの体制は変わらないだろう。そこでヒトラーに加えてヒムラーも暗殺し、その後、SSが反乱したとして予備軍を動員し、SSやナチスの幹部を逮捕させて、新政権を樹立するクーデターを起こす。ヒトラーがクーデターに備えて用意していたワルキューレ作戦を逆手に取ったクーデターがこの映画で描かれる作戦だ。ドイツ版の2・26事件のような映画なのである。事件の過程はよく分かるが、この映画、登場人物たちの心情に迫っていかないのが大きな欠点だ。ブライアン・シンガー監督、今回はエモーショナルな描写をどこかに忘れている。空疎な大作という表現がよくあるけれども、それにぴったりの映画である。なぜ命をかけてヒトラーを暗殺しようとするのか、そこまで追い詰められた幹部将校たちの思いと境遇を詳細に描くべき映画であって、単に事件の経過を追うだけでは面白くなるはずがない。これはヨーロッパ、特にドイツで映画化すべき題材だったのだと思う。

冒頭、ヒトラーの非道な政策に反感を抱くクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐(トム・クルーズ)が将軍に「兵を死なせたくない」と進言した後、敵機の機銃掃射で右手の手首から先と左目と右手の指2本を失うシーンで、これは面白い映画になるのではないかと思った。しかし、その後、映画は急速に失速してしまう。淡々と作戦が進むだけなのである。歴史を見れば分かるように作戦は失敗し、将校たちは逮捕され、処刑されるのだが、処刑シーンにも今ひとつ心が動かないのはエモーションが不足しているからにほかならない。描写の一つ一つは良いのに、エンタテインメントに振りすぎた結果、ドラマが弱くなっているのだ。シュタウフェンベルク大佐は37歳でこの計画を実行し、処刑された。その正義感と無念の思いをすくい上げなくては映画化の意味がない。幸運にも生き残った大佐の遺族は映画の出来に怒っているのではないか。

トム・クルーズをはじめケネス・ブラナー、ビル・ナイ、トム・ウィルキンソン、テレンス・スタンプらの出演者はいずれも好演している。この興味深く、面白い題材をこの程度にしか映画化できなかった責任は脚本と演出にある。これはサスペンスとして映画化すべき題材ではなく、正義感とヒューマニズム、悲劇性を前面に出した方が良い作品だったのだと思う。あの傑作「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」のような映画化が望ましかったのだ。

予告編には「SAW」のメインテーマが使われていた。予告編が本編と違う音楽を使うことは時々ある。別の映画の音楽を使うこともある。本編の音楽(編集も兼ねたジョン・オットマン)は正統的なスコアで悪くないが、予告編に使うには少しインパクトが弱かったのかもしれない。

予告編では終わりの方に「SAW」の音楽が使われている。

こちらは「SAW」のメインテーマ

「ウォッチメン」パンフレット 予告編ではどういう映画なのかよく分からなかった。本編を見て、ははーんと思った。なるほど、これは要約のしにくいストーリーだ。スーパーヒーローが法律で活動を禁じられた世界でヒーローの1人がビルから転落死する。何者かに突き落とされたのだ。他のヒーローたちにも危害が及ぶのではないかと思ったヒーローの1人であるロールシャッハ(ジャッキー・アール・ヘイリー)が事件を調べ始めるというのが発端。この発端だけでもブラッド・バード「Mr.インクレディブル」との類似点を感じるが、途中にヒーロー2人がかつての活動を行うことで自己実現を果たし、自信と自分を取り戻すという描写もあり、「Mr.インクレディブル」がこの映画の原作からインスパイアされた映画であることは間違いないようだ。

