ご存じの事かと思いますが、去る6月26日と27日、宮日会館とシーガイアサミットホールにて第5回宮崎映画祭が行なわれまして、多数のゲストが来宮、盛り上げていただきました。今回の「知ったかぷりの名台詞」はその特集という意味も込めて、期間中のゲストの方々の言葉を拾ってみたいと思います。
「色々と有りがとうございます」(磯村一路)
パーティ会場で、最後まで残っていた磯村監督に挨拶をしたときの言葉。ま、これは何ということはないですね。
「今年もやっかいになります」(余貴美子)
宮日会館に映画を見に、突然現れた余さんとその事務所の社長。来るとは聞いていたけれども、「一般の人と同じように現れるとは…。「うわっ!余さん!」と言ったきり、うろたえる俺に言った一言がこれ。ちなみに見た映画は「チチカット・フォーリーズ」。つまり余さんと一緒に映画を見た人がいるということですよね。
「いやあ、九州の人はさすがにお酒が強い」(篠原哲雄)
26日の夜10時スタートした飲み会は、多数の脱落者を出しながら、翌日明け方5時に終了。最後まで付き合ってくれた篠原監督と日活のプロデューサーの盛さん。しかしなぜか27日、ハイである俺を見ての一言がこれ。実は酒が強いんじゃなくて、まだ酔っていただけのことなのだが。
「俺、酔わないんだ」(金子修介)
27日、夜8時にスタートした狂乱の打ち上げ騒ぎ。しかしその中で平然と「今回の集客はあれで良かったの」だとか、「うまいね、これ」だとか言っていた金子監督。「監督、強いっスね」の一言に帰ってきた言葉がこれ。しかし今回、金子監督には一番緊張した〜。
「今回の映画祭の総括を一言!」(笠松則通)
同じく上記の打ち上げ騒ぎの中で、なぜか実行委員が回していたホームピデオを取り上げて、回し始めたキャメラマンの笠松さん。椎井友紀子さんによると「こんなにニコニコしている笠松さんは見たことがない!」とのこと。恐るべし打ち上げ。上記の一言はこちらにビデオを向けての一言。
「俺にサインしろ」(相米慎二 その1)
やはり、上記打ち上げキチガイ騒ぎの中、突然何を血迷ったか、こんな事を言い出した相米監督。しかも、その通りに相米監督のTシャツにサインしまくる実行委員会の面々。さらに、その中で阪本順治監督は焼き肉のタレによる手形をそのシャツに刻印する。この行動によりキチガイ騒ぎはさらに狂乱度を増したのである。(*註)
「俺、モギリやりますから」(森達也)
この言葉通り、森監督には自作『「A」』の上映時にモギリをやってもらいました。だって、やってくれるって言うんだもん。人手も足りなかったしぃ。しかしゲストにモギリをやらせる映画祭って…。
「金貸してくれよ〜」(佐藤真)
25日夜、ソフトシェルクラプで「笑点」のように、御題を決めて一言、という趣向に興じたのだが、「ジェニファーといえぱ?」という問いに対する世界的ドキュメンタりー作家の答えがここれ。恐るべし日本のドキュメンタリー。
「俺は朝日を許さんぞ」(阪本順治)
26日夜、やはりソフトシェルクラプで、いきなりパーテンをやり出した阪本監督が、俺にいきなり言い出した一言がこれ。「俺も許しません!」と言うと、「よし、仲間や」ということで二人で朝日をやっつける。
「アホですね」(樋口真嗣 その1)
27日深夜、PHAROSでの打ち上げ。物販コーナーに近寄った伊藤和典さんが、例の模型を見て興奮、「真ちゃんに見せよう」。樋口特技監督曰く「これ、どこで売ってたんですか」、脚本家伊藤和典答えて曰く「臼井さんが作ったんだよ」。その答えが上。
「特技監督とか、映画祭の事務局長ってのは脚本家より日陰者ってことかよ〜」(樋口真嗣 その2) 27日深夜、正確には28日早朝3時、ラーメンを食べに行こうと樋口、伊藤の両名と映画祭メンパーが数名がPHAROSを脱出。その後を迫ってきた数名、なぜか伊藤和和典さんだけに「握手して下さい」。「ウ〜ン」とうなって上の一言。
「何やってんだ」(椎井友紀子)
28日見送りの日、疲労困憊の俺はポードに「元気です」と書いて、みんなから「大丈夫ですか」と言われたらそれを見せるというギャグを用意していたのだが、一番ウケたのが椎井さん。それを見ての一言。
「そんなヤツは映画を見ちゃいけない」(相米慎二 その2)
やはり見送りの日、宮崎は旨いものがないという相米監督。「お前、旨いところへ連れていけ」と俺に言うが、「いや監督、俺、何時もコンピニの弁当なもんで」と答えると、相米慎二曰く上。
「むっちゃ楽し〜。また呼んでね」(伊藤和典)
これまた見送りの日。「伊藤さん、どうでした?」に対する答え。
「今日は寝て下さい」(安岡卓治)
東京に今着いたという『「A」』の安岡プロデューサーから電話が入る。そのときの言葉。
ということで狂乱度を昨年の3割増に増量した今年の宮崎映画祭は、ゲストのゲンナりした顔と実行委員の極度の疲労を残して終了したのである。これを読んで「楽しそー」なんて思わないように。気分は“FLY ME TO THE MOON”である。(うすい)
※註
相米慎二監督は2001年9月9日に逝去されました。
監督がなくなって随分経ってしまっているのですが、上に掲げた監督のエピソードはいかにも「らしい」なと思ってしまいます。サインを貰うべきところを、逆にサインさせてしまうというこの価値観の転倒。そしてその瞬間に噴出する感情、行動、情動の諸々。これこそが「生」であり、映画とはその時間と空間に出現する「生」の断片を残酷に切り取るものである、相米慎二の映画をそんなふうにして僕は見ています。
『セーラー服と機関銃』は父親の死によって物語は始まりますし、『東京上空いらっしゃいませ』は主人公が死んだ瞬間に始まる映画です。『あ、春』は先に亡くなっていると思われていた父親が蘇る話ですし、『夏の庭 THE FRIENDS』などは全編に渡り死に逝く過程を描いているといえそうです。
こんな風に相米慎二の映画では決して「死」は終わりを意味しなかった。むしろ「死」と接することにより映画の中の登場人物は生き始めている感があります。それらの映画を模倣するならば、相米慎二の逝去は、決して終わりなどではなく、何かの始まりなのではないか。上の文を書いた筆者は、今、そんな風に考えています。
この回の映画祭終了のとき、見送りに行くと、最後に「また呼べ! 来てやる!」と(らしい傍若無人な)言葉をもらったのですが、監督から直接言葉をもらうことが、以降、ないのかと思うといささか残念ではあります。その他にも他の実行委員は監督を街に連れ出した時に、「宮崎駄目。映画にならん!」と言われたり、実行委員の父親が囲碁好きであると知るや、強引に呼び出し囲碁に興じていたりと、それぞれの映画祭のメンバーにそれぞれの相米慎二を残していきました。そしてその傲慢な言葉の裏腹に垣間見えるその人柄は、その映画同様に強烈に人を惹きつけるものでした。
しかし、こんな感傷もおそらく監督は一刀両断するでしょう。ならばその代わりにどんな言葉を用意すればいいのか、そのことが痛烈な宿題として残されたような気がしています。