デビルマン

Devilman

「デビルマン」パンフレットブライアン・デ・パルマ「ミッドナイトクロス」の冒頭で、シャワー室で襲われる女の叫び声を録音していた録音技師のジョン・トラボルタが、女優のあまりの下手さ加減に匙を投げるシーンがある。「デビルマン」を見ていてそれを思い出した。中盤、主人公の不動明(伊崎央登)がデーモンであることを養父の牧村(宇崎竜童)に知られて上げる叫び声がなんとも迫力のないものなのである。終盤にもう一度、叫び声を上げるシーンがあるが、そこも同じ。これほど真に迫らない叫び声は初めて聞いた。この程度の叫び声でなぜ那須博之監督がOKを出したのか理解に苦しむ。感覚が狂っているのか、現場をコントロールできなかったのか、時間が足りなかったのか。いろいろあるだろうが、こういうところでOKする姿勢が映画全体に波及してしまっている。

主人公だけでなく、他の出演者の演技にもまるでリアリティがない。6月公開予定を延期してCGをやり直したそうだが、出演者の演技も最初からやり直した方が良かった。いや、その前に脚本を作る段階からやり直した方が良かっただろう。永井豪の最高傑作とも言えるあの原作がなぜ、こんなレベルの映画になってしまうのか。「スクール・ウォーズ HERO」とは違って、「デビルマン」の物語を本当に理解しているスタッフはいなかったのではないか。

「外道! きさまらこそ悪魔だ」と、原作の不動明は叫ぶ。悪魔特捜隊本部で悪魔に仕立てられて惨殺された牧村夫妻を発見し、そばにいた人間たちに怒りの声を上げるのだ。「おれのからだは悪魔になった…。だが、人間の心は失わなかった! きさまらは人間のからだを持ちながら悪魔に! 悪魔になったんだぞ。これが! これが! おれが身をすててまもろうとした人間の正体か!」。

映画にも「悪魔はお前ら人間だ!」というセリフはあるが、それを叫ぶのは不動明ではない。デーモンに合体された少女ミーコ(渋谷飛鳥)である。なぜ、こういう改変を行うのか。主人公にこのセリフを叫ばせなければ、その後の展開がおかしくなってしまう。原作の不動明は愛する美樹を殺した人間たちを一掃し、同時に怒りの矛先を人間たちの心理を利用して自滅させようとした飛鳥了に向ける。映画の明は人間は殺さず、了との対決に臨む。これでは愛する者たちを殺された主人公の怒りが伝わってこない。だからドラマとして貧弱になってしまうのだ。

脚本は那須真知子。2時間足らずの上映時間に全5巻の原作を詰め込むのは所詮無理な話ではある。しかし、無理は無理なりに何らかの工夫が必要だろう。単に原作をダイジェストにしただけで脚本家が務まるのなら、脚本家はなんと気楽な商売かと思う。那須真知子、監督と同じくSFに理解があるとは思えない。ならば、そういう仕事は引き受けるべきではなかっただろう。原作の飛鳥了は終盤まで自分の正体を知らない。映画では早々に正体をばらしてしまう。原作を思い切り簡略化した話で、それを見るに堪えない演出で語ろうというのだから、つまらなくなるのは目に見えている。

このほか、不動明とデビルマンの中間みたいなメイクアップがまるで意味をなさないとか、妖鳥シレーヌ(富永愛)の扱いが彩り程度のものであるとか、原作のラストの後に余計なメッセージを付け加えているとか、やり直したCGの場面が少ないとか、ボブ・サップやKONISIKIを使う意味が分からないとか、冒頭にある少年2人のシーンがお粗末すぎるとか、さまざまな不満な点がある。ついでに言うと、こんな雑な映画を作って公開する意味も分からない。こんなことなら、アニメでリメイクした方が良かったのではないか。

【データ】2004年 1時間56分 配給:東映
監督:那須博之 製作:泊懋 プロデューサー:冨永理生 松井俊之 北崎広美 製作プロデューサー:生田篤 原作:永井豪 脚本:那須真知子 音楽:安川午朗 デビルマンコンセプトデザイン:寺田克也 VFXプロデューサー・特撮監督:沸田洋 音楽プロデューサー:津島玄一 主題歌:hiro「光の中で」 プロダクションデザイナー:和田洋 CGスーパーバイザー:野口光一
出演:伊崎央登 伊崎右典 酒井彩名 渋谷飛鳥 染谷将太 金山一彦 大沢樹生 小倉一郎 きたろう 宇崎竜童 阿木耀子 的場浩司 モロ師岡 鳥肌実 布川敏和 嶋田久作 今井雅之 洞口依子 船木誠勝 本田博太郎 KONISHIKI 永井豪 小林幸子 ボブ・サップ 冨永愛

