2009年4月アーカイブ

「おっぱいバレー」パンフレット 素足の綾瀬はるかがバレーコートに向かう場面でスーッと音が消えていく。あるいはバレーボールを猛勉強した綾瀬はるかが部室に顔を見せる場面で後ろから光りと風を当てる。そういう映像のアクセントがピタリと決まっている。しかしそんな演出の技術的な部分よりも、生徒の信頼を裏切り、「嘘つき」と呼ばれた過去を繰り返さないために誠実であろうとする綾瀬はるかの姿がとても良い。「いい、わたしのおっぱいを見るために頑張りなさい」。このセリフに少しも違和感がないのは変な色が付いてない“スーパーナチュラル”の綾瀬はるかだからこそだろう。思えば、羽住英一郎監督の「逆境ナイン」はスポ根の枠組みを借りた変格青春コメディ映画だったが、今回は真っ当な作劇と演出で極めて気持ちの良い青春映画となった。羽住監督最良の作品だと思う。

1979年の北九州市が舞台。新任の臨時教師・寺嶋美香子(綾瀬はるか)は部員が5人しかいない男子バレーボール部の顧問となる。バレーボール部なのにバレーボールをやったことがなく、女子チームに1点も取れずに負けてしまい、バカ部と呼ばれるどうしようもないチーム。「あなたたちが頑張るなら、先生何でもするから」という美香子に対して生徒たちは「じゃあ、今度の大会で僕たちが1勝したら先生のおっぱい見せて下さい」と頼む。美香子は前の学校で「受験前なのに先生がシーナ&ロケッツのコンサートに誘ったんですか」と問い詰められて否定し、生徒から「嘘つき」と呼ばれた苦い過去がある。だから今回は嫌々ながらも、試合に勝ったらおっぱいを見せるという約束をすることになる。

最初から最後までおっぱいを見るために頑張るバレー部の成長を描くというよりも美香子の教師としての成長を描くのが映画の主眼。美香子は中学生のころ(演じるのは「SAYURI」の大後寿々花)、万引で停学になった時に指導した教師の影響で教師を志した。このエピソードが泣かせるし、物語に奥行きを与えている。脚本は「いま、会いにゆきます」の岡田惠和。亡くなった恩師の自宅で自分が落書きをした本を見つける場面は恩師の人柄をくっきりと浮かび上がらせたうまいシーンだ。

公衆電話ボックスや古いモデルの自動車など70年代の時代色を出した北九州の町並みが良い。「ルージュの伝言」や「風を感じて」「微笑がえし」など70年代のヒット曲が次々に流れるのは羽住監督が映画「グローイングアップ」を目指したからだという。オールディーズを流す手法は同じでも、あの下品なだけのイタリア映画と比べるのも愚かと思えるほど良い出来だった。

「グラン・トリノ」パンフレット まるで西部劇のようなストーリー。ベトナム戦争の影響でラオスからアメリカに逃れてきたモン族をアメリカ先住民に変えれば、これは舞台を現代に置き換えた西部劇と言って良い。しかし重要なのはショッキングなラストにあり、ここを見てああそうか、と納得した。これはクリント・イーストウッド版の「ラスト・シューティスト」なのだろう。主演映画はこれが最後と言われるのも分かる気がする。5月で79歳になるイーストウッドはこれまで演じてきたイーストウッド的なキャラクターに自ら終止符を打ったのだ。エンドクレジットを見ながら、そんな思いに駆られて鳥肌が立つような感動を覚えた。

といってもラストを除けば、映画はユーモアにあふれており、悲壮感はない。作品としても小品である。主人公のウォルト・コワルスキー(イーストウッド)はフォードの工場に50年間勤め、72年型の車グラン・トリノを大切にしている男。妻が死に、一人暮らしをすることになったが、頑固で偏屈な考え方は2人の息子や孫たちからは疎まれている。妻の葬儀で礼儀を知らない孫たちの振る舞いに苦虫を踏みつぶしたような顔をするのが、いかにもイーストウッドらしいキャラクターだ。自宅の周辺にはアジア系の住民が多いが、コワルスキーは「米食い虫め」と差別的な言動を隠そうとしない。ある夜、隣に住む少年タオ(ビー・バン)がグラン・トリノを盗もうとガレージに入った。タオは従兄弟がいる不良グループにそそのかされたのだ。そこからコワルスキーとタオの家族らとの交流が始まる。タオとその姉スー(アニー・ハー)は不良グループから脅かされていた。

