2009年7月アーカイブ

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」パンフレット 新キャラクターの真希波・マリ・イラストリアスがヱヴァ仮設5号機で第3使徒と戦うオープニングを見て、これは完全新作かと思ったが、見終わってみれば、テレビシリーズをスケールアップさせた語り直しという印象に収まる。「序」を作る際に語られたリビルドという言葉が今回はなく、スタッフは「破」について(既存の物語の)「破壊」を意図したそうだけれど、細部は変わっていても大筋は変わらないのでそれほど破壊された印象はないのだ。その印象は主にクライマックスが第19話「男の戦い」になっていることから来る。

テレビシリーズを見ていてショックを受けた「男の戦い」は、「ウォーン」と吠えながら使徒をガツガツとむさぼり食うヱヴァ初号機の姿と、装甲ではなく拘束具というヱヴァの驚くべき秘密が明かされる。このショックはそのままヱヴァ全体のイメージにつながった。「男の戦い」は名作という評価が定まっているそうだが、その通りだと思う。

第8話から19話までを映画化した「破」はクライマックスにこのショッキングなシーンを据え、そこをテレビシリーズからスケールアップすることで、成立している。正直に言えば、そこに至るまでの構成の単調さと、この展開を描くなら、別の語り口があったはずという思いは見ていて消えず、評判ほどの傑作とは思えなかった。しかし、個人的に20話以降を主に物理的な理由で見ていない(最後の2話を除く)ので、次の「急」ならぬ「Q」への期待は高まった。

驚いたのは突然、「太陽を盗んだ男」のテーマが流れたこと。シンジやアスカや綾波の日常を描くシーンに流れるこの音楽は絵コンテとイメージボードを担当した樋口真嗣の趣味なのだという。他の「365歩のマーチ」や「今日の日はさようなら」「翼をください」「恋の季節」「ふりむかないで」という60年代から70年代にかけての歌の数々は庵野秀明の趣味なのか。ついでにミサトの携帯の着信音が「ウルトラマン」の科学特捜隊の無線着信音と同じなのも庵野の趣味なのだろう。「今日の日はさようなら」と「翼をください」は使い方としては戦闘シーンの意味に妙に合いすぎている気がしてそれほど感心しなかった。

感心はしなかったのだけれど、どうもこういう音楽の使い方に触れると、同世代感というのがむくむくと頭をもたげてしまう。僕がヱヴァに惹かれるのはウルトラマンや怪獣映画に熱中した同世代が作っている作品という部分を感じるからかもしれない。すごく感心する部分はないのだけれど、ほほえましさを感じてしまう。「Q」のタイトルも「ウルトラQ」から来ているのではと勘ぐりたくなるのだ。

ところで、「破」を見る前に「序」をDVDで見ていて思ったのは第3新東京市のビルが生えてくる描写はアレックス・プロヤス「ダークシティ」(1998年)に影響を与えているのではないかということ。「ダークシティ」は「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」の影響が顕著だったが、プロヤスはSF好きなので、ヱヴァの影響もあり得るかもしれない。

Chaser 頭にノミを当ててハンマーを振り下ろす。あるいはハンマーで殴り殺す。10カ月で21人を殺害した韓国の連続殺人犯ユ・ヨンチョルの事件を元にしたダークなサスペンス。殺人鬼の研究ではなく、それを追うデリヘル経営者の元刑事を主人公にして映画はエネルギッシュに疾走する。このエネルギッシュさと緊張感あふれるサスペンス、ソウルの街並みで展開するドラマのリアリティが渾然一体となり、映画には異様な迫力がみなぎっている。醸成されるサスペンスは監禁され、重傷を負ったデリヘル嬢ミジン(ソ・ヨンヒ)が助かるかどうかだが、監督のナ・ホンジンは観客をいったん安心させた後、地獄に突き落とす。それも含めて第一級のエンタテインメントだ。

