ジュラシック・パーク

JURASSIC PARK

ティラノサウルスの咆哮と足音が耳にこびりつく。マイクル・クライトンの原作で恐怖の中心となったのは小型肉食恐竜のヴェロキラプトルだったが、映画はティラノの恐怖を凄い迫力で描き切る。中盤からは「エイリアン2」のクライマックスが延々と続く感じで見終わった後、グッタリと疲れた。ティラノは体長12メートル。ゴジラの恐怖が薄れたのは、大きくなりすぎたことが一因と思い知らされた。素早く人間を襲うにはこの程度の大きさが最も適当なのである。ライオンやトラのように人間を捕獲し、食べてしまう凶暴性は本当に怖い。トイレに座った弁護士の上半身にカブリと食らいつき、左右に振り回す場面を見て、そのリアリティに圧倒された(これは「ジョーズ」で、ロバート・ショウが鮫に下半身を食い付かれる場面の数倍のショック効果がある)。映画の完成度に関しては、まあ、いろいろとあるが、ティラノの恐怖を初めて完壁に描いて、これは記念碑的な映画だ。

原作を読んでいる者にとっては、少しダラダラした部分を感じる前半のタッチを打ち砕くようにティラノは突然登場する。暴風雨と停電に見舞われたジュラシック・パーク。意味をなさなくなった1万ボルトの高電圧線を引きちぎり、テストツアーの車2台に襲いかかるのだ。このティラノの動きの速いこと速いこと。あっと言う間に車をひっくり返し、押し潰す。これまでの映画の恐竜や巨大怪獣はゆったりと動くのが常識だった(エイリアンクイーンでさえ、それほど速くはなかった)。ゴジラシリーズなどは破壊シーンにリアリティを持たせるため、逆にスローモーションで撮影している。しかし、この映画の場合、ヴェロキラプトルもガリミムスも、とてつもなく動作が速い。ゆっくりしているのはもともと鈍い大型草食恐竜ブラキオサウルスぐらいである。この動きの速さは部分的にCGを採用したからできたのだろう。

SFXを担当したのは「ターミネーター2」のスタン・ウィンストン、デニス・ミューレン、フィル・ティペット、ILMなど一流のスタッフ。CGの恐竜にどれぐらいリアリティがあるか疑問だったが、どれがCGでどれがモデルアニメーションでどれが着ぐるみ(スーツ)なのか、見分けはほとんどつかない。この原作の映画化にSFXの高度な技術は不可欠であり、ここまで技術が完成されていなかったら映画の面白さは半減しただろう。その意味でこれはSFXの到達点を見るための映画だ。

だから、人間側が深みに欠けるという批判にもうなずけるのだが、僕はそれほど気にはならない。いくらなんでも恐竜パークなのだから二重三重のセキュリティシステムがなくてはおかしいし、あんなに簡単にパークの機能がマヒしてしまうのも現実的ではないが、それもこれも恐竜を見せるためなのだから仕方がない。もっともっと恐竜をたくさん登場させて欲しかったぐらいである。原作に登場する15種類の恐竜は予算の関係のためか、わずか6種類に減らされているのだ。

コナン・ドイル「失われた世界」は“半分大人の子供たちと半分子供の大人たちへ"捧げられた。「ジュラシック・パーク」は、より広範囲な観客を獲得しつつある。スピルバーグは、やはりスペクタクルな映画がうまい。(1993年8月号)

【データ】1993年 アメリカ 2時間7分
監督:スティーブン・スピルバーグ 製作:キャスリーン・ケネディ ジェラルド・R・モーレン 原作・脚本:マイケル・クライトン 脚本:デヴィッド・コープ 撮影:ディーン・カンディ 美術:リック・カーター 音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:サム・ニール ローラ・ダーン リチャード・アッテンボロー ジェフ・ゴールドブラム ボブ・ペック マーティン・フェレロ ジョゼフ・マゼロ サミュエル・L・ジャクソン

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永遠に美しく…

DEATH BECOMES HER

アメリカの30分とか1時間のテレビドラマにあるようなブラック・コメディ。そう感じるのはロバート・ゼメキスの映画としては珍しくアイデアが足りないからだ。あと一つか二つアイデアを入れて、一ひねりか二ひねりしないと苦しい。見終わって印象に残るのがゴールディ・ホーンのどてっ腹の穴であったり、メリル・ストリープの180度ひねった首ばかりでは困るのである。それにそういうSFXは予告編などでさんざん見せられていたから、よけいに物足りなさを感じてしまう。映画のオチも長編向きとは言えず、長い短編を見せられたような気分になる。