といっても「ウォッチメン」に登場するヒーローたちは、放射能で変異を果たし、ヒーローを通り越して神に近い存在となったDr.マンハッタン(この名前はマンハッタン計画から採ったのか)を除けば、普通の人間である。超能力を持たない普通の人間がマスクをして悪を退治するという在り方は「バットマン」と同様で、ヒーローたちの多くのダークな在り方もバットマンと共通している。ニクソンが3期目の当選を果たし、ベトナム戦争に勝利した1985年のアメリカを舞台にした設定はSFだし、Dr.マンハッタンの存在もSFなのだが、本筋はダークなヒーローたちの悲哀を描くことにあったのではないかと思う。2時間43分の上映時間は長いが、僕はまず面白く見た。ザック・スナイダー監督の前作「300」は描写だけが変わった作品に過ぎなかった。今回は原作がしっかりしていることが幸いしたのだろう。

ソ連のアフガニスタン侵攻で核戦争の危機にある時代という設定はまるで50年代SFのようにクラシカルだ。殺されたヒーローはコメディアン(ジェフリー・ディーン・モーガン)。コメディアンは暴力的で残忍な性格で、1940年代のヒーロー集団ミニッツメンの1人である初代シルク・スペクター(カーラ・グギーノ)をレイプしようとしたり、ベトナム戦争でもアメリカでも民間人を撃ちまくる。Dr.マンハッタン(ビリー・クラダップ)は人間性を失っているし、主人公格のロールシャッハも暗い過去を持つ。オジマンディアス(マシュー・グード)に到ってはヒーローであることをすっぱりやめ、金儲けに走っている。2代目のナイトオウル(パトリック・ウィルソン)とシルク・スペクター(マリン・アッカーマン)もそれぞれに複雑で陰影のあるキャラクターだ。

このヒーローたちのキャラクターは脳天気な正義の味方だったアメリカン・ヒーローを人間的にリアルなものにするところから始まっていると言える。核戦争の回避という本筋よりもヒーローたちのダークな在り方を描く部分が映画の大半を占める。物語の進行はハードボイルドタッチを取り入れたもので、偽の平和を拒否し、正義を貫こうとするロールシャッハの姿は外観とは裏腹に伝統的な主人公にふさわしいものだ。不満は、大国による核戦争の危機(地球滅亡)の回避という設定そのものにあり、これが小国の暴走のようなものであったならば、現代により接近した映画になったのではないかと思う。

ボブ・ディラン「時代は変わる」でヒーローたちの変遷を描く導入部も良いが、個人的におおっと思ったのは久しぶりに聞いたネーナの反戦歌「ロックバルーンは99」(99Luft Balons)。このほか、「サウンド・オブ・サイレンス」や「ワルキューレの騎行」などこの映画、時代色を出すための音楽のセンスが良かった。

 

「ウォッチメン」の原作はamazonから発送の連絡が入った。2、3日で届くだろう。感想はReading Diary, Maybeの方に書くつもり。

「ヤッターマン」パンフレット 元のアニメがギャグなので、映画もギャグ。それもあまり笑えないギャグだ。アニメの実写映画化は時々あるが、この映画ほどアニメを忠実に再現しようとした映画はないだろう。何しろ映画の最後に次週の予告編まであって、それにはヤッターペリカンと白いコスチュームのドロンジョが出てくるという気合いの入れようだ。しかし、映画に1時間51分の長さが必要かと言えば、まったく必要ではない。30分のアニメを2時間近くにするにはそれなりにストーリーに工夫を凝らさなければいけない。この映画はそこが足りなかった。同じパターンの話を2回見せられるような構成は決して褒められたものではないだろう。アニメの外観の再現にばかり傾注してアイデアが足りない。ギャグと思って見に行ったので腹は立たなかったし、そこそこ楽しんだのだけれど、実写でも30分で十分だったのではないか。というか、30分のストーリーを3本にした構成だったら褒めていたかもしれない。

