スクリーン(新聞連載コラム) 

2003年5月

「魔界転生」 深作監督のリメイク版
(2003年5月1日付)
 窪塚洋介主演で新しく「魔界転生」がリメイクされた。ご存知の方もいるかもしれないが、二十二年前に公開された旧作は、先日鬼籍に入った深作欣二が監督した作品である。
 この深作、われわれ映画愛好家にとっては、映画の持つ猥(わい)雑さを画面にたたきつけ続けたという意味でなにより偉大だったが、なにしろ根が猥雑にあったわけだから、感動的ともいえる愚作がたくさんあった。
 旧「魔界転生」などはまさに愚作中の愚作。山田風太郎のめっぽう面白い原作を超えるのは容易ではない。
 しかし、今回の期待はクララという登場人物を演じる麻生久美子にある。原作でも、このクララがなんとも艶(つや)っぽく、かつ哀れで、はかない。難しい役どころだが、麻生久美子ならできる。もし麻生久美子の名をご存じない方は、記憶にとどめられたい。大女優になる器なので、ぜひ劇場で確かめられたい。(臼井)


「ボウリング・フォー・コロンバイン」 銃犯罪多発の原因深く追及
(2003年5月8日付)
 今年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞作。受賞スピーチで監督のマイケル・ムーアがイラク戦争批判を行ったことで、話題になった。
 この作品、NHKやBBCのドキュメンタリーを想像したら大きな間違い。一九九九(平成十一)年にコロラド州のコロンバイン高校で起きた二人の高校生の銃乱射事件に基づいて、「なぜ、コロンバイン高校銃乱射事件は起きたのか? なぜ、アメリカで銃犯罪が多発するか?」というテーマをドキュメンタリーでつづったものである。
 ムーアは問う。「映画やテレビ、ビデオゲームでのバイオレンスのはんらんが悪いのか。家庭の崩壊か。高い失業率が原因か。それともアメリカの暴力的歴史のせいか」。やがてムーアはこのような結論に達する。「アメリカ人の持つ恐怖心が人々を銃に向かわせている」。この作品はアメリカの良心である。(酒井)


「至福の時」 少女に尽くす中年男に共感
(2003年5月15日付)
 「初恋のきた道」「あの子を探して」でおなじみのチャン・イーモウ監督の作品。イーモウ監督、相変わらず少女の描き方がうまい。
 この作品でもヒロインのドン・ジエ演じる目の不自由な少女の可憐(かれん)さは、日本のどのアイドルよりも光り輝いている。
 結婚したくてしかたがない中年男が、自分は旅館経営者だと嘘(うそ)をついたことから、相手の別れた夫の連れ子である盲目の少女の面倒をみることになるというストーリー。イーモウの細やかな演出が少女の切ない気持ちを盛り上げる。
 貧しいけれども、精いっぱい少女に尽くす中年男の姿は、多くの観客の共感を呼び、少女の不幸な生い立ちとその生き方に、涙を誘われずにはいられない。
 今の日本ではこんな話は気恥ずかしくてとてもドラマにはできないだろうけど、そこは中国、まだ、素朴さと人情が息づいている。(酒井)


「シカゴ」 大満足の本格ミュージカル
(2003年5月22日付)
 久しぶりに本格的ミュージカルに出合ったうれしさで、身も心も躍り、大満足。画面狭しとアップで歌い踊るレニー・ゼルウィガー、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ、リチャード・ギア、この三人がこんなに歌もダンスもうまいとはただただ驚かされる。ハリウッド映画の神髄を見せつけられたようだった。本年度アカデミー作品賞に輝いたのも納得できる。
 冒頭、キャサリンの歌う「オール・ザット・ジャズ」が流れた途端、この映画の成功が分かる。彼女の美しく華やかな悪女ぶりはさすがだ。アカデミー助演女優賞にふさわしい。
 今年のアカデミー賞授賞式はイラク戦争下だったために、式典も地味になされたと聞いたが、反対に作品賞にはアメリカならではの、きらびやかな「シカゴ」に決まったことがうれしい。
 つらい時だからと、何もかも暗くなるよりも、映画くらいはパッと明るい方がいい。胸のすく作品である。(林田)


「勝手にしやがれ」 鮮烈な叙情と速すぎる展開
(2003年5月29日付)
 宮崎映画祭がゴダールの『勝手にしやがれ』を上映する。この世にアホ男の映画というジャンルがあるなら、この映画はその筆頭だろう。車を盗み、人を殺し、女に惚れて、裏切られて結局死ぬ。アホだ、こんなアホが映画になるのかと余計な心配のひとつでもしたくなるほどだ。
 しかし映画は、『勝手にしやがれ』により更新される。お話によってではなく、その語り口によって。恐らく映画の話を追う観客は、置いてけぼりを食らうだろう。それほどまでにこの映画は速い。その速さゆえに、映画史は更新された。
 ラスト、主人公は「最低だ」と一言呟き死ぬ。客が最低はお前やんけ、とツっ込む前にあっさり映画は終わる。速い、速過ぎる。しかしはっきり書いておくが、鮮烈な抒情とはまさにこのシーンだ。夕陽を背景に、男女のアップ、そこにショパンが…、こんな馬鹿なものを抒情だと思っている映像がどれだけ多いことだろう。もうウンザリだという真の映画のためにこの作品は存在する。人類必見だ。(臼井)

※註:新聞掲載時には以下のように修正してあります。「アホ」「馬鹿」は不快用語ではと指摘されたためで、臼井さんの了解を得てhiroが修正しました。

 六月開催の宮崎映画祭でジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(一九五九年・フランス)が上映される。この世に愚かな男の映画というジャンルがあるなら、この映画はその筆頭だろう。
 主人公(ジャン=ポール・ベルモンド)は車を盗み、人を殺し、女にほれて、裏切られて結局死ぬ。こんな愚かな男の話が映画になるのかと余計な心配のひとつでもしたくなるほどだ。
 しかし、映画は「勝手にしやがれ」により革新された。お話によってではなく、その語り口によって。映画の話を追う観客は、置いてけぼりを食らうだろう。それほどまでにこの映画は速い。ラスト、主人公は「最低だ」と一言つぶやき死ぬ。速い、速過ぎる。
 鮮烈な叙情とはまさにこのことだ。夕日を背景に男女のアップ。そこにショパンが…。くだらない叙情はもうウンザリだという真の映画ファンのためにこの映画は存在する。


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