ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還

Lord of The Rings : The Return of The King

「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」パンフレット滅びの山に指輪を捨てに行くフロド(イライジャ・ウッド)とサム(ショーン・アスティン)から冥王サウロンの目をそらすため、アラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)率いる軍隊がモルドールの黒門に攻撃を仕掛ける。このクライマックスには胸が震えた。「我々は破滅するかもしれない。しかし、それは今日ではない」。兵士たちを鼓舞するアラゴルンの叫びが力強く響く。指輪を葬り去らなければ、この世界に未来はない。到底かないそうにない無数のオークの軍にアラゴルンやガンダルフ(イアン・マッケラン)やレゴラス(オーランド・ブルーム)やギムリ(ジョン=リス・デイヴィス)たちは死を覚悟して最後の戦いを挑むのだ。滅びの山でのフロドとサムの大変な苦難を同時に描くこのクライマックスは映画の完成度がどうこういうレベルを超えてひたすら感動的である。それはこの奇跡的なトリロジーに全精力を傾けたピーター・ジャクソンの思いが伝わってくるからだろう。第1部からこの第3部まで9時間を超える長い映画のどの場面でもジャクソンは手を抜かなかった。物語のうねりとスケールの大きなVFXの見事な融合。格調の高さを生む正攻法の演出。トリロジーの完結編としてまったく期待を裏切らない。志の高い立派な作品と言うほかない。

映画はスメアゴルの回想で幕を開ける。指輪を拾った友人を殺してスメアゴルは指輪を横取りし、次第に指輪の魔力に取り憑かれ、容貌を醜くしていく。指輪の邪悪な力を端的に表現した場面で、これはクライマックスのフロドの姿と重なるものである。フロドとサムをモルドールへ案内するスメアゴルは前作「二つの塔」での善と悪の葛藤を経て指輪を取り返すことしか頭になくなっている。巧妙に嘘をついて2人を仲違いさせ、フロドを大蜘蛛シェロブのいる洞窟へ連れて行く。一方、アラゴルンたちはサルマンの砦アイゼンガルドでメリー(ドミニク・モナハン)とピピン(ビリー・ボイド)に再会。サウロンの軍隊がゴンドールへの進撃を計画していることを知り、セオデン(バーナード・ヒル)の軍隊とともにゴンドールへ向かう。しかし、サウロンの軍勢に立ち向かうには兵士の数が足りない。裂け谷のエルフ、エルロンド(ヒューゴ・ウィービング)が鍛え直した祖先イシルドゥアの剣を受け取ったアラゴルンはさまよう死者たちを味方にするため、レゴラス、ギムリとともに死者の谷に赴く。ゴンドールの都市ミナス・ティリスにはオークの大群が押し寄せていた。オークの軍勢にはトロルと空飛ぶ怪物に乗るナズグルたちも加わっており、ガンダルフ率いるゴンドールの軍は次第に敗色が濃くなっていく。

ミナス・ティリスの戦いは「二つの塔」の角笛城の戦いのスケールを数倍に拡大したもので、見応え十分である。巨大な象のような動物オリファントと兵士たちとの戦いは「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」の序盤、帝国軍のスノー・ウォーカーとルークたちの戦いを彷彿させ、それ以上に迫力がある(「スター・ウォーズ」に関連して付け加えれば、同じ第3作でタイトルも似ている「ジェダイの復讐」“Return of The Jedi”とこの映画ではまったく比較にならない)。海賊船から降り立つアラゴルンたちの姿は「待ってました」と声を掛けたくなるほどカッコイイし、「人間の男には倒せない」と豪語したナズグルをエオウィン(ミランダ・オットー)が仕留める場面の気持ちよさも最高である。そうしたスペクタクルなシーンも完璧に描かれるけれども、この映画で重要なのはスペクタクル以上に物語を語ることに重点を置いていることだ。フロドとサムの苦難の道のりにある疑心暗鬼と怒りと友情の描写は映画の根底をなすものであり、フロドを支え続けるサムの存在はとても大きい。加えて同じホビットのメリーとピピンも今回、大活躍する。“小さき者が世界を救う”というテーマを人の苦悩とともにジャクソンは徹底的に描き出す。VFXも俳優の演技もハワード・ショアの素晴らしすぎる音楽も美術も衣装もセットもすべて物語を語ることにのみ目的を置き、決して必要以上に出しゃばることはなく、絶妙のバランスが取られている。製作も務めたジャクソンのコントロールは完璧なのである。