ストーリーは4つに分かれたドクロストーンを巡るヤッターマンとドロンボー一味の戦い。冒頭、廃墟と化した都市でのヤッターワンとダイドコロンの戦いはあまりうまくはなく、ここで既に疲れるのだが、その次のバージンローダーとの戦いにはちゃんとヤッターワンにメカの素を与えてビックリドッキリメカが登場する。これ、アニメ版の売りの一つだったので、なくてはならないものだったが、普通の実写映画化なら省略してもおかしくない。このほか、アニメ版の声優の小原乃梨子や山寺宏一が出て来たり、歌も同じものを使っていたり、アニメを再現というよりはアニメに敬意を表してとことん忠実に映画化している。同じ竜の子プロアニメの実写化で比較すれば、「キャシャーン」よりはるかにましである。

出演者は総じて良かった。生瀬勝久とケンドーコバヤシはボヤッキーとトンズラーにぴったりのキャスティングだし、ヤッターマン1号、2号の櫻井翔と福田沙紀も悪くない。ギャグに真面目に取り組んでいる点に好感が持てる。特に良かったのはドロンジョを色っぽく演じた深田恭子。この映画の魅力は深キョンの魅力に尽きる。深キョン、もっと映画に出るべきだと思う。だから、ヤッターマンと偶然キスしてしまったドロンジョが恋心を燃え上がらせるエピソードをもっと本筋に絡めて欲しくなる。出演者は良いのにキャラクターの描き込みは足りず、薄っぺらなのである。

劇場には子どもたちがたくさん見に来ていたが、中には理解できないギャグもあったのではないか。父親を助けられた考古学者の娘の翔子(岡本杏理)がヤッターマン2号に対して「2号さん」と呼びかけ、「さんは付けなくていいの」と言われるシーンとか。三池崇史はヤッターマンをリアルタイムで見ていた世代だろうが、やっぱり大人向けのテイストも随所にあるのだった。

僕もヤッターマンはリアルタイムで見ていた。「ガッチャマン」の印象が強かった竜の子プロにしては異質なアニメだなと思った。タイトルからしてそうだし、中身も弾けていた。ヒーローもののパロディを開き直りで作った感じがしたものだ。だからヤッターマンはブレイクしたのだろう。といっても僕が一番好きな竜の子のアニメは正統的なヒーローものであり、それを超える深みと内容を兼ね備えていた「宇宙の騎士テッカマン」。ああいうシリアスなアニメの実写映画化もできないものだろうか。

General 病院を舞台にした海堂尊原作の映画化第2弾。途中まではテレビで十分の題材かなと思って見ていた。阿部寛が出て来て救われる。その登場の仕方も笑える。阿部寛演じる厚生労働省のキャリア白鳥圭輔はほぼギャグのような存在で、竹内結子とのコンビが前作に続いておかしい。しかし、感心したのは阿部寛に対してではなく、テーマを真っ当に描いている点にある。技術的には何ら際だった所はない映画だが、それでもこの物語とテーマの真っ当さには胸が熱くなるのだ。少しもうまくはないけれども、面白くて感動できるという映画である。何の取り柄もなかった前作「チーム・バチスタの栄光」よりも作品としては明らかに上だ。

今回は東城大学付属病院の救命救急センターを舞台にしている。センター長の速水晃一(堺雅人)はジェネラル・ルージュのあだ名を持つ優秀な医師。その強引なやり方で病院内には敵が多い。その速水が医療メーカーのメディカルアーツと癒着しているという告発の手紙が倫理委員会委員長の田口公子(竹内結子)のもとに届く。院長(國村隼)から田口は調査を命じられるが、同じような手紙は白鳥にも届いていた。交通事故で足を骨折し、病院に運ばれた白鳥は田口とともに調査を始める。

前作について僕は「話はきちんとまとまっているが、それだけに終わっていて、何とも映画らしいところがない映画である。撮影なり、編集なり、キャラクターの描き込みに映画ならではの部分が欲しくなる。下手すると、テレビの2時間ドラマでもいいような感じの作品にしかなっていないのだ。中村義洋監督はもう少し描写に心を砕いた方がいい」と書いたが、今回もそれは同じ。テレビの演出と何ら変わるところはない。違うのは救急医療に携わる登場人物たちの思いをすくい上げていることだ。

