2009年5月アーカイブ

「ROOKIES 卒業」パンフレット 卒業式後に野球部の生徒1人1人が監督の川藤に向かって感謝の言葉を次々に言うシーンがうんざりするほどダサイ。だめ押しのだめ押しのだめ押し的なおまけのシーンで、セリフもありきたり。そこまでのドラマもありきたり、かつダイジェストみたいな内容だなと思って見ていたが、最後まで感心した部分は皆無だった。よくこんな粗雑な脚本で映画化にOKが出たものだと思う。題材自体は良いのにうまく生かせなかった、というか脚本家に話を作る才能がなかったのだろう。おまけに演出も凡庸。映像で語るシーンがなく、言葉でしか表現していないのは映像で語る才能が欠落しているからなのに違いない。だからテレビ版の美点だった出演者たちの熱さが効果を上げていない。どこを切っても平凡のかたまりのような凡作で、こういうお手軽な映画に1800円も払うのはバカバカしいことこの上ない。脚本のいずみ吉紘、監督の平川雄一朗ともテレビ版のスタッフだが、テレビをそのままのスケールで映画化していると、いくら日本映画が好調といっても観客に飽きられてしまうだろう。

森田まさのりのベストセラー・コミックをドラマ化したテレビ版は最終回だけじっくり見た。それがなかなか面白かったので、最初から見てれば良かったかなとちょっと後悔した。再放送時にちらちら見たが、佐藤隆太をはじめとする出演者たちの熱さに好感を持った。映画は二子玉川学園高校(ニコガク)野球部の新入生2人のエピソードと夏の甲子園の東東京予選、そして卒業式までを描く。この構成がまず無茶である。2時間17分と長い上映時間にもかかわらず、話を描き切れていないのだ。上映時間が限られる映画には省略の美学があるが、この映画の東東京予選の描き方、省略の仕方には美学のかけらも工夫もない。単にダイジェスト的に見せているだけだ。ここは安仁屋恵壹(市原隼人)と相手チームの投手との因縁にもっと話を絞った方が良かっただろう。目指したものは野球映画ではなかったらしいが、予定調和的に勝っていくニコガク野球部にリアリティはまったくない。卒業式のシーンなどは長すぎるエピローグとしか思えず、甲子園のベンチを出て行く選手たちのストップモーションで終わっていれば、まだましだっただろう。

「夢にときめけ、明日にきらめけ」などポンポン出てくる熱い言葉は、繰り返されるうちに言葉だけが軽く軽く浮揚しているだけに思えてくる。熱さを表現するには言葉だけではなく、それを裏打ちする熱いドラマが必要だ。

キネ旬5月下旬号のプロデューサーと監督のインタビューによれば、テレビドラマ製作時に意識したのは「スクール・ウォーズ」だったそうだ。僕はこのドラマも見ていないが、映画版「スクール・ウォーズ HERO」(2004年)には感心した。ベテランの関本郁夫監督が過不足のない描写できっちりとした熱血青春映画に仕上げていた。平川監督は「ROOKIES 卒業」が映画3作目だが、どうもこの映画の失敗は脚本家も監督も映画のリズムに慣れていないことが原因にあったのではないかと思われてならない。

Orfanato_2 端正なゴシックホラー。アレハンドロ・アメナーバル「アザーズ」との比較をよく見かけるが、いなくなった子供を捜し回る母親という設定から「ポルターガイスト」、古い屋敷を調査するサイキック(霊媒)が出てくる点で「ヘルハウス」、袋をかぶった子供を見て「エレファント・マン」、古い8ミリの映像から「リング」を連想した。そうした諸々の過去の映画を連想してしまうのは映画の内容自体には新しい部分があまり見あたらないため。「アザーズ」は話に大きな仕掛けがあったが、この映画はオーソドックスそのものなのだ。もう少し新しさも欲しいところだが、母の愛を中心に組み立てた脚本は悪くないと思う。これが監督デビューのフアン・アントニオ・バヨナ(Juan Antonio Bayona)は手堅い演出を見せ、ホラーであるにもかかわらず、映画を悲劇に終わらせず、穏やかで幸福感あふれるラストに着地してみせる。「キャリー」風の人を脅かすような演出もあるのだけれど、基本はじっくりと怖い空気を醸成しているのが好ましい。