ピーター・ジャクソンはこの3部作の製作に7年の歳月をかけた。パンフレットの扉にこう書いている。

しかし、困難にぶつかればぶつかるほど、自分にこう問いかけたものです。
「この作品を作ることの他に、やることがあるのか?」と。
答えはいつも「NO」でした。

長大な原作と格闘するジャクソンの姿はそのまま登場人物たちの困難と重なってくる。映画から受ける分厚い感動はジャクソンの苦闘があってこそのものなのである。奇跡はそのようにして起こるのだろう。

【データ】2003年 アメリカ 3時間23分 配給:日本ヘラルド映画 松竹
監督:ピーター・ジャクソン 製作:バリー・M・オズボーン フラン・ウォルシュ ピーター・ジャクソン 製作総指揮:マーク・オーデスキー ボブ・ワインスタイン ハーヴェイ・ワインスタイン ロバート・シェイ マイケル・リン 原作:J・R・R・トールキン 脚本:フラン・ウォルシュ フィリッパ・ボウエン ピーター・ジャクソン 撮影:アンドリュー・レスニー 美術:グラント・メイジャー 衣装デザイン:ナイラ・ディクソン リチャード・テイラー 音楽:ハワード・ショア スペシャルメイクアップ・SFX・クリーチャー・アーマー・ミニチュア:リチャード・テイラー 特殊効果スーパーバイザー:ジム・リギエル コンセプチュアル・デザイナー:アラン・リー ジョン・ハウ
出演:イライジャ・ウッド イアン・マッケラン リヴ・タイラー ヴィゴ・モーテンセン ショーン・アスティン ケイト・ブランシェット ジョン=リス・デイヴィス バーナード・ヒル ビリー・ボイド ドミニク・モナハン オーランド・ブルーム ヒューゴ・ウィービング ミランダ・オットー デヴィッド・ウェンハム カール・アーバン ジョン・ノーブル アンディ・サーキス イアン・ホルム ショーン・ビーン

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マスター・アンド・コマンダー

Master and Commander : The Far Side of The World

「マスター・アンド・コマンダー」パンフレット恐らく、ピーター・ウィアー監督は海の男の誇りとか心意気などを描くことに興味はないのだろう。パトリック・オブライアンのジャック・オーブリーシリーズ第10作「南太平洋、波瀾の追撃戦」を映画化したこの作品、嵐や砲撃、帆船内部の描写などビジュアルな部分は素晴らしいのにあまり話が盛り上がってこない。エモーションの高まりがないのである。これは主に主人公のキャラクターから来ており、ジャック・オーブリー、立派な軍人ではあっても海洋冒険小説の主人公としては魅力に欠ける。アカデミー10部門にノミネートされながら、2部門のみの受賞(音響編集賞と撮影賞)に終わったのはそんなところに要因があるように思う。

時代は1805年。英国海軍のフリゲート艦サプライズ号は霧の中から現れたフランスの船アケロン号から奇襲を受け、霧の中に逃げ込む。アケロン号は民間の私掠船で捕鯨船を襲っているらしい。船長のジャック・オーブリー(ラッセル・クロウ)は反撃のため、港に引き返すのをやめ、海上で船を修理してアケロン号を追う。サプライズ号よりも速く、大砲の数も多いアケロン号をどう倒すかがメインの話で、これに乗組員と士官の対立など過酷な船内の様子が絡む。

出てくるのは男ばかりなのに男臭さは意外に希薄だ。ウィアーに興味があるのは船長のジャック・オーブリーよりも医師で博物学者のスティーブン(ポール・ベタニー)なのだろう。だから本筋とは関係ないガラパゴス諸島に上陸するエピソードが必要以上に面白くなってしまう。

中盤、嵐の海に落ちた乗組員をオーブリーが泣く泣く見殺しにする場面がある。折れたマストがブレーキとなり、そのままでは船が転覆する恐れがあったためだが、このエピソードがその後の主人公の考えに影響を及ぼさないのは疑問。このほかのエピソードも本筋の物語と深くかかわってこない弱さがあり、原作がどうかは知らないが、脚本にはもう少し情緒的な工夫が必要だった。オーブリーの行動は軍人としては正しいのだろうが、共感できない部分が残るのだ。

