バグジー

BUGSY

愛する女のためにラスベガスを作った男―というこの映画のコピーは正確ではない。ベンジャミン・“バクジー"・シーゲルはあくまでも自分の夢のために600万ドルもの資金を注ぎ込んで、ギャンブルの街ラスベガスの元になる豪華ホテルを砂漠の中に建設したのだ。共演したアネット・ベニングがウォーレン・ビーティーの子どもを妊娠したことは興醒めの気分にしかならないが、監督がバリー・レビンソンなのでとりあえず面白く見せてくれる。既にゴールデングローブ賞ドラマ部門の最優秀作品賞を受賞し、注目のアカデミー賞にもノミネート。僕にはあまり興味が持てないけれど、それなりに良くできた作品であることを否定はしない。

ベン・シーゲルはそのあだ名の通り、フェミニストでありながら凶暴な殺人者であった。その凶暴性を発揮して映画の冒頭で裏切り者を冷酷に殺し、組織を拡大するために拠点のニューヨークから西海岸へ旅立つ。だからこの映画はシーゲルの晩年を描いているわけである。1週間程度の滞在の予定だったが、撮影所で売れない女優バージニア・ヒル(ベニング)に出会ったことからシーゲルはそこに住みづくことになる。これはヒルのためばかりでなく、ナルシスト気味だったシーゲル(自分を映したフィルムを自宅で観賞する)にとって、映画の都ハリウッドが魅力的な場所だったからだろう。ヒルは一筋縄ではいかない女。気が強く、シーゲルと何度も口論を繰り返す。知性があって魅力的だが、シーゲルには運命的な悪女(つまりファム・ファタールですね)となってしまう。組織の金を盗み、スイスの銀行に200万ドルの隠し口座を作り、結果的にこれがシーゲルの死を招くことになるからだ。かつての東映やくざ映画が実録とは言いながらも、フィクション部分がかなり多かったのと同じように「バクジー」もラブストーリーとラスベガス建設に話を絞ったフィクションと見た方がいいだろう。何しろ、実際にはシーゲルの死の真相すら明らかにされていないのだから仕方がない。

ラスベガスには当時、カジノ付きの汚い小さな酒場しかなかったが、それでもかなりの収益を上げていた―と映画の中で説明される。シーゲルはヒルと仲間のコーエン(ハーベイ・カイテル)の3人でこの酒場からの帰り道に突然、砂漠の中にホテル建設を思いつく。確かに先見の明はあったのだろうが、この映画ではなぜそんなことを考えたのか良く分からない。シーゲルのやったことは一種のアメリカン・ドリームとも言える。レビンソンの出世作「ナチュラル」と共通する部分もあるが、この映画の結末は悲劇的だ。途中の設計変更などでホテルの建設費は、当初の100万ドルを大幅に超過。ヒルの隠し口座のことも組織にばれて、シーゲルは窮地に立たされる。おまけにクリスマスにオープンしたホテル・フラミンゴには大雨のためか、客は一人も来なかった。

写真を見ると、実物のシーゲルは主演のビーティーに負けないくらいハンサムな男だったようだ。しかし、主人公がギャングで殺人者ではアメリカン・ドリームの立て役者としてはふさわしくない。本来なら悪役であるはずの人物なのである。結局、この映画の気分が晴れないのはそうした根本的な部分に疑問があるからに違いない。ギャンゲの在り方を称賛するわけにもいかないし、難しいところではある。ビーティーは熱演している。ベニングはあっけらかんとしすぎていて少しもファム・ファタール的でないのが難だ。それにラブストーリーが実生活とクロスしていると分かると、こちらとしては「いい気なものだ」と、どうしても思えてしまうのである。(1992年4月号)

【データ】1991年 アメリカ 2時間16分
監督:バリー・レビンソン 製作:マーク・ジョンソン ウォーレン・ビーティー バリー・レビンソン 脚本:ジェームズ・トーバック 撮影:アレン・ダビュー 音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ウォーレン・ビーティ アネット・ベニング ハーベイ・カイテル ベン・キングスレー エリオット・グールド ベベ・ニューワース