女流作家のヘレン(ホーン)と女優のマデリーン(ストリープ)は一見、仲のよい友人だが、お互いに「マッド」、「ヘル」と呼び合い、内心ではライバル意識バリバリである。ある日、ヘレンが紹介した婚約者のブルース・ウィリスをマデリーンは横取りしてしまう。これは初めてではなく、それまでにもことごとくマデリーンはヘレンの恋人を横取りしていた。ヘレンとウィリスが愛を語る場面から一転して、マデリーンとウィリスの結婚式の場面になるのは「ナイル殺人事件」を思わせる。あの映画でミア・ファーローが婚約者を横取りしたロイス・チャイルズに復讐を誓ったように、ヘレンもマデリーンに復讐しようとする。もっともそれはすぐにではなく、ヘレンが失恋のショックでブクプクと太ってしまい(まるで「バタアシ金魚」です)、精神病院に収容されてからのことではあるが…。

数年後、マデリーンは出版記念パーティーでヘレンが見違えるように痩せているのを見てショックを受ける。日ごろから容貌の衰えを感じていたこともあって、以前に紹介されていた永遠に若さを保つ秘薬を試す。ところが、この秘薬は若さを保つだけでなく、不老不死となる薬だった。実はヘレンも同じ薬を使っていたのである。2人はふとしたことでともに肉体的に死んでしまう。が、不死の薬だから体にガタがきても死ぬことができない。いわばゾンビになるのだ。 憎しみ合う2人が主人公だから、映画が今ひとつ晴ればれとしないのは仕方がない。それにしても、もう少し映画的に広がりが欲しかった。秘薬を売るイザベラ・ロッセリーニ(色っぽくて良い)の屋敷にはプレスリーやジェームズ・ディーンがいたりしてハリウッドの俳優たちもこの薬を使っていたと説明される。話が広がるかなと期待を持たせるのだが、結局それはそれだけの話であって、秘薬やロッセリーニの正体は謎のままだ。ロッセリーニの正体は魔女か悪魔でなければならぬ、と僕は思うのですが…。

山口雅也という作家に「生ける屍の死」(DEATH OF THE LIVING DEAD)というミステリがある(もちろんこれは「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」から着想を得ている)。死人が次々に生き返る場所での殺人事件を描き、なんと探偵すらも殺されて生き返るという話だが、「永遠に美しく…」を見て、この小説を思い出した。それは死化粧を施す葬儀屋がどちらにも出てくるからであり、どちらも主人公たちが必死に死んだことを隠そうとするからだ。しかし両者のアイデアの展開には大きな差がある。要するに、「永遠に美しく…」は脚本段階での推敲とオリジナリティが必要だったのである。(1993年1月号)

【データ】1992年 アメリカ 1時間44分
監督:ロバート・ゼメキス 製作:スティ−ブ・スターキー ロバート・ゼメキス 脚本:マーティン・ドノヴァン デヴィッド・コープ 撮影:ディーン・カンディ 美術:リック・カーター 音楽;アラン・シルベストリ
出演:メリル・ストリープ ゴールディ・ホーン ブルース・ウィリス イザベラ・ロッセリーニ

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山猫は眠らない

SNIPER

「ア・フュー・グッドメン」や「セント・オブ・ウーマン」などカタカナのタイトルが氾濫する中、この映画の邦題は一際目を引く。最近の風潮から言えば、単に「スナイパー」となってもおかしくなかった。いかにも冒険小説にありそうなタイトルをつけた映画会社はエライ。内容もまったく冒険小説的であって、ジャングルの死闘はギャビン・ライアル「もっとも危険なゲーム」を彷彿させた。一歩間違えば、「ランボー」シリーズのようになるところだったが、ルイス・ロッサ監督はそれを押しとどめ、狙撃のプロの厳しさと、アマチュアからプロヘ成長する男の物語に収斂させている。外見はB級だが、緊張感が渦巻く内容はA級の出来だ。

トーマス・ベケット(トム・ベレンジャー)は狙撃手として過去に74人の標的を倒してきた経歴を持つ。迷彩服に身を包み、ジャングルの中で1キロ先の標的を一撃で倒す凄腕の持ち主だ。冒頭、小さな村のゲリラ暗殺に成功するが、救出ヘリが予定より早く来たため、相棒が敵の銃弾に倒れてしまう。そのころ、ワシントンでは元オリンピックのライフル射撃銀メダリストでエリート軍人のリチャード・ミラー(ビリー・ゼイン)が暗殺指令を受けていた。標的はパナマの政変を狙うアルバレス将軍とその背後にいる麻薬組織のボス、オチョア。ミラーはベケットと組んで任務に当たることになる。

