父と暮せば

「父と暮せば」パンフレット黒木和雄監督が井上ひさしの戯曲を映画化した作品。原爆投下3年後の広島を舞台に描く父と娘の物語で「TOMORROW 明日」「美しい夏キリシマ」と合わせて“戦争レクイエム3部作”としている。父親を演じるのが原田芳雄、娘が宮沢りえ。この2人と宮沢りえに思いを寄せる浅野忠信の3人が主要キャストにしてオールキャスト。もとが舞台劇だけに家の中のシーンがほとんどだが、黒木監督はしっかりとした演出で反核の願いを込めた物語を展開していく。黒木作品には珍しくCGを使った原爆投下とその後の広島の街の様子が描かれる。場面は少ないが、細かい部分まで描いてCGとしては良い出来の方である。しかし何よりも、「うち、人を好いたりしちゃいけんのです」と死者に対して気兼ねする宮沢りえが素晴らしく良い。

パンフレットによると、この「自分だけが生き残って申し訳ない」という意識は作者の井上ひさしが多数の被爆者の手記を読んだ結果得たものであり、それは黒木和雄の戦時体験にもつながるものだという。黒木監督の前作「美しい夏キリシマ」に空襲で死んだ友人を見捨てて逃げた監督の悔恨の思いが込められていたように、この映画の主人公にも被曝した父親を助けようとして助けられなかった悔恨がある。それがどう癒やされていくか、どう復活のきっかけをつかむかを映画は丹念に綴っている。俳優2人の対話によって進む物語は密度の濃い空間を生んでおり、「美しい夏キリシマ」より充実していると思う。マイケル・ムーアは大きな対象を批判するのに個人の体験や言葉を多数引用したが、黒木和雄は戦争を描くのに個人の体験と意識に絞り、温かみがありながらも鋭い作品を作った。個人の体験を重視する方法論がここでは十分に成功している。

主人公は図書館に勤める福吉美津江(宮沢りえ)。激しい雷におびえて家に帰ってきた美津江は押し入れの中入っている父親(原田芳雄)を見つける。雷が「ピカ」を連想させて、父親も怯えていたのだ。2人の会話から、やがてこの父親は原爆投下時に死に、今は幽霊となって現れたことが分かる。原爆の資料を集めるために図書館に来た木下(浅野忠信)への美津江の恋心から父親は生まれたという。美津江は木下に惹かれながらも、自分だけが幸せになってはいけないと思いこみ、木下への思いを断ち切ろうとしている。なぜか。美津江は原爆投下後、死んだ友人の母親から言葉を投げつけられる。「なひてあんたが生きとる」「なひてうちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか!」。加えて、美津江には被曝した父親を見捨てて火災から逃げねばならなかった過去がある。我が子を亡くした母親の理不尽な思いから出た言葉と父親を助けられなかった悔恨がその後の美津江を縛っていた。

美津江が原爆の呪縛から解き放たれることになる父親の言葉は、普通の人間の当たり前の願いである。なぜ、自分は生きているのか、死者に報いるには何をすればいいのか、映画は何も難しいことを要求しない。普通に生きていくこと、死者の分まで生き続けることを訴えるだけである。そこがいい。広島弁で語られる会話は温かさを生み、日常の細かな描写がリアリティを生んでいる。

【データ】2004年 1時間39分 配給:パル企画
監督:黒木和雄 製作:石川富康 川越和実 張江肇 松本洋一 鈴木ワタル 原作:井上ひさし 脚本:黒木和雄 池田真也 撮影:鈴木達夫 美術:木村威夫 音楽:松村禎三
出演:宮沢りえ 原田芳雄 浅野忠信

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血と骨

「血と骨」パンフレット主人公の金俊平(ビートたけし)が一斗缶に入った豚肉を食う場面がある。豚肉は自分でさばいたものだが、日がたっているので既にウジがわいている。俊平はウジをはらいながら口に入れる。それを見ていた息子の正雄は気持ち悪くなって吐いてしまう。あれは朝鮮料理なのかと思って、いろいろ調べてみたが分からない。脚本にも「豚の腐肉」と書かれているだけである。キネ旬を読んでみたら、崔洋一監督インタビューにこうあった。

「(釜山映画祭で)おもしろい質問をしたやつがいた。あの腐肉は日本食なのか、韓国食なのかと聞かれたんですよ。で僕の答えは、いやどちらでもない、あれは俊平食だと。食べても元気にならないから食べるのはやめなさい、と言うと、ウケてましたね」。俊平は後で2年も一緒にいるのに赤ん坊が生まれない愛人の清子(中村優子)にもこれを無理矢理食べさせる。俊平にとって、これは活力を付ける食べ物だったのだろう。

