2009年6月アーカイブ

「愛を読むひと」パンフレット どんな境遇にあっても人は物語を求める。主人公のハンナ・シュミット(ケイト・ウィンスレット)がアントン・チェーホフ「犬を連れた奥さん」(The Lady with the Dog)を刑務所の図書館で借りる場面には高揚感と同時に胸に迫るものがある。ハンナはマイケル・バーグ(レイフ・ファインズ)が朗読したテープでこのタイトルを聞いて単語の数を数え、1ページ目に"The"を発見し、「The、The、The」とつぶやく。ハンナにとって、これは新しい世界、自分が切望していた物語の世界に自分の力だけで近づく第一歩となった。戦犯裁判で筆跡を調べるために自分の名前を書くように要求される場面があるから余計に胸に迫るのだ。

ハンナの生い立ちに関して映画は言及しないが、恐らく貧しい家庭に生まれ育ったのだろう。裁判でハンナ1人に罪を押しつけようとするかつての同僚の女たちの姿には腹が立つが、ハンナはそれに抵抗することができない。他人に言えない秘密を持った人間は、たとえそれが世間から見れば些細なことであっても、常にそれに苛まれる。だからこそハンナには、たくさんの物語を朗読してくれた21歳年下のマイケルと関係を持っていた時期が幸福に輝いたに違いない。

ベルンハルト・シュリンクの原作「朗読者」は9年前に読んだが、短くて物足りなかった。もっと詳細な描写が欲しいと思った。しかし、映画化するにはちょうど良い長さだったようで、スティーブン・ダルドリー監督は情感たっぷりの描写を重ねてほれぼれするような傑作に仕上げた。ケイト・ウィンスレットは短くて物足りない原作の行間を埋めるような細かい演技を見せる。前半の官能的なラブシーンにも目を奪われるが、後半、戦犯裁判から刑務所に至る厳しいシーンにもリアリティがあふれる。アカデミー主演女優賞は当然だなと思った。当初キャスティングされていたニコール・キッドマンの硬質の美貌よりも、生活感をにじませたウィンスレットの方がこの悲しい映画のヒロインにはふさわしい。時間軸を前後に動かして語るデヴィッド・ヘアの脚本とダルドリーの緊密で的確な演出、出演者の好演が相まって原作を超える作品になった。

自分の力だけではどうすることもできない境遇に置かれた人間が命令に忠実に従ったことによって罪を犯す。映画は「私は貝になりたい」のようにBC級戦犯にある程度共通していたであろう問題を根底に置きながら、やはりそれを許すことはできないと結論する。客観的にそれは正しいのだろうが、罪に問われた人間の本当の姿を知る人にはそれだけのことではない。それを同時に提示している。朗読者であり、ハンナの唯一の理解者であったマイケルの現在の苦悩を描くことで深い奥行きのある作品になった。1人の女の生涯を描くことでさまざまな問題を浮かび上がらせるという優れた物語が持つ多面的な魅力をこの映画もまた持っている。

「トランスフォーマー リベンジ」 前作はあまりの子供っぽさに唖然とした。今回はその反動か、主人公が大学生になったためか、子供っぽさは随分抑えられたが、下ネタがやや過剰だ。これだと前作のように夏休みのファミリー向け映画としては売りにくいだろう。マイケル・ベイの演出も相当に雑、というか大雑把である。物量を駆使したVFXとアクションは確かに凄い。だが、金属生命体の動きが立体感に乏しい場面もあったりして、見ているうちに飽きてくる。きっちりドラマを作った上でのスペクタクルじゃないと、面白さが半減してしまう。毎度のことながら、どうもベイの演出、ドラマをないがしろにしがちなのである。面白かったのは人間に変身したディセプティコンの女(イザベル・ルーカス)が突然正体を現し、長い金属の舌を主人公の首に巻き付ける場面。川尻善昭「妖獣都市」冒頭のエロティックな蜘蛛女を思わせた。巨大ロボットばかりではなく、こういうのをたくさん出して欲しかったが、そうなると、トランスフォーマーではなくなるかもしれない。前作に続いて普通の青年のシャイア・ラブーフとセクシー度を大幅にアップしたミーガン・フォックスは良かった。