【データ】2003年 アメリカ 2時間19分 配給:ブエナ ビスタ インターナショナル
監督:ピーター・ウィアー 製作:サミュエル・ゴールドウィン・ジュニア ピーター・ウィアー ダンカン・ヘンダーソン 製作総指揮:アラン・B・カーティス 原作:パトリック・オブライアン「南太平洋、波瀾の追撃戦」 脚本:ピーター・ウィアー ジョン・コーリー 撮影:ラッセル・ボイド プロダクション・デザイン:ウィリアム・サンデル 衣装デザイン:ウェンディ・スタイテス 視覚効果:アサイラム AND インダストリアル・ライト&マジック 音楽:アイヴァ・デイヴィス クリストファー・ゴードン リチャード・トネッティ
出演:ラッセル・クロウ ポール・ベタニー ビリー・ボイド ジェームズ・ダーシー リー・イングルビー ジョージ・イネス マーク・ルイス・ジョーンズ クリス・ラーキン リチャード・マッケイブ ロバート・パフ デヴィッド・スレルフォール マックス・パーキス エドワード・ウッドオール イアン・マーサー マックス・ベニッツ

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ドッグヴィル

Dogville

「ドッグヴィル」パンフレットロッキー山脈のどん詰まりにある村ドッグヴィルを舞台に村人の虚飾と偽善と悪意を暴き出すラース・フォン・トリアー監督作品。チョークで線を引いただけの最小限のセットといい、ことごとく映画的なものを廃しているようだが、繰り広げられる人間ドラマは密度が濃い。しかも、まったく意外なことに後味が悪くない。これは村人たちに起こるカタストロフがヒロインおよび観客にとってはカタルシスとして作用するからだ。いじめ抜かれたヒロインが最後に復讐する話、と短絡的にも受け取れてしまうのである。トリアーの前作「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のように、ただただ悲劇に悲劇を重ねて気色悪くなるようなことはない。何よりもヒロインを演じるニコール・キッドマンが抜群の魅力を見せる。村人たちにローレン・バコールやベン・ギャザラやクロエ・セヴィニーなど芸達者をそろえたことで、ドラマは重厚さを増し、2時間57分が少しも長くない。

ヒロインは2発の銃声とともにドッグヴィルにやってくる。ワケありのその女グレース(ニコール・キッドマン)をかくまったトム(ポール・ベタニー)は女を探しに来たギャングから「見つけたら連絡をくれ。謝礼ははずむ」と名刺を渡される。若く美しいグレースに惹かれたトムは村人たちを集め、グレースを匿おうと提案する。2週間で村人全員から好意を得られなければ出て行ってもらうという条件付き。次の日からグレースは村の各家で働くようになる。大して仕事もないと思えたが、やらなくてもいいような仕事は大量にあり、グレースは必死に働く。2週間たち、村人は全員、グレースが残ることに同意する。しばらくは幸福な日々。しかし、徐々に村人たちの要求はエスカレートしていき、まるで奴隷のような扱いになる。ついにはリンゴ園を持つチャック(ステラン・スカルスゲート)がグレースをレイプする。トムの協力で村を出て行こうとしたグレースには車輪を鎖でつないだ首輪がはめられてしまう。トムはグレースを愛していると言いながら、協力したことはひた隠しにする。

ドッグヴィルは住民わずか十数人の貧しい村。そこに住む人々が善良と思えるのは最初の方だけで、閉鎖的な社会に渦巻く欲望と悪意が徐々に明らかになる。看守と囚人の役割を振った実験を題材にした「es[エス]」で描かれたように、人間は環境によって変わるものだ。この映画でも強者と弱者(支配者と被支配者)の役割が固定されたために、グレースへの村人の振る舞いは傲慢そのものになってしまう。夫を寝取られた(と誤解した)ヴェラ(パトリシア・クラークソン)が、グレースが大事にしていた7個の人形を1個1個たたき割るシーンなどはぞっとする(ヴェラはラストで、その数倍の仕返しを受けることになる)。「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」というJ・E・アクトンの言葉を持ち出すまでもなく、人間は力を得た瞬間から腐臭を漂わせるものなのだろう。

異色の傑作という形容が実にぴたりと収まる映画。トリアーは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でアメリカのジャーナリストから「行ったこともない国の映画を作った」と非難されたことに怒り、アメリカを舞台にした3部作を作ろうと決意したという。「ドッグヴィル」はその第1作。しかし、これもアメリカ特有の話ではありえず、どこの小さな社会にも通用する内容になっている。その普遍性が良い。グレースの正体を慎重に隠して、それがラストに生きてくる脚本はうまく、これはトリアー作品の中ではベストではないかと思う。ただ、小さな不満を言わせてもらえば、やはり簡単なセットではなく、ちゃんとしたオープンセットで撮影し、微に入り細にわたった描写が欲しいところではある。