ジャングル戦の豊富なベケットに対して、ミラーはSWATに所属したことはあるものの、実際には狙撃の経験もない。インディオの依頼を引き受け、計画にはない狙撃を試みる場面で、ワンショット、ワンキルを強調するベケットに対して、ミラーは1発目を外してしまう。階級ではミラーが上司に当たるが、この2人にはプロとアマチュアの差があるのである。アルバレスのいる農場に向かう途中、2人は敵の狙撃手から追撃を受ける。相手はかつてベケットが狙撃を教え、敵に寝返った男だった。ジャングルの中で、手のうちを知り尽くした相手との緊迫の駆け引きが中盤の見どころとなっている。

撮影監督のビル・バトラーがとらえたジャングルの描写もこの映画の大きな魅力の一つだ。光と影を駆使し、心理的に追い詰められるような雰囲気を醸し出している。アメリカ人にとって、このジャングルはベトナムを思い起こさせるだろう。高性能ライフルから発射された銃弾を追い掛けるカメラワーク、超望遠で標的をとらえるスコープの描写もたびたび挟み込まれ、緊迫感を煽っている。2人はようやく目指す農場にたどり着くが、ここで、もうひと波乱あってベケットは敵に捕らわれる。拷問を受け、絶叫を上げるベケット。暗闇の中でミラーは救出に乗り出すが…。

同じ軍の命令を受けていても、「ランボー」とこの映画を分けるのは狙撃手としての在り方が大きなテーマになっているからだ。脚本(マイケル・フロスト・ベックナー、クラッシュ・レイランド)は個人の戦いを中心に据え、国の思惑は背景に過ぎない。ベケットが忠誠を尽くすのは軍に対してではなく、狙撃手としての自分の誇りに対してなのである。

「プラトーン」以来の軍人役であるトム・ベレンジャーが素晴らしい。寡黙で非情なプロを演じきって、代表作と呼べる映画になった。(1993年6月号)


【データ】1993年 アメリカ 1時間40分
監督:ルイス・ロッサ 製作総指揮:マーク・ジョンソン パトリック・ワッシュバーガー ウォロン・グリーン 製作:ロバート・L・ローゼン 脚本:マイケル・フロスト・ベックナー クラッシュ・レイランド 美術:ハーバート・ピンター 音楽:ゲイリー・チャン
出演:トム・ベレンジャー ビリー・ゼーン J・T・ウォルシュ

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あふれる熱い涙

SWIMMING WITH TEARS

フィリピン人の農村花嫁を描いて社会派のセンを狙ったのはいい。しかし、商社の悪どいやり口とか、コンクリート詰め殺人とか、写真週刊誌の批判まで取り込んだことによって、映画は逆に焦点をぼかしてしまった。これらの事件にかかわった人々が偶然にも寄り集まってくるこの映画の人間関係は、あまりにもご都合主義といわれても仕方がないだろう。脚本の整理がついていないのである。題材は多いが、一つひとつの掘り下げが足りない。そして結局、タイトル通りの熱い涙に収斂させていくのでは、社会派路線も腰くだけだ。詰めが甘い。映画製作の姿勢は大いに認めるけれども、技術的に未熟な点もあり、惜しい作品だ。

フィリピン人のフェイ(ルビー・モレノ)は300万円の契約で岩手の農村の花嫁となった。夫の昭一(鈴木正幸)は農村の男らしく寡黙で、食事の時も話さえしない。そんな生活に嫌気がさして、フェイは家出して東京に行き、友人のマリアが勤めていた新大久保のラーメン屋に住み込みで働くようになる。このラーメン屋は外国人の客ばかりである。隣のアパートには大学講師の国分(佐野史郎)と麻美(戸川純)という、どこか奇妙なカップルが同棲している。田代廣孝監督は固定カメラの長回しを多用して、淡々とこうした背景を説明していく。地に足のついた描写といってよく、けれんはないが、好ましい撮り方である。

フェイはフィリピン人の母と、商社に勤める日本人の父との間に生まれた日比混血の娘だった。農村花嫁となったのも、父に一度会いたいという気持ちがあったからだ。しかし連絡を取っても、商社に出向いても父は会おうとしない。国分もフェイを父親に会わせようと協力するが、商社から相手にされない。実は国分はこの商社の悪どさを以前から告発し続けていた。商社の方でも国分を煙たがっており、週刊誌を使い、国分と麻美の秘密をバラそうとする。