「その男、凶暴につき」を字義通りにいくような金俊平という在日コリアンの生涯を描いたこの映画、重厚な描写が2時間24分も続く力作である。金俊平という男の生き方も特異なら、映画の方も特異で見終わると、ぐったり疲れる。描かれる暴力はアクション映画のそれとはもちろん異なり、見ている方にも痛みと悲惨な感情を伴う。金俊平は自分の思うとおりにことが進まないと、暴れだし、家を壊し、家族を殴り、他人を殴り、その暴力はとどまるところを知らない。死ぬまでこの調子だったのだから恐れ入る。決して近くにはいてほしくない人物である。実際には身長183、4センチの巨漢だったというこの男をビートたけしが凄みを持って演じている。

金銭欲と性欲と支配欲の権化のような金俊平は原作者の梁石日(ヤン・ソギル)の父親がモデルで、戦前、済州島から大阪に渡ってきた。原作は未読だが、映画は原作の前半にある金俊平の青春部分を除いてあるそうだ。そこまで描くと、上映時間は4時間ぐらいになってしまうだろう(初稿は7時間半あったという)。徹底的に他人を信用しない金俊平の人格がどのように形成されていったのかも興味深いところだが、崔洋一監督が目指したのは半径200メートル以内を暴力で完全に支配した身勝手な男の生き方であり、精神分析的な部分には興味がわかなかったのかもしれない。俊平と私生児の朴武(オダギリジョー)が雨の中、延々と殴り合うシーンをはじめ、暴力シーンは多いが、映画で印象的なのは俊平の毒気に巻き込まれて不幸になっていく女たちの姿である。

蒲鉾工場で金をためた俊平は家族が住む長屋の近くに家を借り、戦争未亡人の清子を愛人にして一緒に住む。清子は相当な美人で、酒屋のおやじ(トミーズ雅)が「お姫様みたいや」とつぶやくほど。妻の李英姫(鈴木京香)とのセックスがレイプまがいなのに対して、清子とのセックスは穏やかに描かれる。間もなく、清子は脳腫瘍に倒れる。手術して髪の毛を剃り、頭の一部が陥没した清子の姿は元が美人だけに、ただ悲惨である。言葉も「アー、アー」としかしゃべれず、半身不随で寝たきりとなっている。リヤカーの荷台に乗せて清子を家に連れ帰った俊平は、タライで清子の体を洗うなどこまめに世話をするが、やがて別の愛人定子(濱田マリ)を家に連れ込み、清子の世話をさせるようになる。清子と定子は反目し合い、階下で俊平が定子と一緒にいると、二階から動けないはずの清子が転げ落ちてくる。やがて俊平は濡れた新聞紙を顔に押しつけて清子を殺す。それを見た正雄(新井浩文)に対して、俊平は「楽にしたった」とつぶやく。

娘の花子(田畑智子)は俊平から殴られて歯を数本折る。俊平の支配から逃れるため、好きでもない男(寺島進)と結婚して家を出るが、この男も暴力をふるい、花子は顔に青あざを作るようになる。暴力に耐えきれず、家を出るため正雄に金を借りようとして断られると、首を吊って自殺してしまう。DVから逃れようとした女がやはりDVを振るう男と一緒になってしまうという典型的な例。男尊女卑が徹底したコリアン社会の特色というよりも、そういう時代だったのだろう。

女が印象に残るといっても、崔洋一は今村昌平ではないのだから、女が中心テーマであるわけではない。あくまでも金俊平という男の生き方に惹かれたのだろう。この男の凄まじい生き方を突きつけられて、僕らはそれをどう受け止めればいいのか戸惑ってしまう。そうした戸惑いの一方で、こうした男はかつて確かにいたということも思い出す。映画が描く多数のエピソードのどれかに思い当たる観客は多いのではないか。かつては飲んで暴れる、俊平をスケールダウンしたような父親なんてたくさんいたし、今もいるだろう。俊平は酒が入っていなくても暴れるのだが、両者に共通するのは現状への不満が積もり積もっていることなのではないかと思う。社会の閉塞感が原因なのか、在日コリアンへの差別なのか、俊平がどこに不満を感じていたのか、そもそもそれが暴力の原因なのか、映画は分析していないので分からない。しかし、この映画がぬるま湯の現状に突きつけた過激な作品であることは間違いない。描写は平易だが、単純な分析を許さない映画であり、見終わっても長く後を引く作品である。

崔洋一はかつてハードボイルド調の作品も撮ったが、この「血と骨」もまた、主人公の内面描写を廃している点で、ハードボイルドの精神に近いものがある。行間を読むことを観客に強いる映画なのだと思う。