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サルバドル 遙かなる日々

SALVADOR

今、ベトナムで共産主義の侵略を防がなければ、次はフロリダで防ぐことになる−有名なドミノ理論というやつだ。共産主義はドミノ倒しのように各国に波及し、ついにはアメリカの自由を脅かす…この考えからアメリカはベトナム戦争に介入した。その姿勢は今も変わるところがない。ニカラグアの反政府勢力ゲリラ・コントラに武器を援助し、この「サルバドル」で描かれた左翼ゲリラFMLN(ファブランド・マルチ民族解放戦線)から守るのもそのためである。中米諸国が共産主義になってしまったら大変だ、との意識がアメリカにはあるのだろう。距離的にははるかに近いのだから、ことはベトナムの比ではない。

「サルバドル」はそうしたアメリカの政策を明らかに間違いだ、と指摘している。それは共産主義への共鳴からではなく、虐殺される民衆に耐えられないという人道的な立場からのものである。だからこそ、この映画のメッセージは力強い。

1980年、ジャーナリストのリチャード・ボイル(ジェームズ・ウッズ)は特ダネを得るために車で国境を越える。ボイルはベトナムやカンボジアなどの激戦地を巡ってきたらしいが、シドニー・シャンバーグのような一流の記者ではなく、フリーのトップ屋である。酒や女にだらしがない、いい加減な男でジャーナリストとしての崇高な使命感といったものはないようだ。しかし、シャンバーグと比べて、ボイルを凄いなと思うのは、ゲリラ側からも取材することだ。あの「キリング・フィールド」の中で、シャンバーグはクメール・ルージュに支配されたカンボジアから逃げることしか考えていなかった。大方の記者はそんなものである

映画はこのボイルと恋人のマリアを軸にエルサルバドルの凄まじい内乱の現状を見せる。セジュラ(身分証明書)がないばかりに政府軍に虐殺される若者、夥しい死体、日常的に繰り返されるテロ…ボイル自身も何度か政府軍に狙われる。折しも、テレビではレーガン大統領の当選を伝えるニュースが流れる。「強いアメリカの実現だ」と喜ぶ大使館員たち。その周りには最前線を見ようともしないテレビ・リポーターたちがいる。

完成度は別にして、これは「プラトーン」より広がりのあるテーマだと思う。何のかんのいっても、結局「プラトーン」は20年前の話なのだ。いくら戦争の秘密を暴こうが(ベトナム戦争に詳しい人なら、皆あの程度のことは知っていた)、もう打つ手はないわけで、虚しいのである。ついでに言えば、現在の第2次ベトナム戦争映画ブームの根底にあるのは、アメリカ人のレトロ感覚なんじゃないかと僕は思っている。これに対して「サルバドル」は現在進行形の話だ。まだ、エルサルバドルの内乱(映画に出てくる政府側の人間はこれを共産主義の侵略と呼ぶ)は続いているのだ。

東京国際映画祭のゲストで来日したオリバー・ストーンは、この映画を政治的に語ってもらいたかったらしい。ところが、記者会見で出た質問は映画的なものばかりで、ひどくストーンを失望させたという。そうだろう、そうだろう。日本の映画評論家(あるいはリポーター)の水準などそんなものだ。第一、中米諸国の現状についてどの程度、彼らが知っているか、全く疑わしい。

ストーンの強みは深刻なテーマをハリウッド流の娯楽映画の技術で描けることにある。だから、技術云々だけの批評で終わってしまっては、映画の本質を見失うことになりはしまいか。自省を込めて、そう思う。(1987年11月号)

【データ】1986年 アメリカ 2時間2分
監督:オリバー・ストーン 製作:ジェラルド・グリーン 脚本:オリバー・ストーン リチャード・ボイル 撮影:ロバート・リチャードソン 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ジェームズ・ウッズ ジェームズ・ベルーシ ジョン・サヴェージ トミー・プラナ