前作から2年。主人公のサム・ウィトウィッキーは大学に入学し、ガールフレンドのミカエラ・ベインズ、両親とは離れて暮らすことになる。引っ越しの日、2年前の戦いで着ていた洋服からオールスパーク(金属に生命を吹き込む力を持つキューブ)の破片が落ち、それに触ったサムは記号や文字の幻覚が見えるようになる。一方、オートボットとディセプティコンの戦いは続いていた。ディセプティコンたちは太陽を破壊する兵器に必要なマトリクスの隠された場所を探していた。その地図はサムの頭の中にあり、サムを狙ってくる。オートボットのオプティマス・プライムはサムを守ろうとして破壊されてしまう。サムはオプティマスを復活させるため、マトリクスを探してエジプトに向かう。

クライマックスはエジプトのピラミッドを舞台にしたアクション。ピラミッドがガラガラと崩れていく場面や多数のロボットが入り乱れた戦いを見せ、見応えはそこそこあるのだが、それまでにも巨大ロボット同士の戦いをさんざん見せられているため、驚きはない。ロボットの戦いとドラマにもっと緊密な結びつきが欲しいところだ。と、スケールはアップしていても、前回と同じような感想になってしまう。

パンフレットによれば、マイケル・ベイは007シリーズのようにアクション専門の第2班監督を置かず、アクション場面もすべて自分で演出するそうだ。アクションに自信があるのだろう。逆に言えば、だから全体を第2班監督が演出したような出来にしかならないのだ。あり得ないことだけれど、ベイはアクション専門にして、全体をスピルバーグが演出すれば、もっと面白くなるのではないかと思う。それと、サムの愛車カマロから変身するバンブルビーが別れの場面で膨大な量の水を流す場面など、僕には不要に思える。お茶目でユーモラスなこういうシーン、お子様と女性しか喜ばない。

このカマロもそうだが、この映画、前作に続いてGMが全面協力したそうで、大いにPRになっている。ツインズが変身する小型車シボレー・ビートは韓国のGM大宇(デウ)と共同製作し、今年発売される。国有化されたGM、これでトランスフォームできるか。

「ターミネーター4」パンフレット 心臓と脳は人間で体は機械。映画にサイボーグという言葉は出てこないが、マーカス・ライト(サム・ワーシントン)はサイボーグにほかならない。同じ構造のロボコップがそうであったようにマーカスにも悲哀が漂う。スカイネットによる核戦争が勃発したジャッジメント・デイ(審判の日)の後、機械が支配した未来社会での人類の抵抗戦を描くこの映画、マーカスという新キャラクターを作ったことで作品に奥行きが生まれた。ジョン・コナーよりもカイル・リースよりも苦悩を背負うマーカスの方が主役にふさわしい深みを兼ね備えているのだ。

アメリカでのややネガティブな評価を読んでいたし、脳天気な「チャーリーズ・エンジェル」の監督という先入観があったのでマックGの演出にも不安を持っていたが、単なるSF戦争アクションではなく、そうした奥行きがあることで評価できる作品になったと思う。明るい「スター・トレック」とは正反対の暗さのため万人受けはしないと思うが、マーカスの行く末を知るためにも続きが見たくなる。惜しいのはジョン・コナーの運命。製作者たちにもう少し見識と勇気があれば、あそこでああいう展開にはしなかっただろう。斬新な映画になり損ねたのが悔やまれる。

兄と警官2人を殺したマーカスは2003年、死刑になる。その直前、サイバーダイン社のセレーナ・コーガン(ヘレナ・ボナム・カーター)と献体の契約を交わしていた。2018年、マーカスはなぜか復活し、抵抗軍のLA支部にいたカイル・リース(アントン・イェルチン)と出会う。支部といっても、カイルと口のきけない少女スター(ジェイダグレイス・ベリー)の2人だけ。マーカスは行動をともにするが、カイルとスターは大型輸送機トランスポートに捕らわれ、スカイネットの基地に連れ去られてしまう。マシンの一番の標的はジョン・コナー(クリスチャン・ベイル)の父親となるカイルだった。救援に現れた戦闘機A-10の女性パイロット、ブレア・ウィリアムズ(ムーン・ブラッドグッド)に導かれ、マーカスは抵抗軍の基地に向かう。そのころ、抵抗軍はマシンを制御する短波を発見、4日後にスカイネットの基地に総攻撃をかけることを決断する。人質を見殺しとする司令部の方針にコナーは反対し、カイル救出に向かう。