ジェネラル・ルージュのあだ名は10年前、デパートの火災で多数のけが人が運ばれ、顔を返り血で真っ赤にしながら治療に当たった速水の姿から付けられたと、前半では説明される。その本当の理由が明らかにされるクライマックスはまたもや大事故で多数のけが人が運び込まれる。そこで懸命に治療に当たる医師や看護師の姿がとてもいい。医療は経済的な損得ではない。そういう本来の主張が表れていて僕は大いに共感した。

堺雅人の演技は不自然な笑顔があったりして決して百点満点ではなく、それは監督の演出の仕方にも問題があったのではないかと思うのだけれど、この映画を背負う力量は十分に感じさせた。中村監督、あとはどれだけ現実に近づくか、リアリティをどう持たせるかに配慮すれば、映画の厚みはもっと増していくだろう。

救急車のたらい回しで患者が亡くなる事例が相次いで報道されたけれども、世の中、そんな医師、病院ばかりじゃない。そういう一縷の希望を感じさせてくれる映画であり、それを信じる映画であって、作者の海堂尊の思いもそこにあるのだと思う。

「エグザイル/絆」パンフレット キネ旬ベストテン8位の香港ノワール。期待して見たが、スタイリッシュで迫力のあるアクション場面は良くても僕には普通のノワール映画に思えた。

中国への返還直前の1997年のマカオ。香港のボスを撃った男を殺すために送られた男と守るために送られた男の3人が狭いアパートの中で対峙し、銃撃戦となるが、赤ん坊の泣き声で銃撃をやめる。外で待っていた男2人が加わって一緒に部屋を修理し、料理を作って一緒に食べるという序盤の展開にこけた。男たちは幼なじみという設定が分かってくるので、こういう展開も無理ではないが、もう少し説得力のある描写にしてほしいものだ。

パンフレットによれば、監督のジョニー・トーは「脚本もなく、物語がどう発展していくのかも自然に任せて」撮影したそうだ。脚本がないままの撮影は香港映画では珍しくないが、ここはもう少し考えるところだろう。その後の展開は悪くなく、5人の男たちはそれぞれのボスである香港とマカオのボスから命を狙われ、一緒に逃走することになる。

香港ノワールと言えば、「男たちの挽歌」シリーズと「インファナル・アフェア」シリーズぐらいしか見ていないけれど、この作品、どちらにも負けている。パンフレットで宇田川幸洋と山田宏一が石井輝男や黒沢明、サム・ペキンパー(特に「ワイルド・バンチ」)からの影響を指摘しているが、この映画、直接的に影響を受けているのはクエンティン・タランティーノ「レザボア・ドッグス」ではないかと思う。3人が銃を構えている場面からしてそっくりだった。

「インファナル・アフェア」で株を上げたアンソニー・ウォンは渋くて良かった。中盤の金塊強奪シーンに登場する凄腕のスナイパー役のリッチー・レンも良い。この役がどう物語に絡んでくるのかと思ったら、その後は消えてしまう。ここらあたりが事前に脚本を詰めていない映画の限界か。もう少し脚本をしっかりしたものにしていれば、と残念でならない。ハリウッドがリメイクするそうだ。ジョニー・トーのアクション演出に勝てるかどうかは分からないけれど、話の筋はきちんとしたものにするだろう。

ジョニー・トー、パンフレットでは「(物語を)何日間にしようと考えたことはない」とか「(「放・逐」というタイトルに)特に意味はない」など気を入れて作った映画ではないことを語っている。俳優たちの演技も全部即興だったそうだ。そういう映画が評価されるのだから分からないものだ。肩の力を抜いて好きなように撮ったのが逆に良かったのか。

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