随所に挟み込まれる血肉の通ったユーモアと血肉が飛び散る凄惨な場面、一転して静かな場面を描く演出の確かさ。エネルギッシュな主演のキム・ヨンソクと冷酷な爬虫類のようなハ・ジョンウの狂気を忍ばせた演技。どれを取っても素晴らしい。殺人鬼を生んだ社会環境まで取り込めば、映画は満点の出来になっていただろうが、狙っていることが違うのだから傷とも言えない。救いのない展開は救いのない社会を遠く照射しているとも言えるだろう。さまざまな要素にただただ圧倒される映画である。

実際のユ・ヨンチョルはベトナム戦争帰りの父親から虐待され、貧しい家庭に育ち、色覚障害のため画家になる夢も断たれた。自分を理不尽な環境に置いた社会への復讐の意味合いが理不尽な犯行の底にあったのかもしれない。ヨンチョルは遺体を切断して一部を食べたとされるが、映画はそうした事件の背景を詳細に反映しているわけではない。殺人鬼を性的不能者と規定し、殺人の動機をある意味、一般的なサイコキラーに単純化している。この脚色は賢明だし、だから一直線のエンタテインメントとして成立しているのだ。

デリヘル経営のジュンホ(キム・ヨンソク)がヨンミン(ハ・ジョンウ)を追うのはヨンミンが殺人鬼だからではない。デリヘル嬢2人を売り飛ばし、3人目も売り飛ばそうとしていると思い込んだからで、私怨に基づいた追跡劇であり、当初の行動に正義感などは微塵もない。追い詰めてみたら殺人鬼だったと分かる展開が自然だ。証拠不十分でヨンミンを釈放せざるを得ない警察の無能ぶりとミジンの監禁場所が一向に分からない展開は観客をいらいらさせるが、これも計算のうち。早々にヨンミンは捕まるのに絶望的なサスペンスが途切れない。唯一の救いはミジンの7歳の娘ウンジ(キム・ユジョン)で、けがをして入院したウンジの病室に悄然とたたずむジュンホは、同行せざるを得なくなったこの生意気な娘とともに生きることで更生するのかもしれないなと思わせる。

ナ・ホンジン監督はキネ旬5月上旬号のインタビューで「描こうとしたのは社会構造の、一つの歪みです」と語っている。歪みを直接的に描かず、物語によって間接的に浮かび上がらせたのはかなり高等なテクニックと言える。同時に僕が感心したのは静かな場面にあるフランスのノワール映画のような雰囲気と、主人公の激情があふれる描写のうまさ。推敲を重ねたという脚本の構成以上にナ・ホンジンは際だった描写力のある監督だなと思う。

Monster エイリアンの巨大ロボットに対峙した大統領がキーボードで「未知との遭遇」の5音階を弾く。エイリアンとコミュニケーションを取る手段と言えば、未だにこれが真っ先に思い浮かぶが、調子に乗った大統領はハロルド・フォルターメイヤー「アクセルF」(「ビバリーヒルズ・コップ」のテーマ)も弾いてしまう。こうした過去の映画のさまざまなパロディや散りばめられたギャグも楽しいけれど、まず友情と正義、人は見かけじゃないことをしっかりと伝えていることが成功の理由だろう。危地に陥った仲間のモンスターを助けるために主人公スーザンが取る選択は人として理想的なもので、ドリームワークスの3DCGアニメもピクサーみたいになってきたなと思う。子供を安心して連れて行けて、大人も楽しめるファミリー映画の佳作。

スーザンはテレビキャスターのデレクとの結婚式の当日、隕石の直撃を受け、身長15メートルに巨大化してしまう。軍隊に捕まったスーザンが目を覚ますと、そこには半猿半魚のミッシング・リンクやゴキブリと合体したマッドサイエンティストのコックローチ博士、ゼラチン状のボブ、巨大なムシザウルスがいた。これらのモンスターたちはモンガー将軍によって捕獲され、秘密基地に閉じ込められていたのだ。その頃、邪悪なエイリアンのギャラクサーが地球征服をたくらみ、攻撃を仕掛けてくる。モンガー将軍は大統領にモンスターたちの出動を進言する。