カイルを演じるアントン・イェルチンは「スター・トレック」のチェコフ役。ロシア語なまりの英語とたぐいまれな才能を発揮する場面で大いに笑わせてくれたが、今回はシリアスな演技を見せる。クリスチャン・ベイルは「ダークナイト」に続いて暗い演技で悪くはない。しかし、この映画で光っているのはサム・ワーシントンとムーン・ブラッドグッドだ。マーカスの正体を知ったブレアはそれでもマーカスを逃がそうとする。スカイネットの基地で自分の本当の役割を知らされるマーカスの姿は悲しい。「司令部は、マシーンのように冷徹に戦えという。我々は人間だ。マシーンと同じなら勝利になんの意味がある」。そういうコナーのセリフと相まって、機械と人間の違いというテーマをもっと前面に出していれば、映画は「ブレードランナー」に連なる傑作と胸を張って呼べたことだろう。

スケールの大きなアクション場面などマックGの演出はほめるべきだが、テーマを深化させるところで配慮がやや足りなかった。SF戦争アクションのその先に到達しそうでしなかったのはかえすがえすも惜しい。

「スター・トレック」パンフレット ロミュランの宇宙船からバルカン星に伸びるパルス兵器を破壊するため、シャトルから飛び降りるカーク、スールーら3人の場面からバルカン星のブラックホールによる崩壊、惑星デルタ・ヴェガのモンスターとのチェイス、そしてレナード・ニモイの登場へと至る中盤が圧倒的に素晴らしい。たたみかけるような演出とはこういうシークエンスの連続を言うのだ。それよりも何よりもニモイのシワが刻まれた顔は「スター・トレック」の長い歴史の象徴であり、見ているこちらも感慨を覚えてしまう。僕はテレビシリーズ「宇宙大作戦」は熱心に見ていたが、劇場版はそんなに追いかけていず、ネクスト・ジェネレーションの話はほとんど知らないし、興味もない。それでもニモイを登場させたことによって、この映画がシリーズを再起動させる成功につながったことは疑いようがないと思う。原典への敬意を忘れない作りが好ましい。テレビシリーズで毎回流れたナレーションと音楽が再現されたラストはトレッキーたちを狂喜させるに違いない。「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」と同様に第1作につながる作りなのである。

急いで付け加えておくと、この映画は「スター・トレック」の始まりの物語であり、これまでのシリーズを見ていなくても十分に楽しめる。単なる前日談に終わっていないところがまた素晴らしく、新たなスタッフ、キャストによる元のシリーズとは違う世界(パラレルワールド)のスター・トレックになっているのだ。だから「スター・ウォーズ」のように円環は閉じてはいない。

劇場版第1作の「スタートレック」(1979年、Star Trek : The Motion Picture)は本格SF風のアイデアが基本にあり、コアなSFファンをも楽しませた。しかし、ロバート・ワイズ監督によるこの超大作はキャストがテレビ版と同じであっても本来スペースオペラであるシリーズとは微妙に味わいが異なっていた。第2作以降は本来のスケールに戻ったが、面白さもそこそこという感じだった。キャストの高齢化も一般受けしない原因であったように思う。今回の映画も話のスケールとしては決して大きくはないが、そのスケールの中でめいっぱいのアイデアと巧みな演出が駆使されて、シリーズの中では破格の面白さとなっている。

話は西暦2233年、連邦の宇宙船USSケルヴィンが巨大な宇宙船から攻撃を受ける場面で始まる。死亡した船長に代わってジョージ・カーク(クリス・ヘンズワース)が指揮を務め、乗組員800人を脱出させた後、ジョージは生まれたばかりの息子にジェームズと名前を付けて船と運命をともにする。船長を務めたのはわずか12分間だった。25年後、ジェームズ・タイベリアス・カーク(クリス・パイン)は宇宙船USSエンタープライズに乗り組むことになる。バルカン星域にワープしたエンタープライズはそこで巨大な宇宙船と遭遇する。宇宙船はブラックホールによるタイムスリップで未来から来たもので、ロミュラン人船長のネロ(エリック・バナ)は連邦への復讐を図っていたのだ。