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いま、会いにゆきます

「いま、会いにゆきます」パンフレット「雨の季節に戻ってくる」。そう言い残して妻の澪が病死して1年。父親の秋穂(あいお)巧と息子の祐司は不器用ながらも仲良く暮らしている。父親は神経を病み、人混みに出かけられない。息子を連れて行った夏祭りでは倒れてしまう。そして、雨の季節がやってきて、本当に澪が帰ってくる…。

市川拓司の原作を岡田恵和(よしかず)が脚本化し、「オレンジデイズ」などテレビのベテラン演出家・土井裕泰(のぶひろ)が映画デビュー作としてメガホンを取った。夫婦愛、親子愛に彩られた幸福感あふれる映画である。ファンタジーなので妻が戻ってきたことに理由がなくてもいいのだが、映画は終盤に物語を別の視点で語り直してその謎を明らかにする。そして途中で感じた疑問点がすべて氷解する。これは脚本か演出の不備だろうと思えた部分が実はそうではなく、すべて計算されていたものであることが分かるのだ。同時に映画の中の物語がいっそうの深みを増して迫ってくる。ラストでようやく意味が分かる「いま、会いにゆきます」というタイトルはヒロインの覚悟と愛情の深さを示して感動的である。あざとくて安っぽくて志の低いお涙ちょうだいものではさらさらなく、洗練されたプロの仕事を見せつけられた感じ。この脚本の完成度は相当高い。

黄泉がえり」「星に願いを。」「天国の本屋 恋火」とファンタジーで絶好調の竹内結子と中村獅童の好演が相まって、日本のラブファンタジーとしては希有な作品に仕上がった。見終わって思い浮かべたのは「ある日どこかで」(1980年、ジャノー・シュワーク監督唯一の傑作)だが、ある意味、あの名作を越えた充実感がある。なんという幸福な映画であることか。そしてなんと心を揺さぶられる映画であることか。秀作の多い今年の日本映画の中でも上位に入る傑作。もちろん、必見。

正直に言えば、巧(中村獅童)と祐司(武井証)が2人で暮らす序盤の描写は朝食の目玉焼きや夕食のカレーライスに失敗したり、家の中が散らかっていたり、夏なのに冬のスーツを着ていたりする場面を丁寧に描いてはいても、どこかぎこちない部分が残る。やはりテレビの演出家だからなあ、と思いながら見ていたのだが、澪(竹内結子)が戻ってきた場面で一気に感心させられる。死んだはずの人間が帰ってきて、迎える人間はどういうリアクションを起こすのか。それ以上に戻ってきた人間はどう描かれるのか。そこを映画は澪がすべての記憶を失っていたという設定にしてうまくかわしてみせる。2人と一緒に暮らすことになった澪は徐々に2人との生活に慣れ、巧から2人の出会いと現在までの経緯を聞くことになる。

それは観客にとっても澪にとっても実に魅力的なラブストーリーである。2人の出会いは高校時代。2年間、同じクラスで隣の席に座っていた。巧は澪に片思いしていたが、打ち明けられないまま、ろくに話もせずに卒業することになる。陸上に打ち込む巧は地元の大学に、澪は東京の大学に行く。ただ、卒業時に澪のノートに言葉を書いた際、ボールペンを一緒にノートに挟んでいた。それを返してもらうことを口実に巧は澪に電話する。初めてのデートで堰を切ったように話し、2人の仲は順調にいくかと思われたが、巧は陸上に打ち込みすぎて体を壊し、陸上も大学もやめる。澪をこんな体の自分に付き合わせるわけにはいかないと思い、一方的に別れを告げてしまう。

この恋愛初期のおずおずといった感じの描写が微笑ましくて良い。竹内結子も美しく魅力的であり、これまでの出演作のベストだろう。澪が一緒にいられるのは雨の季節が終わるまで。いずれ澪が再び消えてしまい、親子2人の生活に戻ることは見えている。そして実際にそうなる。これで終わってしまえば、まずまずの佳作どまりだが、そこから映画は先に書いたような終盤を用意している。この事実を知ったことで、“奇跡の6週間”は巧にとっても祐司にとっても生涯大切なものになったに違いない。

テレビドラマに疎い僕は脚本の岡田恵和については知らなかった。キネマ旬報11月下旬号によると、土井監督の最高のパートナーとも思える存在という。キネ旬のインタビューで岡田恵和は「いわゆる亡くなった奥さんが戻ってきて、そしてまた去っていくという、ただそれだけの話にはしたくなかった」と言っている。その思いがあったからこそ、この終盤の素晴らしさが生まれたのだろう。土井監督は再び、テレビの世界に戻るそうだが、ぜひ2人のコンビで新たな作品を撮ってほしいと思う。