農村花嫁の問題だけで1本、国分と麻美の関係だけで1本の映画ができそうである。商社の在り方やフィリピンでの日本人の乱行に的を絞ってもいい。しかし、それをすべて1本の映画にぶち込んでしまったら、底が浅くなるのは当然だ。この映画の場合、岩手の農村の場面をもっと増やし、他の問題は点景に抑えた方が良かったと思われる。

社会的な問題を映画に取り入れることが最近の日本映画には少なくなった。それは商社や大企業が映画製作に絡んできたことと無関係ではないだろう。とりあえず、一部の観客が喜ぶ出来の悪いエンタテインメントを作り、そこそこの金を儲けて終わり、という今の邦画の在り方には疑問を感じざるを得ない。だから、「あふれる熱い涙」のような社会性を盛り込んだ自主製作の映画は貴重なのだが、製作姿勢が良心的であることと、完成した映画の評価とは別物である。この映画を巡る論評を見ていると、ようやく処女作を撮った監督に対してホメ殺しの感がなくもない。

ルビー・モレノをはじめとする出演者は総じてよい。佐野史郎は“冬彦さん"のイメージとは違うが、やはりいくらか狂気をにじませていた。(1992年11月号)

【データ】1991年 シネバレエ 1時間44分
監督:・脚本:田代広孝 製作:川上秀次郎 田代広孝 撮影:佐久間公一 美術:南雅之 平井敏哉 音楽:橋本仁
出演:佐野史郎 戸川純 ルビー・モレノ 鈴木正幸 梅津栄 吉沢健 川上泳 石川律雄 伊藤知則

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クライング・ゲーム

THE CRYING GAME

シリアスに始まった映画がいつの間にか、とぼけた味わいになっていた。だから、本気でこれを愛の映画なのだなどと言われると、おやおやと思ってしまう。英国流のユーモアと理解すれば良いのではないか。恐らくアカデミー・オリジナル脚本賞受賞のポイントとなったであろう“秘密の部分”は予想通りだったから別に驚かなかったけれど、本当なら悲劇的なシチュエーションなのに、幸福感に満ちたラストがとても心地良く、満足のいく出来栄えである。主演のスティーブン・レイと、これが映画デビューでアカデミー助演男優賞にノミネートされたジェイ・デヴィッドソン、フォレスト・ウィテカーら出演者も好演している。

主人公のファーガスはIRA(アイルランド共和国軍)の兵士である。IRAと言えば、ジャック・ヒギンズとか高村薫の小説を思い出すのだが、アイルランド出身の二一ル・ジョーダン監督らしく、その描き方には説得力がある。前半はとてもシリアスだ。逮捕された仲間を救うため、IRAの一部が英国軍の黒人兵ジョディを誘拐する。ファーガスはジョディの世話をするうちに友情らしきものを覚え始める。しかし、仲間が口を割り始めたとの情報が入ったため、ジョディの処刑が決定。ファーガスが自ら手を下すことになるが、その中ですきを見たジョディは逃げ出し、道路に飛び出したところを軍のトラックに跳ねられて死んでしまう。

この場面の直後、IRAの隠れ家が軍隊によって空から陸から一斉に急襲される場面のたたみ掛けるような迫力と悲劇性に、これは今年のベスト1ではないかと思ったが、残念ながら、映画は後半、別の物語になっていく。ジョディは死ぬ前、「恋人のディルに愛してたって伝えてくれ」と頼んでいた。ファーガスはこの約束を果たすため、ロンドンに出ていくのである。捜し出したディルは美容師で大変な美人。ファーガスは徐々にディルに惹かれ、愛し合うようになる。そんな時、IRAの仲間がファーガスに接触してくる。仲間は全員死んだわけではなかったのだ。ファーガスは要人の暗殺を指示される。引き受けなけれぱ、ディルの身が危ない…。

結局、.後半はファーガスとディルの愛の話になるのである。その駆け引きは大変面白く、これはこれで良い。それにニール・ジョーダンが描きたかったのもこちらの方だろうとは思うのだが、「それじゃあ、前半のシリアスはいったい何だったのさ」、と文句のひとつも言いたくなる。こういう話ならば、IRAを題材にしなくても良かったわけである。これはヒッチコックが「サイコ」の導入部分で本筋とはまったく違う話を持ってきて、観客を映画に引きずり込んだのと同じ効果をもたらしてはいるのだが、僕は冒険小説が好きだから、IRAの話ももっと見たかった。ま、これは好みの問題である。