ラウラ(ベレン・ルエダ)は夫のカルロス(フェルナンド・カヨ)、息子のシモン(ロジェ・プリンセプ)とともに海辺の屋敷に引っ越してくる。この屋敷はラウラが育った孤児院だった。ここに障害を持つ子供たちのためのホームを造ろうと、ラウラは計画していた。シモンには空想癖があり、屋敷の中や海岸の洞窟で見えない子供としゃべっている。入所希望者を集めたパーティーの日、ラウラに叱責されたシモンは姿を消す。屋敷には以前からポルターガイスト現象が起きており、霊媒(ジェラルディン・チャップリン)の調査で、孤児院だったころ、子供たちに悲惨な事件があったことが分かる。シモンの失踪はその子供たちの霊と関係しているらしい。

登場する死者の霊に悪意はない。これが直接的な描写ばかりのホラーが蔓延するアメリカ映画なら、相当に恐ろしい存在として描いたことだろう。過去の2つの事件のうちの1つを発展させれば、これは「リング」の貞子のような恨みのかたまりの化け物を設定することも可能だった。それをやらず、話を母の愛にまとめた脚本(セルジオ・G・サンチェス)は賢明だったと思う。シモンが生者と死者の境界を乗り越えられるのは難病にかかっていたからという説明にも違和感はない。

「ポルターガイスト」のジョベス・ウィリアムズが魅力的であったように、この映画のベレン・ルエダも1人で映画を背負っている。アメナーバルの「海を飛ぶ夢」で女優デビューし、これが初主演作。1965年生まれで、40歳を過ぎてからの初主演は遅いが、今後も出演作を見たい。

「スラムドッグ$ミリオネア」パンフレット 2000万ルピー(約4000万円)の賞金などジャマールにとってはどうでも良かったに違いない。愛するラティカが無事であり、悪党から逃れられたことが確認できたのだから。愚直なまでに一途なラブストーリーであり、その強いハッピーエンドへの希求がすべてのご都合主義を粉砕する映画である。ジャマールが欲しかったのは賞金ではない。ラティカの愛だけだった。スラム出身の無学な青年なのにクイズの正解を続けられたのは偶然でも運でもなく、運命だったという開き直りの結論が心地よい。

かつてハリウッド映画はこういうタイプの映画を数多く作っていた。僕らはその嘘に心地よく騙されていたのだけれど、そのハリウッド映画のタッチをよりリアルで過酷で悲惨な設定の下で作ったのがこの映画だ。虚構をもっともらしく見せるにはリアルな設定が必要なのだ。ダニー・ボイルはハリウッドの監督ではないし、舞台となったムンバイもハリウッドのような夢の都とは正反対の所だけれど、アメリカンドリームならぬインディアンドリームを描くこの映画はハリウッド映画の精神を確実に継承した映画にほかならず、だからこそアカデミー8部門受賞につながったのだと思う。楽しくて仕方がないエンドクレジットまで充実しまくりの傑作。

ヴィカス・スワラップの原作「ぼくと1ルピーの神様」は買っているが、未読。主人公のジャマール(デーヴ・パテル)は携帯電話会社のお茶くみで、テレビ番組のクイズ$ミリオネアに出演する。1000万ルピーを獲得し、あと1問というところで司会者が警察に通報したために、逮捕される。スラム出身のお茶くみが正解を出し続けられるはずはなく、不正を働いたと疑われたのだ。ジャマールは警察で拷問を受け、なぜ正解できたかを話し始める。どの問題もジャマールがこれまで送ってきた生活にかかわっていた。ジャマールの回想で描かれるムンバイのスラムの描写はひたすら悲惨だ。ジャマールは兄サリームと母親と暮らしていたが、母親はヒンズー教徒の暴動で殺される。幼い兄弟は逃亡の途中、少女ラティカと出会う。ゴミ捨て場で3人で暮らしていた時、ママンという男の一味が声をかけてくる。ママンは子供を集め、物乞いをさせることで金を儲けていた。しかし、そのやり方には恐ろしい秘密が隠されていた。