【データ】2004年 1時間58分 配給:東宝
監督:土井裕泰 製作:近藤邦勝 製作統括:島谷能成 斎藤薫 安永義郎 亀井修 細野義朗 伊東雄三 原作:市川拓司「いま、会いにゆきます」(小学館) 脚本:岡田恵和 撮影:柴主高秀 美術:種田陽平 音楽:松谷卓 主題歌:Orange Range「花」
出演:竹内結子 中村獅童 武井証 浅利陽介 平岡祐太 大塚ちひろ 中村嘉葎雄 市川美日子 YOU 松尾スズキ 小日向文世

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隠し剣 鬼の爪

「隠し剣 鬼の爪」パンフレット主人公の片桐宗蔵(永瀬正敏)が下働きのきえ(松たか子)に実家に帰るよう命じる中盤のシーンがどうしても引っかかる。ここで宗蔵は「お前はまだ若く、気だてのいい女なのだから、いつまでも私のところにいてはいけない」と理由を説明するのだが、この前のシーンで義兄の島田左門(吉岡秀隆)から「商家の嫁を奪い取って、妾同様に囲っているという噂が立っている」との忠告を受けたことがこのセリフの直接的な要因となる。もちろん、宗蔵ときえはそんな関係にはないが、きえとの暮らしに満足していた宗蔵がそんな話を急に切り出す真意がつかめない。きえに言った通りの理由であるならば、義兄が忠告する場面は不要だった。そして別の(宗蔵のセリフ通りの理由に説得力を持たせる)エピソードを入れた方が良かっただろう。きえは涙を流しながらも宗蔵に命じられた通り、実家に帰ることになる。

ここで2つの原作のうち、「雪明かり」のパートが終わり、より時代劇らしい「隠し剣鬼ノ爪」のパートが始まる。ここも良い出来なのだが、2つの短編のつなぎ方に無理があったために、この中盤のシーンが浮いてしまった。その意味で3つの短編をうまく融合させた前作「たそがれ清兵衛」よりも脚本の技術としては落ちる。微妙なけちの付け方とは思うけれど、この映画が「清兵衛」に及ばなかった原因の一つはそこにある。

宗蔵の家で3年間働いたきえは商家に嫁ぎ、ひどい姑(光本幸子)によって、朝から晩まで休む間もなく働かされたため、ついには病気になってしまう。宗蔵はきえと3年ぶりに再会して、そのやつれた姿に驚くが、やがて病に倒れたことを知り、商家に乗り込んで、無理矢理きえを連れて帰る。この「雪明かり」のパートは松たか子の好演によって紅涙を絞る展開である。いつものように山田洋次監督の技術の高さにうならされてしまう。山田洋次、こういう貧しい人たちが苦難に耐えるシーンを描かせたら絶妙である。前述の中盤のシーンを挟んで、後半の「隠し剣鬼ノ爪」。宗蔵とかつて一緒に剣を学んだ狭間弥市郎(小澤征悦)が謀反を起こしたとして捕らえられる。といってもこのシーンは前半に織り込み済みである。狭間は江戸から故郷に連れて帰られ、切腹することも許されぬまま牢に入れられるが、見張りを倒して脱獄し、農家に立てこもる。宗蔵はその狭間を討つように命じられる。宗蔵はかつて御前試合で狭間に勝ったことがあり、師範の戸田寛斎(田中泯)から隠し剣を伝授されていた。家老(緒形拳)はそこを見込み、大目付の甲田(小林稔侍)とともに宗蔵にかつての仲間を討てと命じるのだ。逆らえば謀反の仲間とみなされる。宗蔵は藩命に逆らえず、農家に向かうことになる。ここで描かれるのは悪徳家老に怒りを感じる主人公の姿である。欲を言えば、過去の御前試合のシーンを少しでも入れておいた方が良かっただろうが、このパートも決して悪い出来ではない。

困るのは一つ一つのシーンには感心しながらも、映画全体としてはそれほど響いてこないことだ。つまらないわけではないのに、「清兵衛」の完成度にはほど遠いと言わねばならない。下級武士のつましい暮らしを詳細に描き、自分の身分を受け入れて不平不満を言わない姿が世のサラリーマンの支持を集めた「たそがれ清兵衛」に比べると、今回の映画のベクトルは違う方向にある。至極単純にまとめてしまえば、今回は嫌な上司のいる組織に見切りを付ける男の話。つまり脱サラする男の話なのである。そこと「雪明かり」のパートをどう結びつけるかが脚本の腕の見せ所なのだが、それほどうまくいっていないのである。