ところで、映画に出てくるサソリと力エルの寓話を、僕は20年以上前にある漫画の解説で読んだことがある。ただ、オチが違っていた。映画の中で、理不尽にもカエルを刺したサソリは「仕方がないんだ。これは僕の性だから」と言うが、僕が知っているバージョンでは「それが東南アジアさ」と言うのである(ベトナム戦争が激しかったころである)。この寓話の原典は何なのでしょうか。(1994年1月号)

【データ】1992年 イギリス 1時間53分
監督・脚本:ニール・ジョーダン 製作総指揮:ニック・パウエル 製作:スティーブン・ウーリー 撮影:イアン・ウィルソン 美術:ジム・クレイ 音楽:アン・ダドリー
出演:スティーブン・レイ ジェイ・デヴィッドソン ミランダ・リチャードソン フォレスト・ウィテカー エイドリアン・ダンバー

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いつかギラギラする日

THE TRlPLE CROSS

画面を貫く疾走感が心地よい。ロックのリズムに彩られ、最後までノンストップのアクションが繰り広げられて、息つく暇もない。邦画のアクションはここ数年、北野武の2本ぐらいしかなく、寂しい思いをさせられていただけに、深作欣二のアクションヘの回帰を素直に喜ぶべきだろう。こういう元気のいい映画こそが沈滞しきった邦画の起爆剤になりうるのである…。と、持ち上げておいて少しケチをつけるなら、この映画、アクション映画になくてはならない核の部分が少し弱い。そのためにアクションのつるべ打ちが終盤、スラップスティックまがいになってしまう。本当に惜しいところで傑作になり損ねたな、というのが正直な感想だ。

その核とは何かと言えば、最後までアクションの意味(必然性)を持続させうる主人公なり登場人物なりの心情である。言い換えれば、登場人物たちをアクションに駆り立てる理由づけがアクション映画には不可欠なのだ。アクションに意味などいるか、という人はアクション映画の何たるかがまるで分かっていない。必然性のないアクションというのはスラップスティックと何ら変わらないのである。例えば、「マッドマックス」の核は妻子を殺された主人公の復讐であり、「ダイ・ハード」のそれは卑劣なテロリストたちへの怒りと人質にされた妻への愛情である。サム・ペキンパーやドン・シーゲルや黒沢明などアクション映画の巨匠と言われる人たちはみんなそれを心得ている。

もちろん深作欣二だってその程度のことは分かっているはずだ。ところが、主人公の萩原健一の心情にはそれがない。強盗を重ねてある程度、金の余裕はありそうだから、5000万円に執着する必要はないし、殺された仲間の復讐のため、というのも説得力がないのである。あの激烈すぎるアクションを続ける必然性にはなり得ていない。アクションの必然性を体現しているのは、開店のためにどうしても5000万円が必要な木村一八でもなく、コミカルなヤクザたちではさらさらなく、木村一八と行動を共にする荻野目慶子なのである。

“いつかギラギラする”ことを夢見ているのは荻野目慶子演じる麻衣という、いささか頭の軽い女だ。それは「もっと私を見てよ!」というセリフに端的に現れている。しかし、残念なことに荻野目慶子はミスキャスト。あの軽薄さとけたたましさは、映画の中で萩原健一が嫌うのが分かるくらいに、まったく大人の雰囲気を壊してしまっている。

この映画の話は昨年の日向映画祭で、脚本の丸山昇一さんに聞いた。「深作監督は厳しいいんだけど、やりがいがあるよ」と語っていたが、多岐川裕美や樹々木林などのハードボイルドさとラストの明るさは丸山さんの資質によるものだ(実を言うと、丸山さんの本質はハードボイルドとは別の部分にある、と僕は思う。だいたい、あんなに明るい人がハードボイルドに向くはずがない)。一方で、木村一八とヤクザの面々は「仁義なき戦い」のようながむしゃらなキャラクター。主人公の萩原健一はその両方を兼ね備えていて、監督と脚本家のせめぎ合いが現れたものと思われる。

いろいろとケチをつけたけれども、総じて僕はこの映画には好意的である。カッコばかりつけているヤク中の殺し屋原田芳雄にもっと見せ場が欲しかったとか、八名信夫の親分には真剣さが足りないとか、ほかにも不満はあるが、志は決して低くない。映画の冒頭のピンと張り詰めたアクションの持続を次作には期待したい。(1992年11月号)

【データ】1992年 松竹第一興業=バンダイ 1時間48分
監督:深作欣二 製作:奥山和由 脚本:丸山昇一 撮影:浜田毅 美術:今村力 音楽:菱田吉美
出演:萩原健一 木村一八 荻野目慶子 多岐川裕美 石橋蓮司 八名信夫 安岡力也 原田芳雄 千葉真一 樹木希林

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