【データ】2004年 2時間24分 配給:松竹 ザナドゥー
監督:崔洋一 製作総指揮:若杉正明 エグゼクティブ・プロデシューサー:甲斐真樹 加藤鉄也 製作:石川富康 西村嘉郎 沼田宏樹 原作:梁石日 脚本:崔洋一 鄭義信(チョン・ウィシン) 撮影:浜田毅 美術:磯見俊裕 音楽:岩代太郎 衣装デザイン:小川久美子 衣装:岩崎文男
出演:ビートたけし 新井浩文 田畑智子 オダギリジョー 松重豊 濱田マリ 中村優子 北村一輝 柏原収史 寺島進 伊藤淳史 唯野未歩子 中村麻美 平岩紙 トミーズ雅

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ULTRAMAN

「Ultraman」チラシ「ウルトラマン」第1シリーズ第1話の丁寧な語り直しという感じである。ドラマをしっかり作っているし、クライマックスの空中戦も悪くない出来である。特に新宿副都心の高層ビルの間を飛び回るウルトラマンは素晴らしい。ただ、雲の上に上がってからの戦いは予算がなかったんじゃないかと思えるぐらいの出来。この程度で褒めるのはどうかと思う。出来としては普通の映画だろう。いや、確かに近年のウルトラマンコスモス3部作に比べれば、はるかにいいのだけれど、ドラマはもっと情感を盛り上げてほしいし、VFXにもセットにも金をかけたいところだ。「俺は、おまえを許さない」と叫ぶ主人公の心情にもっともっと迫ってほしかった。プラス、SF的設定の強化を図れば、企画があるらしい第2作はさらに面白くなるのではないかと思う。

ウルトラマン第1話といっても、科学特捜隊は登場しない。主人公は航空自衛隊のパイロット真木舜一(別所哲也)。真木は血液の病気に冒された6歳の息子継夢(つぐむ)のために空自を辞める決意をする。息子は今度発病すれば助かる確率は20%と宣告されていた。最後のスクランブルで発進した真木は赤い発光体と激突。墜落してしまう。真木は奇跡的に助かるが、その後、防衛庁の特務機関BCST(対バイオテロ研究機関)が真木を監視し、強引に連れ去る。3カ月前、海底で青い発光体に遭遇した有働貴文(大澄賢也)が凶暴な生命体に変貌したためだ。この生命体はザ・ワンと呼ばれたが、研究所を逃走し、次々に人間を殺すようになる。BCSTの水原沙羅(遠山景織子)はザ・ワンの二の舞を防ぐため、真木をネクストと呼び、監禁する。そして真木を囮に使い、ザ・ワンを呼び寄せるが、ザ・ワンは想像以上に進化を遂げていた。危機が迫った水原を銀色の巨人に変身した真木が救う。

「飛べる。俺は、この空を飛べる」。F15Jイーグルのパイロットを辞めた真木がクライマックス、ウルトラマンに変身したところで言うセリフがいい。ザ・ワンとの戦いで思わずジャンプしたウルトラマン=真木は自分が空を飛べることを発見する。幼いころ、太陽に翼をきらめかせた「銀色の流星」のようなジェット機を見て、パイロットを志した真木だからこそ似合うセリフなのである。主人公に妻と子供がいるという設定はウルトラマンのシリーズの中では初めてだろう。ウルトラマンの原点に返りつつ、しっかりとキャラクターを形成していくことを監督の小中和哉は意図したのではないかと思う。ただし、この映画に足りないものがあるとすれば、それは観客の心をつかんで離さないようなエモーションの強さだろう。エモーションを高めるには主人公とザ・ワンとの確執にもっと工夫が必要だった。「俺は、おまえを許さない」というセリフは両者の関係が間接的なものだから、あまり心に響かないのである。

主人公の妻に裕木奈江、空自の同僚に永澤俊矢、主人公の再就職先の民間航空会社社長に草刈正雄、自衛隊幹部に隆大介が扮していい味を出している。

【データ】2004年 1時間37分 配給:松竹
監督:小中和哉 監修:円谷一夫 プロデューサー:鈴木清 脚本:長谷川圭一 撮影:大岡新一 音楽プロデューサー:玉川静 音楽:小澤正澄・池田大介・鎌田真吾 VFXスーパーバイザー:大岡新一 美術:大澤哲三 音楽監修:TAK MATSUMOTO(B'z) フライングシーケンスディレクター:板野一郎 特技監督:菊地雄一
出演:別所哲也 遠山景織子 大澄賢也 草刈正雄 裕木奈江 永澤俊矢 隆大介 広田亮平

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パッチギ!