【データ】2003年 デンマーク 2時間57分 配給:ギャガコミュニケーションズGシネマグループ
監督:ラース・フォン・トリアー 製作:ヴィベケ・ウィンデロフ 製作総指揮:ペーター・オールベック・イェンセン 脚本:ラース・フォン・トリアー 撮影:アンソニー・ドッド・マントル 音楽:ペール・ストライト プロダクション・デザイン:ピーター・グラント 美術:カール・ユリウスン 衣装:マノン・ラスムッセン
出演:ニコール・キッドマン ポール・ベタニー クロエ・セヴィニー ローレン・バコール ジェームズ・カーン パトリシア・クラークソン ジャン・マルク・バール ベン・ギャザラ ステラン・スカルスゲールド ジェレミー・デイヴィス フィリップ・ベーカー・ホール ジョン・ハート(ナレーター)

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恋愛適齢期

Something Gotta Give

「恋愛適齢期」パンフレット監督のナンシー・メイヤーズの自伝的な要素のある作品だそうだ。といっても年齢が近くて子持ち、バツイチ、脚本家というところが共通しているだけのようだ。63歳の男と50代半ばの女の恋を描くコメディで、笑える場面は多いし、主演の2人も好演しているが、どうも冗長さを感じる。もっとすっきりした話にまとめられるはずなのである。この内容で2時間8分もかける意味が見あたらない。

30歳以下の女性しか相手にしないプレイボーイのハリー(ジャック・ニコルソン)が、ガールフレンドのマリン(アマンダ・ピート)と別荘に行き、そこでマリンの母親で脚本家のエリカ(ダイアン・キートン)と出会う。最初はお互いに嫌悪感を持つが、ハリーが心臓発作で倒れ、別荘で静養することになったことから、2人の関係は急速に変化を見せる。人生経験豊富な熟年同士の恋愛だから話は早いのである。しかもハリーを診察した医師(キアヌ・リーブス)がエリカに好意を持ち、三角関係的な様相になっていく。

このキアヌ・リーブスを出した意味があまりない。本格的な三角関係になるわけではなく、男とは無縁と思っていた熟年女性が突然、両手に花的状況になるだけである。2人の間で揺れ動くわけでもなく、一方がダメになったからもう一方へと流れるだけ。ニコルソンの視点で進行しながら、核心は女性の立場で物語が組み上がっている。やはり女性監督だからだろう。それならば、最初からキートンの視点で描けば良かったのにと思う。ビリングのトップはニコルソンだし、キートンを本格的に主演にすると、興行的に難しい面もあるだろうから仕方のない選択ではあるのだろうが。

ニコルソンの描き方がカリカチュアライズされているのに対してキートンの描き方には女性の本音が見える。「たとえうまくいかなくても、人は恋をするものなの。傷ついても、それが生きるということ」というセリフはなかなか若い女性には言えないだろうし、言っても説得力はない。ニコルソンとキートンのベッドインのシーンや眼鏡を巡るエピソードなどはおかしいと同時に真実みがあり、メイヤーズの体験的なものがあるのかもしれない。

ジャック・ニコルソンは年齢的に「アバウト・シュミット」の延長のような役柄。相変わらず、うまいとは思うが、こういうコメディばかりに出ていていいものかどうか。 ダイアン・キートンは最初に出てきた時に、これはダイアン・キートンではなくてダイアン・キートンによく似ているどこかのおばあちゃんがキートンを演じているに違いないと思えるほど老けていたのに驚いた。

【データ】2003年 アメリカ 2時間8分 配給:ワーナー・ブラザーズ映画
監督:ナンシー・メイヤーズ 製作:ブルース・A・ブロック ナンシー・メイヤーズ 脚本:ナンシー・メイヤーズ 撮影:マイケル・ボールハウス 美術:ジョン・ハットマン 音楽:ハンス・ジマー 衣装:スーザン・マッケイブ
出演:ジャック・ニコルソン ダイアン・キートン キアヌ・リーブス フランシス・マクドーマンド アマンダ・ピート ジョン・ファブロー ポール・マイケル・グラーザー

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