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フィールド・オブ・ドリームス

FIELD OF DREAMS

誰でも人生を左右するような“声”を聞くことはあるだろう。それは親しい友人の忠告かもしれないし、見知らぬ人の何気ない言葉、あるいは自分の内なる声、そしてこの映画の主人公レイ・キンセラのように畑仕事をしている途中に突然聞こえてきた声かもしれない。「それを作れば、彼はやって来る」。この言葉を聞いたためにレイは大事なトウモロコシ畑をつぶして野球場を作ってしまう。家族があり、生活があるたいていの30代の男にはそんなことはできない。声が聞こえなかったふりをするか、常識から考えて自分を無理に納得させるかだろう。だが、レイの場合、“自分が生まれた時には既に年を取っていた”父親を見ていたために、それを実行する。レイの父親は“声を聞いたかもしれないのに、耳を貸さなかった。何一つ冒険をしなかった”。レイはそうなるのが怖くて、そういう冒険ができるのも今が最後だと考えて、常識から言えば極めてバカげたことをするのだ。もう、このあたりでエーン、エーンと泣けてくる。「男を泣かせる映画」というコピーはまったく正しい。ここでいう声とは夢や希望という言葉と同じ意味を持つ。だから、この映画は夢を信じ、そのことによって幸せをつかんだ男の物語なのである。夢を捨てないということは何と素晴らしいことだろう。そんな思いを強く感じさせられた。珠玉、という言葉が実にふさわしいファンタジーだ。

「ここは天国か?」。映画の最初の方でシューレス・ジョーが、そしてラスト近くでもう一人の選手がレイに尋ねる。この球場はレイにだけでなく、野球界を追放されたシカゴ・ホワイトソックスの選手たちにとっても“夢の球場”なのである。だからここで行われるプレーが見える人と見えない人との違いは、夢を信じる人と信じない人との違いにほかならない。映画の中でレイの娘がテレビで「ハーヴェイ」(ジェームズ・スチュアート主演)を見ているシーンは象徴的だ。あれは他の人には見えない2メートル(正確には6フィート3インチ)の大ウサギを友人に持つ男の話のはずだから。僕は見ていないのだが、この映画はアメリカでは有名な作品らしく、「ロジャー・ラビット」の酒場のシーンでもそれをもじったセリフが出てきた。

「フィールド・オブ・ドリームス」は総じて出演者たちの演技がいい。レイ役のケビン・コスナーは性格俳優から出発して今やアメリカを代表する二枚目になってきた。エイミー・マディガンは「ストリート・オブ・ファイヤー」の片鱗を見せつつ、理想的な妻役をうまく演じている。不遇の作家テレンス・マンを演じるジェームズ・アール・ジョーンズのはぎれの良さ、“ムーンライト”グラハム役のバート・ランカスターの年輪を感じさせる演技も場面をさらう。ランカスターは「アトランティック・シティ」あたりからすっかり老け役が板についた。ラスト近くで、けがをしたレイの娘を助けるために球場の外に踏み出す(つまり夢と現実との境を越える)シーンなどはとても感動的だ。

映画を見ていて、僕は「ナチュラル」との相似を思わずにはいられなった。「ナチュラル」の主人公ロイ・ハプスがシューレス・ジョーをモデルにしているということだけでなく、映画のタッチがとてもよく似ている。麦畑のキャッチボールとトウモロコシ畑のキャッチボール。それはどちらも父と子の間で行われる。アメリカの文化の継承と言えば、大げさだけれども、このキャッチボールは古き良きアメリカを思わせる。そしてそうした時代への回帰願望も込められているような気がする。野球はアメリカを代表するスポーツなのだから、その仲介の役目となるのは当然のことかもしれない。(1990年3月号)

【データ】1989年 アメリカ 1時間47分
監督:フィル・アルデン・ロビンソン 製作総指揮:ブライアン・フランキッシュ 製作:ローレンス・ゴードン チャールズ・ゴードン 原作:W・P・キンセラ 脚本:フィル・アルデン・ロビンソン 撮影:ジョン・リンドレイ 音楽:ジェームズ・ホーナー
出演:ケヴィン・コスナー バート・ランカスター ジェームズ・アール・ジョーンズ エイミー・マディガン レイ・リオッタ ギャビー・ホフマン フランク・ホエーリー