巨大化したスーザンがデレクのジコチューな本質に気づくあたりが真っ当な展開で、こういう部分がないと、単なるコメディ映画になってしまう。スーザンの元ネタは「妖怪巨大女」(およびリメイクの「ジャイアント・ウーマン」)。ミッシング・リンクは「大アマゾンの半魚人」、コックローチ博士は「蠅男の恐怖」(リメイク版は「ザ・フライ」)、ボブは「マックイーンの絶対の危機」(同「ブロブ 宇宙からの不明物体」)と50年代SF映画のモンスターが元になっている。ムシザウルスのみ不明だが、放射能で巨大化したのを見ると、ゴジラとモスラを組み合わせたものだろう。製作者たちがこういうSF映画を好きなのがよく分かるキャラクター作りだ。

監督はロブ・レターマンとコンラッド・バーノン。レターマンは「シャーク・テイル」の監督で次作は「ガリバー旅行記」をテーマにしたコメディというから、本作はその足がかりにもなったのか。バーノンは声優でもあり、「シュレック2」で監督を務めた。 

3D版は日本語吹き替え版のみになるが、スーザンを演じるベッキーをはじめ声優は悪くなかった。3D効果は満点で、思わず手を伸ばしたり、向かってくる物体を避けたくなる。3D眼鏡は僕には違和感はなかったが、一緒に見た次女は眼鏡が大きくて合わず、気分が悪くなった。コストはかかるかもしれないが、大人子供兼用ではなく、子供専用の眼鏡も用意した方がいいだろう。

海で溺れた子供を助けようとして命を落とした長男順平の15回忌に集まった家族の1日を描く。亡くなった長男というと、まるでロバート・レッドフォード「普通の人々」のようなシチュエーションだが、あの映画ほどギスギスした厳しい展開はなく、何も起こらないのが逆に良い。普通の家庭の普通の人々がその心の中には何らかのわだかまりを持っている。それが会話の中に時折ふっと意図しないのに浮上して、それを聞いて心を少し痛める人がいる。ちょっとぎくしゃくしながらも家族は続いていく。そうした日常の光景を丹念に描いて是枝裕和、うまいと思う。血肉の通ったユーモアと優しい視点が映画に溢れている。かつての日本映画は小津安二郎をはじめ、こういうホームドラマが多かったが、今は極端に少ないだけに貴重な作品だ。

優秀な兄が死んで出来の悪い弟が生き残る。家族の中には死んだ長男の影が重く横たわっているという設定は「普通の人々」に限らず、過去の映画や物語に例がある。そういう作品の場合、クライマックスには何らかの感情の爆発があり、それが収束していくというパターンが多い。この映画のそれは黄色いチョウチョになるのだろうが、ずっと穏やかだ。「黄色いチョウは白いチョウが死なずに1年たって帰って来たもの」という母親の言葉は死んだ長男と重なっている。墓地で見つけたその夜、家の中に入ってきたチョウを母親が、「順平が帰ってきた」と言って追いかける。「逃がしなさい」という父親。母親がおかしくなったんじゃないかと思う次男。さざ波は立つけれども、破壊的にはならず、やがて収まる。いかにもありそうな描写だ。

父親と息子の関係、その息子と義理の息子との関係、母親と嫁の関係、姉夫婦と両親の関係が日常会話の中で見事に浮き彫りになっていく。「歩いても歩いても」のタイトルは母親が好きないしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」から来ている。「小舟のように揺れる」家族がそれでも続いていくのを象徴しているのだろう。

ゴンチチの優しい音楽と阿部寛、夏川結衣の次男夫婦が素敵だ。キネマ旬報ベストテン5位。それだけではなく、海外の多くの映画祭で受賞している。こういう家族の問題は世界に共通するのだ。

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