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2005年11月14日 [Mon]

[MOVIE] 「ALWAYS 三丁目の夕日」

「ALWAYS 三丁目の夕日」パンフレット「ジュブナイル」「リターナー」の山崎貴監督が西岸良平の原作コミックを映画化。山崎貴は得意のVFXで昭和33年の東京を詳細に再現し、そこで繰り広げられる人情ドラマを笑わせて泣かせる演出でうまく描き出している。少なくとも西岸良平コミックの実写映画化としては文句の付けようのない作品になった。出演者がそれぞれに良く、直情径行型の自動車修理工場の社長を演じる堤真一と薄幸ながらいい女っぷりを見せつける小雪の2人に特に感心した。堤真一の妻役の薬師丸ひろ子や売れない小説家の吉岡秀隆、集団就職で青森から出てきた堀北真希、子役2人もうまい。役者たちが映画に貢献した部分は大きいと思う。ダイハツミゼットや氷式の冷蔵庫、フラフープ、都電、湯たんぽ、駄菓子屋のくじなどなどの懐かしいガジェットとともに語られるエピソードはどれも家族の絆を描いたものである。山崎貴は作りの上で「ラブ・アクチュアリー」を参考にしたそうだ。だからこれは「家族愛アクチュアリー」でもあるのだろう。

建設中の東京タワーが見える東京の下町。自動車修理工場・鈴木オートに集団就職で青森から星野六子(堀北真希)がやってくる。立派な自動車会社を期待していた六子は小さな工場と知って少しがっかり。社長の鈴木(堤真一)は喜怒哀楽をそのまま出すが、悪い男ではない。妻のトモエ(薬師丸ひろ子)は優しく、やんちゃな小学生の一平(小清水一揮)もいる。鈴木オートの向かいには売れない小説家で駄菓子屋を営む茶川竜之介(吉岡秀隆)がいる。茶川は行きつけの飲み屋のヒロミ(小雪)から頼まれ、酔った勢いで知り合いの息子の小学生・古行淳之介(須賀健太)を預かることになる。映画はこの2軒の家をメインにして鈴木家にテレビが来た時の騒動やお盆にも故郷に帰りたがらない六子、ヒロミと淳之介とともに疑似家族を構成していく茶川、淳之介の生い立ち、戦争で妻子を亡くした医者の宅間などの姿を描いていく。

大変よくできた映画であることを認めた上で言うと、全体に人工的な感じがつきまとった。VFXで再現した東京だけでなく、エピソード自体にもそれは感じる。VFXマン出身の山崎貴はVFXを設計するのと同じように話を組み立て、かつての人情話を再現しているように思う。その手つきが人工的なのである。端的に言えば、昭和のテーマパークのような映画というべきか。作家の小林信彦は小説「夢の砦」を書く際に、「1960年代を詳細に描くので若い人にはSFに見えるかもしれない」と語ったが、それと同じことを感じたのである。

例えば、小栗康平が描いた「泥の河」(1981年)の昭和30年代と比較すれば、はっきりするだろう。東京と大阪の舞台の違いはあるにしても、小栗の映画が貧しさに徹底的にリアルだったのに対して、この映画はあくまで高度成長前の理想の時代として昭和30年代を描いている。だから楽しい思い出やちょっと悲しい思い出が詰まったノスタルジー扇動装置としては大いに機能しており、それが中高年を引きつける理由でもあるのだが、ドラマとしては類型的になっている。類型的なドラマであっても数を積み重ね、キャラクターを描き込めば、人を感動させることはできるわけで、その点、山崎貴は頑張ったと思う。しかし、映画全体の作りのうまさは感じても、いつかどこかで聞いたような個々の話の作りにうまさは感じない。ぜいたくな望みかもしれないが、もっとオリジナルな話が見たいと思えてくるのである。

「男はつらいよ」シリーズがなくなった今、これは下町を舞台にしている点で、その代用品として受け取られた側面があるようだ。個人的にはこの映画に成功したからといって、山崎貴にはこの路線を進んでもらいたくはない。人情話を撮れる監督はほかにもいるだろう。VFXを生かしたSFを撮れる監督として山崎貴は貴重な存在なのだ。次作はぜひSFを望みたい。

[MOVIE] 「Dear フランキー」

「Dear フランキー」パンフレット「私は嘘つきの母親だわ」

「違う。君はフランキーを守ってるんだ」

スコットランドの港町に引っ越してきた9歳の少年フランキー(ジャック・マケルホーン)は難聴で言葉をしゃべれない。いや、しゃべろうとしない。船に乗っている父親から届く手紙が唯一の楽しみである。しかし、父親は船になど乗ってはいなかった。母親のリジー(エミリー・モーティマー)がフランキーの手紙に返事を書き続けているのだ。手紙を出している父親は架空の存在である。フランキーはある日、学校の友達から父親の乗っている船が港に帰ってくるというニュースを聞かされる。思いあまったリジーは1日だけ父親の代わりになる男を探す。

予告編を見て、ありふれた設定かと思えたのだが、この映画、脚本、監督、プロデューサーが3人とも女性のためか、母親の描写が細かい。その描写の細かさがあるため、ややご都合主義的展開もそれほど気にならない。友人のマリー(シャロン・スモール)の紹介で父親役を頼んだ見知らぬ男(ジェラルド・バトラー)とリジーが親しくなることは容易に想像がつくのだが、バトラーがあまりにいい男なのでそうなるのも当然と思えてくる。中盤にあるダンスシーンや長く長く見つめ合った後でのキスシーンは2人の思いがあふれるシーンであり、とてもリアルでロマンティックだ。これは母親の心の動きを丹念に見つめた映画であり、女性映画と言っていいと思う。監督はこれが長編デビューのショーナ・オーバック。

一緒に住む母親のネル(メアリー・リガンズ)から言われるまでもなく、リジーはフランキーに嘘をつき続けることはよくないと分かっている。それでも続けてしまうのは手紙がしゃべらないフランキーの心の声を聞く唯一の手段だからだ。一家は夫の追求を逃れてたびたび引っ越しているが、それがなぜかを徐々に映画は明らかにしていく。元は短編だったというアンドレア・ギブの脚本は女性の心理を描き出すと同時に現代的なテーマも盛り込んだ丁寧なものである。ただ、男の方の描写はやや簡単になってしまった。映画を見ていてどう処理するのか興味があったのは夫の扱いだったが、夫がああいう状況になることに伏線がないので、唐突な感じを受ける。ここはああいう状況にせずに、夫とリジーの対決場面が欲しかったところだ。バトラーの役柄にしてもいい男なのは分かるのだが、その真意はよく分からない。リジーの描写の細かさに比べれば、この対照的な男2人の描写は型にはまったものにとどまっている。加えてフランキーへの嘘を終わらせる処理の仕方も少し安易に感じた。そういう部分が各地の映画祭で多数の賞を重ねながら決定的な賞には結びつかなかった要因なのではないかと思う。いい映画だなと思いつつ、見終わってみると、あちこちが気になってくる映画なのである。

若い頃のデミ・ムーアを思わせる容姿のエミリー・モーティマーは内面の脆さを抱えながら強く生きる母親を演じて良かった。ジェラルド・バトラーも「オペラ座の怪人」よりはこちらの方が自然で好感が持てた。


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