前半の拷問場面やママンの一味が子供に行う悪行には直接的な描写はなくても目を背けたくなる(アメリカではR指定だった)。3人はそれぞれの道を歩まざるを得なくなり、離ればなれになるが、ジャマールはいつもラティカのことを気にかけていた。ジャマールは兄に再会し、ラティカの行方を突き止めるが、ラティカはどこにも逃げられない環境にある。ジャマールの「愛している」という言葉に「それで?」という答えしか返せないあきらめの状況。他の男のものであっても、顔を傷つけられていてもラティカを求め、救おうとするジャマールの一途さが力強い。悲惨な運命から立ち上がってくる奇跡を描いて、この映画、まったく隙がない。スラムの人たちがテレビを見てジャマールに声援を送る場面は「ロッキー」を彷彿させた。夢と希望をあきらめない姿勢を真正直に描いて冷笑とも気恥ずかしさとも嘘くささとも無縁の映画になっているのが最大の美点だと思う。

「接吻」

| コメント(5) | トラックバック(0)

昨年のキネ旬ベストテン9位の小池栄子主演作。ようやく見た。殺人犯人に共感し、獄中結婚するヒロインを緊密なタッチで描く。「究極の愛が行き着いた、衝撃の結末」というのが映画のコピーで、僕は途中からこの話にどういう決着を付けるのかという興味で見た。ラストの一言によって、劇中に描かれてきたヒロインのこれまでの境遇や考え方がくっきりと浮き彫りになるのが見事。このヒロインの造型はルース・レンデルの気持ちの悪いヒロインが登場する小説を思わせる。レンデルの小説に登場するヒロインは世間の常識が通用しない異質の存在として描かれるのに対して、万田邦敏・珠実コンビの脚本はヒロインに寄り添っている。そこが大きな違い。ヒロインを突き放していず、ヒロインが殺人犯に抱いたような共感と理解が脚本の根底にもあるのだ。リアリティを重視する立場から見れば、小池栄子のようなスタイル抜群の女性を男が放っておくはずはなく、ヒロインのような境遇にはたぶんならないと思う。それでも小林信彦が「神がかり」と書いていた小池栄子の演技は十分な評価に値する。

これは何も知らずに見た方が良い映画で、ネタは割っていないが、未見の人は以下の文章も読まない方がいい。

白昼の住宅街で男が一家3人を金槌で殴り殺す。男の名前は坂口秋生(豊川悦司)。坂口は警察とマスコミに自分の犯行であることを告げ、逮捕される。その際に浮かべた笑みをテレビで見て、遠藤京子(小池栄子)は坂口の記事のスクラップを始める。坂口の生い立ちをノートに記録し、裁判を傍聴し、「あの人の声が聞きたい」と思うようになる。京子は坂口の国選弁護人・長谷川(仲村トオル)に接近し、坂口に差し入れし、手紙を書く。「あなたともっと早く知り合っていれば」。坂口は不遇な生き方をしてきたが、京子もまた家族とは疎遠で、職場では同僚から都合良く使われるだけの存在だった。京子は坂口の笑みを見て、自分と同類の存在であることを知ったのだ。

坂口と結婚した京子がそれを取材に来たマスコミに対して向ける笑みは坂口の笑みより怖い。それは京子自身が説明するように、自分をつまはじきにしてきた世間に対する宣戦布告を意味するからだ。京子の一途な考え方からすれば、ラストがこうなるのは当然と思える。このラストから浮かび上がるのは深い絶望感と疎外感の果てに行き着いた現在の京子の姿だ。万田邦敏のデビュー作のタイトルを借りれば、これは「UNLOVED」に生きてきた京子が思いを通した結末なのだ。一般常識から見れば京子の在り方は異質だが、そう仕向けたのは世間の方であり、京子にとっては世間の方が異質なのである。そしてその在り方は京子との交流を通じて人間性を取り戻す坂口よりも絶望的に凝り固まったものだ。

これがオリジナル脚本であることを高く評価したい。「UNLOVED」が見たくなったが、DVDは出ていない。その代わり、「UNLOVED」のホームページではパンフレットに収録されたという小説『愛されざる者』が公開されている。

アーカイブ

ウェブページ

2010年4月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

このアーカイブについて

このページには、2009年5月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2009年4月です。

次のアーカイブは2009年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。