「パッチギ!」パンフレット「モーターサイクル・ダイアリーズ」のエルネスト・ゲバラと同じように、主人公の松山康介(塩谷瞬)は恋するキョンジャ(沢尻エリカ)のいる対岸に向かって鴨川を渡る。劇中に流れる「イムジン河」は朝鮮半島を南北に分断する川を歌ったものだが、この映画の中では日本人と在日コリアンの間にある深い川をも象徴しているのだろう。だから、康介が川を渡る姿は民族の対立を超えた姿にほかならない。川を渡るという行為のメタファーは実に分かりやすいのである。もちろん、康介にはそんな大層な意識はない。好きなキョンジャに近づきたく、親しくなりたいだけだった。そのために朝鮮語を勉強し、「イムジン河」の歌を練習する。

井筒和幸監督が「ゲロッパ!」に続いて撮ったのは1968年の京都を舞台にした青春群像ドラマ。日本人と在日朝鮮人の高校生たちが恋とけんかに明け暮れる姿をエネルギッシュなタッチで描いている。フォーク・クルセダースの「イムジン河」「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」(実際は加藤和彦、北山修のデュエットだし、これは70年代の歌である。だから劇中ではなく、エンドクレジットに流れるのだろう)などが流れ、60年代のムードが横溢している(音楽はそのフォークルのメンバーでもあった加藤和彦)。高校の先生が毛沢東語録を紹介したり、全共闘の描写があったり、描かれる風俗は40代以上にはある種の郷愁を誘う内容であり、「アメリカン・グラフィティ」のように見ることもできる。失神者が続出して救急車が駆けつける冒頭のオックスのコンサートの場面から戯画化されていて、笑って笑って時に泣かせる展開を堪能した。若手俳優からわきを固めるベテランまで出演者の演技が総じて良く、群像劇を見事に成立させている。何よりも元気の出る映画になっているところがいい。

府立東高の2年生、松山康介はある日、担任から朝鮮高校にサッカーの親善試合の申し込みに行くよう言われる。親友の紀男(小出恵介)と一緒に恐る恐る朝鮮高校に行った康介は音楽室でフルートを吹くキョンジャに一目惚れする。キョンジャの兄は朝鮮高校の番長アンソン(高岡蒼佑)だった。楽器店で坂崎(オダギリジョー)と知り合った康介はキョンジャが吹いていた曲が「イムジン河」という曲だったことを知り、ギターを練習するようになる。康介は坂崎からコンサートのチケットをもらい、キョンジャを誘うが、逆に円山公園で行うというキョンジャのコンサートに誘われる。円山公園ではコンサートではなく、帰国船で北朝鮮に行く決意をしたアンソンを祝う宴会が開かれていた。

映画は康介とキョンジャの関係を軸にその周辺のさまざまな人間模様を活写していく。それがどれもこれも面白い。康介が在日のアボジ(笹野高史)から「お前ら日本人は何も知らん」と言われる重たい場面から、「悲しくてやりきれない」が流れる中、ギターをたたき壊す康介の場面、そしてラジオ局で康介が歌う「イムジン河」をバックにアンソンたち朝鮮高校と東高の生徒たちの集団乱闘シーンへと連なるクライマックスが秀逸である。日本人と在日コリアンの関係について特別な回答を用意しているわけではないけれど、監督はパンフレットで「殴り合え、でも殺し合うな」というメッセージを込めたと言っている。殴り合うこともまた交流の一歩なのであり、そうした複雑な関係を普通に描写しているところにとても好感が持てる。60年代を舞台にしていても、ただ懐かしがっているわけではなく、今に通用する映画になっているのは人物の描き方が生き生きしているからだろう。主演の塩谷瞬は透明な感じがいいし、ラジオ局で「イムジン河」を流すことに反対する上司を力づくでだまらせるディレクターを演じる大友康平、スケバンから看護婦に転身する真木よう子、アンソンの恋人役の楊原京子などの演技が印象に残る。

ちょっと気になったのはカラーの画質で、妙にくすんでいる。60年代を意識したのか、デジタルビデオカメラでの撮影だったのか知らないが、もっとすきっと抜けるカラーにした方が良かったのではないか。

【データ】2005年 1時間59分 配給:シネカノン
監督:井筒和幸 製作:李鳳宇 川島晴男 石川富康 川崎代治 細野義朗 原案:松山猛「少年Mのイムジン河」 脚本:羽原大介 井筒和幸 音楽:加藤和彦 撮影:山本英夫 美術:金田克美
出演:塩谷瞬 高岡蒼佑 沢尻エリカ 楊原京子 尾上寛之 真木よう子 小出恵介 波岡一喜 オダギリジョー キムラ緑子 加瀬亮 坂口拓 ケンドーコバヤシ 木下ほうか 徳井優 笑福亭松之助 ぼんちおさむ 笹野高史 松澤一之 余貴美子 大友康平 前田吟 光石研

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