スクリーン(新聞連載コラム) 

2003年11月

「死ぬまでにしたい10のこと」 残された時間懸命に生きる
(2003年11月6日付)
 並んで座ったロビーで医師がアンに言う。「余命は二カ月…」。二人の幼い娘、優しい夫とトレーラーハウスで暮らすアンは二十三歳だ。つましいながらもあふれるような幸せに包まれていた。
 そこへ突然の死の宣告である。その衝撃、絶望は計り知れない。彼女はその運命の重圧を丸ごと自分の胸に封じ込め、くじけそうになりながらも、死への準備を始める。その時から日常のささいな事が、とてもいとしく大事に思えてくる。人は、死というものを意識した時、初めて“生きる”ことを知り、実感するということがアンの聡明(そうめい)で温かなまなざしを通して伝わってくる。
 サラ・ポーリーが繊細でガラスのような美しさの中に、残された時間を精いっぱい生きる芯(しん)の強いアンを力まず、サラリと演じている。監督はイザベル・コヘット。「トーク・トゥ・ハー」のペドロ・アルモドバル監督が制作にあたっている。(杉尾)


「人生は、時々晴れ」 普通の人々の家族の絆描く
(2003年11月13日付)
 フィルはタクシーの運転手で四人家族。スーパーで働く妻、老人ホームで清掃員として働く娘、そして仕事もせず、毎日ぶらぶらしている息子と暮らしている。家族の心はばらばらで、顔を合わせれば、けんかばかりしている。
 そんなある日、フィルは仕事中に海を見に行こうと思い立つ。だが、そのころ、自宅では息子が心臓発作で倒れ、フィルの行方を捜し求めていた。
 傑作「秘密と嘘」(一九九六年)で有名なマイク・リー監督のこの作品には美男美女は全く登場しない。出てくるのはどこにでもいる普通の人々である。しかし、それによってこの作品の普遍性は高まり、大きな説得力を備えることになった。
 「家族の絆(きずな)とは」「私たちにとっての幸せとは」。この映画を見ることで、きっと、家族の見方が変わってくるはずである。そして、他人にも優しくなれるかもしれない。(酒井)


「キル・ビルvol.1」故深作監督にささげた作品
(2003年11月20日付)
 クエンティン・タランティーノ監督の日本映画(やくざ映画・チャンバラ映画)フリークぶりを思う存分発揮した作品に仕上がった。一月に亡くなった深作欣二監督の影響は特に大きく、冒頭で「巨匠深作監督にささげる」との献辞が出る。
 結婚式の最中に家族を皆殺しにされた花嫁(ユマ・サーマン)が暗殺集団の首領ビルとその配下の殺し屋たちを日本刀で血祭りにあげるというお話。
 残酷描写も多いためR15指定(十五歳未満観賞不可)になったが、マカロニ・ウエスタンやカンフーまで取り入れ、B級映画の面白さを備えているので最後まで飽きさせない。
 重要な役に千葉真一、栗山千明を使い、アニメ部分・美術・衣装・音楽の一部は日本のプロにまかせ、なんと、締めには監督ごひいきの梶芽衣子「怨み節」が流れる。ここまで自分の趣味を徹底して押し通した映画も珍しいのではないか。
 来年公開の続編が楽しみだ。(笹原)


「夢 追いかけて」 映画的技法に逃げない潔さ
(2003年11月27日付)
 映画には新聞が出てくる場面が時々ある。例えば怪獣映画。ゴジラの被害の大きさを新聞が簡潔に伝える。スポーツ映画では主人公の勝ちっぷりを小気味よく紹介する。映画の省略のテクニックの一つなのだが、輪転機が回る場面でもあれば、そのニュースは興奮を倍加させるだろう。
 「夢 追いかけて」はスポーツ映画の変型といえるだろう。ここでも主人公が二度のパラリンピックで合計八年間、どのような活躍をしたのかをほんの四秒で見せてくれて、ラオール・ウォルシュか、B級映画のようだと手をたたきたくなる。もちろん、これは最大級の賛辞である。
 スポーツ映画の最低の慎みとして、泳いでいる身体はスクリーンの上に刻み込まれており、カットを割るなど映画的技法に逃げ込まない点は実に潔い。監督の花堂純次が宮崎出身であるとか、障害者を扱った映画だ、とかいう文脈を忘れても十二分に面白いのだ。(臼井)


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