ついでに言えば、今回の主人公は三十石。清兵衛は五十石の身分だったが、同じ東北・海坂藩の藩士なのに、宗蔵は清兵衛ほど貧乏暮らしには見えない。つまり、今回は描こうとしたことが「清兵衛」とは違うからだろう。そして、後半が一般的な時代劇にシフトした分、「清兵衛」のオリジナリティには及ばなかったのだと思う。

【データ】2004年 2時間11分 配給:松竹
監督:山田洋次 製作:久松猛朗 製作総指揮:迫本淳一 プロデューサー:深沢宏 山本一郎 原作:藤沢周平「隠し剣鬼ノ爪」「雪明かり」 脚本:山田洋次 朝間義隆 撮影:長沼六男 美術:出川三男 音楽:冨田勲 衣装:黒沢和子
出演:永瀬正敏 松たか子 吉岡秀隆 小澤征悦 田畑智子 倍賞千恵子 田中邦衛 綾田俊樹 神戸浩 光本幸子 高島礼子 赤塚真人 松田洋治 小市漫太郎 北山雅康 松野太紀 近藤公園 香川耕二 笹野高史 田中泯 小林稔侍 緒形拳

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笑の大学

「笑の大学」パンフレット傑作舞台劇の映画化。昭和15年を舞台に、浅草の軽演劇一座「笑の大学」の座付き作家椿一(稲垣吾郎)と警視庁保安課の検閲官向坂睦男(役所広司)の7日間の攻防を描く。原作・脚本の三谷幸喜によると、映画版は「コメディを題材にしたシリアスなドラマ」という。といっても今川焼を巡る爆笑のやりとりをはじめ言葉のギャグは満載で、笑って笑って最後に感動させてという構成はいかにも日本的なコメディである。

個人的には最後のほろりとさせるエピソードなど不要に感じたし、もっと別のラストは考えられなかったのかと思うが、これはモデルがエノケン一座の座付き作家で戦死した菊谷栄だから仕方ない面もあるだろう。ちょっとオーバーアクト気味な稲垣吾郎の演技はバラエティ番組の演技としか思えない(これは演出に関わることだが、警視庁の前に来るたびに圧倒されて倒れそうになるなんてありえないだろう)けれど、必死さは伝わってきて悪くない。それを受け止める役所広司の演技が素晴らしく、この映画のほとんどの笑いは役所広司のキャラクターと演技からきている。舞台を映画にして何の意味があるのかという根源的疑問はつきまとうし、ちっとも映画らしくない映画なのは気になるにせよ、見て損のないドラマには仕上がっている。

サイレント映画のようなタッチで映画は始まる。第2次大戦直前のきな臭い時期なので、演劇は当局の検閲を受けなければならない。「ジュリオとロミエット」というパロディを提出した椿一は検閲官の向坂から「毛唐を題材にするなんて」と一喝され、上演不許可の判子を押されそうになる。「チャーチルが握った寿司を食べたいと思うか」というたとえがおかしい。椿は日本を舞台にして翌日までに書き直すと約束し、危うく不許可を免れる。しかし、翌日も向坂は接吻シーンが良くないとして、書き直しを要求する。椿は書き直しを命じられた部分をまた笑いにしてしまう性分。そこが向坂の気に障るところでもあるのだが、「この非常時に喜劇の上演なんて」と考えていた向坂は次第に椿の台本に魅せられ、最高のコメディを椿と一緒に作り上げていくことになる。

書き換えていく過程でどうすればおかしくなるかというコメディの本質を突いたセリフも出てくるので、「シリアスなドラマ」なのだろう。同時に映画は検閲制度に対する批判も込めている。惜しいのはそれと現代とのつながりが見えにくいこと。体制の中から出ず、制限された範囲内で喜劇を作ろうという椿の姿勢には物足りない部分が残るのだ。それが映画としての批判の甘さにつながっているのかもしれない。

監督は「古畑任三郎」などテレビのディレクターで、これが映画デビューの星護。演出は手堅かったが、もっと動きのある題材でないと、本当の力は分からない。2作目を期待したい。

【データ】2004年 2時間1分 配給:東宝
監督:星護 製作:亀山千広 島谷能成 伊東勇 企画:石原隆 プロデューサー:重岡由美子 市川南 稲田秀樹 原作・脚本:三谷幸喜 音楽:本間勇輔 撮影:高瀬比呂史 美術:清水剛
出演:役所広司 稲垣吾郎 小松政夫 高橋昌也 吉田朝 陰山泰 蒲生純一 つじしんめい 伊勢志摩 小林令門 坪内悟 長江英和 石井トミコ ダン・ケニー ルカ・チュフォレッティ 河野安郎 小橋めぐみ 真島秀和 木村多江

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