シネマ(新聞連載コラム)

2004年6月

「ビッグ・フィッシュ」 父親の人生とファンタジー
(2004年6月3日付)

ティム・バートンの映画には、いつも「絶対ありえない」話があるが、同時にささいなことで悩んだり、喜んだりというありふれた感もある。

主人公は死の床にある父(ユアン・マクレガー/アルバート・フィニー)をみとろうとする青年(ビリー・クラダップ)。父はかつて青年にたくさんの思い出を語って聞かせた。それは「ありえない」ものばかりで、青年は真実を聞き出そうとする。母(アリソン・ローマン/ジェシカ・ラング)とどうやって出会い、家庭を持ち、どんな仕事をしたのか―彼が聞きたいのは、そういう普通の出来事なのだ。

しかし父は再び突拍子もない話を始める。巨人、不思議な村と魔女、サーカスでの怪異、戦争、そして青年が生まれた日に釣り上げた巨大な魚…。それらは不思議でおかしくて、愛らしい。死を控えた現実と色鮮やかなファンタジーが織り交ぜられて、素晴らしい人生を送る秘訣(ひけつ)を見た思いがした。(野口)



「レディ・キラーズ」 間抜けな泥棒と手ごわい夫人
(2004年6月10日付)

次々に人が死んで行く。怖い怖い金庫破りのお話なのに、クスクス笑わずにはいられない。さすがブラック・ジョーク・コメディーには定評のあるコーエン兄弟監督の作品だ。

舞台はミシシッピ川に面して建つ一人暮らしのマンソン夫人の家。川に浮かぶ豪華客船はカジノである。一見上品そうに見える大学教授と名乗る男が部屋を借りにやってきた。実はカジノを狙った大泥棒の首領である彼は、言葉巧みにマンソン夫人をだまし、四人の仲間と地下室からトンネルを貫通させて、やすやすと大金を手にしてしまう。しかしマンソン夫人に見破られ、五人は彼女を殺そうとあの手この手を使うのだが…。

ここからが断然面白くなってくる。個性豊かな泥棒たちの間抜けぶりが面白い。敬けんなクリスチャンであるレディーはなかなか手ごわい。トム・ハンクスも相変わらずの芸達者で十分満足のいく作品だった。(林田)



「21グラム」 幸福を失った人々の絶望感
(2004年6月17日付)

薬物依存症の過去を持つ女が最愛の夫と二人の娘を事故で失う。事故を起こした男は前科者だが信仰と家族への愛を胸につつましく暮らしていた。地獄から這(は)い上がってきた彼らが支えにし守ってきた幸せを失った絶望は計り知れない。二人の慟哭(どうこく)に胸が苦しくなる。女はナオミ・ワッツ。男はベニチオ・デル・トロ。

ナオミの夫の心臓はショーン・ペン扮(ふん)する大学教授に移植される。彼に暗い過去はないが、心臓移植なしでは生きられない宿命を背負っている。ようやく得た新しい心臓さえ彼を救えないという現実も。

作品に流れるのは強い喪失感だ。命と幸福の喪失。「それでも人生は続く」というせりふが何度か登場するが、その場面ではあまりにも無力な言葉がラストで鮮やかな意味を持つ。題名の21グラムは人が死ぬ時、その重さだけ体重が軽くなるのだという。コイン五個分の重さが何と重いことだろう。(手塚)



「ドッグヴィル」 大人のための残酷おとぎ話
(2004年6月24日付)

田舎町に絶世の美女が逃亡者として現れる。彼女は皆にかくまってもらう代わりに労働を提供する、と約束させられる。美女グレースはニコール・キッドマン。町の人たちは老人も子供も男も女も彼女に夢中になるが、次第にその要求や態度は彼女を人とは思わぬものへと変わっていく。

監督のラース・フォン・トリアーはどの作品でも残酷でごう慢だ。人として許せない事を平気で主人公に行ってみせる。この作品では床に線を引いただけのセットで観客に視覚的にも苦痛を強いる。建物に壁がなかったら? 私たちの営みが全て周りに筒抜けだったら? 私たちの行動すべてはこっけいに見えることだろう。

陵辱され続けるキッドマンは本当に美しい。だからこそラストに観客はスッキリとした気持ちになってしまうのかもしれない。アメリカを比ゆしているそうだが、裏に恐ろしい意味を持つ民話のような大人のためのおとぎ話だと感じた。(手塚)



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