カークがエンタープライズに乗り組んだ後、ドクター・マッコイやスコット、スールーらおなじみの面々が次々に登場してきてファンならうれしくなるだろう。さらに中盤から映画は面白さを加速していく。カークとスポック(ザッカリー・クイント)の確執を軸に笑いを織り交ぜて進行する語り口は見事と言って良い。監督のJ・J・エイブラムスはトレッキーではないそうなので、シリーズを知らない一般観客へのサービスをてんこ盛りにしているのだ。エイブラムス、「M:i:III」でもスピーディーな演出に冴えを見せていたが、今回もその演出に誤りはなかった。クリス・パインも若くて元気の良いカークを好演しており、映画の出来が良かったこともあって、既に第2作の製作が決まっているそうだ。唯一、気になったのは死者をむち打つようなロミュランへの仕打ちだが、目をつぶっておく。

スポックの母親役の女優が美人だなと思ったら、久しぶりのウィノナ・ライダーだった。残念なことにライダーの写真はパンフレットにはなかった。

「天使と悪魔」パンフレット ダン・ブラウンのベストセラーを「ダ・ヴィンチ・コード」に続いて、ロン・ハワード監督が映画化。原作は未読、前作も見ていないから比較のしようがないが、アキヴァ・ゴールズマンとデヴィッド・コープが脚本を書けば、これぐらいの話になるのは当然で、この過不足ない脚本を得てロン・ハワードはスピード感たっぷりの演出で2時間18分を突っ走る。ハワードは正統的なハリウッド映画を継いだ監督で、こうした大作を撮るのにふさわしい。特に後半の展開とクライマックスのスケールの大きさには見応えがあった。ハンス・ジマーの音楽もスピード感とサスペンスを大いに煽っている。しかし、面白いだけの映画という言い方がピッタリ来るのが悲しいところ。後に何も残らないけど、面白ければいいんじゃない、という映画なのである。登場人物のキャラクターを描き込めば、サスペンスはもっと高まっただろうし、情感も生まれただろう。そこがすっぽり抜け落ちているのが残念だ。ハワードは面白い映画について何か誤解しているのかもしれない。

スイスの欧州原子核研究機構(CERN)で生成に成功した反物質が何者かに強奪される。同じころ、4人の枢機卿が誘拐され、カトリックに憎しみを抱く伝説的な秘密結社イルミナティから脅迫状が届く。折しも、ローマ教皇が死に、ヴァチカンでは次の教皇を選ぶコンクラーベが行われようとしていた。イルミナティは教皇候補を殺すとともに、反物質によって、ヴァチカンを消滅させようとしているらしい。ハーヴァード大学の宗教象徴学教授のロバート・ラングドン(トム・ハンクス)はヴァチカンに呼ばれ、CERNの女性科学者ヴィットリオ・ヴェトラ(アイェレット・ゾラー)とともに4人の枢機卿の行方を追う。やがて枢機卿は1時間おきに殺されていく。そして反物質の爆発リミットが迫ってくる。

前半、枢機卿が1人ずつ殺されていく場面は殺し方にそれほどの工夫がなく、ラングドンがちっとも間に合わないのに加えて構成もやや単調。火あぶりにされる枢機卿の場面はやっと間に合ったかと思ったら、警官隊が犯人1人に手こずって次々に殺され、枢機卿の火あぶりを促進するような結果になってしまう体たらく。タイムリミットが迫ってから面白くなったが、ツッコミ所は多く、なぜ反物質の生成が犯人に分かったのかとか、なぜ研究所に忍び込めたのかとか、あまりに敵側のスケールが小さいのではないかとか、気になってくる。脚本は細部の説明を省略してスピード感に力を入れたのかもしれない。映画としてはそれほど間違っていない脚本の作りだが、やや荒っぽいところはある。

ヴィットリオ役には当初、ナオミ・ワッツがキャスティングされる予定だったそうだ。ワッツならもっと情感が生まれたのではないかと思う。アイェレット・ゾラーは姿形は整っているけれども、どうも魅力的な雰囲気に欠ける。もっとも、この華を添えるだけに等しい役柄では魅力を発揮するのは難しかったのだろう。

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