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眠らない街 新宿鮫

待望の滝田洋二郎監督の新作で、しかも大沢在昌「新宿鮫」が原作である。両方のファンとしては出来栄えが大変気になる作品だった。結論から言えば、見る前に抱いていた危惧は杷憂に終わり、面白い作品になっていた。警察官射殺犯人のアパートから新宿のライブハウスに至るクライマックスの呼吸がいいし、新宿の街も生き生きと描写されている。主人公の恋人でロックシンガーの晶を演じる田中美奈子も溌刺としていて、原作の晶より良かった(僕は小説の「新宿鮫」シリーズに晶というキャラクターはいらないのではないかと思う)。例のキスシーンばかりが話題になったけれど、銃製造のファーストシーンから印象的なラストのストップモーションまで見どころは多かった。

危惧していたのは真田広之が主役の鮫島のイメージに合わないのではと思っていたからだ。暴力や誘惑に屈せず、犯罪者から“新宿鮫”と恐れられるハードな刑事とさわやかで優しそうな真田広之とはなかなかイメージが結びつかない。しかし、真田広之はそれなりに鮫島のイメージを作り上げていた。原作とは少し異なるが、魅力的な鮫島を演じている。考えてみれば、原作の鮫島は36歳、真田広之は確か33歳だから年齢的には近いのだ。

荒井晴彦の脚本は原作をコンパクトにまとめて、必要なエピソードはすべて盛り込んである。ポケットベルに組み込んだ密造銃で中国人ヤクザが射殺される。たまたま現場にいた鮫島は凶器が特殊な銃であったことから、密造銃の天才でゲイの木津(奥田瑛二)が作ったものであると見抜く。木津は以前、鮫島が逮捕して刑務所に送ったが、既に出所していた。そのころ新宿署の警官2人が射殺される事件が起きる。これも木津が密造した銃を使ったらしかった。さらに2人の警官が同じ銃で殺され、新宿署には犯行をにおわせる電話が入る。こうした事件の縦糸にキャリア組の鮫島が防犯課の警部にとどまったままでいる理由、署の仲間からも毛嫌いされ、単独捜査をしなければならない境遇など、鮫島のキャラクターが説明され、晶との出会いが描かれる。

奥田瑛二が演じる木津は粘液質で出色のキャラクター。途中で姿を消すのは惜しいくらいで、これが最後まで残る悪役であってもよかったと思う。滝田洋二郎もこのキャラクターに力を込めて描いている。全体的にスピーディーな演出の中で、木津が鮫島を執拗に痛めつける場面は時間が止まったかのようだ。ただ、この場面にはあまり重要な意味はない。単なる主人公の危機を描いただけで、その後の展開には何ら関係しないし、主人公のキャラクターがこのことによって変わるわけでもない。晶と初めて結ばれる契機として、映画は導いていくが、ちょっと弱いなと思う。もっとも、原作でもこの場面の意味はあまり書き込まれていず、それがこの小説の弱さにもなっている。というのは主人公が死の恐怖に さらされる場面は、冒険小説などではかなり重要なのである。そこから生還する主人公を描くことが多くの冒険小説の主題であるからだ。映画の印象が意外に軽いのは、こうしたポイントとなる部分が弱いからにほかならない。

ともあれ、僕はこのスタッフ、キャストでシリーズ2作目にして最高傑作の「毒猿」も映画化してほしいと思う。台湾人の殺し屋毒猿とヤクザ20人との新宿御苑でのハードなアクションシーンをスクリーンで見てみたい。(1993年11月号)

【データ】1993年 1時間57分 製作:フジテレビジョン
監督:滝田洋二郎 製作:村上光一 原作:大沢在昌 脚本:荒井晴彦 撮影:浜田毅 美術:徳田博 音楽:梅林茂
出演:真田広之 田中美奈子 奥田瑛二 室田日出男 矢崎滋 今井雅之 松尾貴史 浅野忠信 新井康弘 塩見省三 中丸忠雄

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