コワルスキーは朝鮮戦争に従軍した経験がある。この設定で真っ先に思い浮かぶのは「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦争」の軍曹トム・ハイウェイ。イーストウッドはパンフレットのインタビューで否定しているが、「ダーティハリー」や「ダーティファイター」などのキャラクターも入っていると思う。コワルスキーの誕生日に息子夫婦がプレゼントするのがマジックハンドと文字の大きな電話。おまけに息子夫婦は老人施設に入るように勧め、コワルスキーの怒りを買う、というエピソードがおかしい。もはや息子たちとは理解し合えず、疎外感を持つコワルスキーは隣家の家族たち、特にタオに愛情を注ぐようになる。こうした後輩を指導する設定は「ダーティハリー」ではおなじみのものだった。「ラスト・シューティスト」と書いたけれど、同じくジョン・ウェインの「11人のカウボーイ」も彷彿させる。

イーストウッド以外はノースターと言って良い映画だが、充実している。脚本は新人のニック・シェンクで、「ミリオンダラー・ベイビー」を最後にしようと考えていたイーストウッドに再び演技させるだけの内容を持っている。イーストウッドファンならこの内容に深い感慨を覚えるだろうが、そうでなくても広く支持される映画だと思う。

「鴨川ホルモー」パンフレット 少なくとも、パパイヤ鈴木が振り付けたというおかしなポーズに合わせて「ゲロンチョリー!」「ピッキピー!」と真剣に叫ぶ栗山千明と、冴えない京大生をコミカルにリアルに演じる山田孝之に関して言えば、僕は十分に満足した。原作者の万城目学(まきめまなぶ)によれば、「これは傍目から見ればどうでもいいサークル活動に、とめどなく貴重な時間をつぎ込む大学生たちの話」。この言葉は観客から見ればバカバカしい設定と展開に真面目に取り組む出演者たちの姿がそのまま重なる。

映画としては少し弾け方が足りず、奇想天外な祭りホルモーの描写にもう少し大学生たちの心情を重ねてほしかったという思いが残る。そこがやっぱり同じようにバカバカしいことに取り組む大学生たちを描いたスラップスティック「サマータイムマシン・ブルース」には及ばなかった点だろう。原作ではあまり描かれないオニ(式神)たちのかわいらしい造型や動きのCGは大変よくできている。GONZOとシネグリーオが担当したVFXが素晴らしいだけに、青春小説として完結している原作の意図とは異なるにしても、オニたちの戦いを中心に据えた熱血青春映画にしても良かったのではないかと思う。

監督は「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」「犬と私の10の約束」の本木克英。原作を半分ほど読んで映画を見た。僕が読んだところまでは、映画は原作に忠実だった。原作で笑ったレナウン娘の場面(吉田代替わりの儀の場面)はそのまま映像化されている。映画を見た後に最後まで読んだが、大筋は同じである。違うのは細部で、例えば、楠木ふみ(栗山千明)が十七条ホルモーにおいて初めて戦略の才能を発揮する場面がない。逆に京都上空に大きな黒いオニが出現するのは映画のオリジナルだ。映画は原作のストーリーに沿いながら、細かいオフビートなギャグを入れている。そうしたギャグも悪くないのだが、ドタバタ度とオーソドックス度がやや足りないのだ。何よりドラマの盛り上げ方とテンポが不十分で、良い題材なのに惜しいと思う。

出演者の中では京大青竜会499代目会長の荒川良々は少し原作とイメージが違うが、高村役の濱田岳は原作以上のおかしさ。キャラが立っている。龍谷大フェニックス会長の佐藤めぐみも出番は少ないが、きりっとした感じで良かった。

それにしても、クライマックスに頻出するゲロンチョリー(「つぶせ」の意味)をはじめ、原作にはないオニ語をたくさん考えたスタッフは偉いと思う。映画が大ヒットすれば、流行語大賞を取ってもおかしくない。それぐらいのインパクトがあった。

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