シネマ(新聞連載コラム)

2004年4月

「月曜日に乾杯!」 単調な毎日を脱する中年男
(2004年4月1日付)

単調な毎日に嫌気が差した中年男のささやかな反抗のお話。来る日も来る日も工場に通い、ほこりまみれで帰っても家族はろくに返事もしない。そんな自分の退屈な人生に、ある日ふと気付いたさえない主人公は工場を無断欠勤、家族に何も告げずに旅に出る。

映画は単調な工場の風景を延々と映し、会話も少なく、イライラさせられるが、監督のオタール・イオセリアーニは旅に出る彼の気持ちを十分に分からせようとしたのかもしれない。変化の欲しい観客はやっと動き始めた画面にほっとする。

旅先はベネチア。そこでゴンドラに乗り、自由をおう歌するが、さほどの変化も事件も起きないまま、また画面は淡々と進む。観光客の多いベネチアでも住民はやはり、単調な毎日であることを知り、彼は自分の家へと帰って行くのだが…。

この映画、「絶対お薦め」とは言い難い。退屈する人も多いだろう。しかし、何やら心休まる物語だった。(林田)



「デブラ・ウィンガーを探して」 米女優34人にインタビュー
(2004年4月8日付)

華々しく脚光を浴びていた女優がいつの間にかスクリーンから姿を消してしまう。男優優先のハリウッドでは、さほど珍しいことではない。「愛と青春の旅立ち」のかわいらしい顔立ちで世界を魅了したデブラ・ウィンガーも最近はどうしているのだろうか?

疑問に思った女優ロザンナ・アークェットがハリウッド女優三十四人にインタビューを試みた一風変わったドキュメンタリー(?)映画である。

仕事と家庭の両立、男社会の求める女性像と自分とのギャップ、年齢のことなどなど、彼女たちは歯に衣着せずに本音でしゃべりまくる。映画のイメージとはがらりと変わってさばさばと知的なシャロン・ストーン。ノーメイクのまま平然とインタビューに答えるダイアン・レイン。子育て中のデブラ・ウィンガー。みんなみんな彼女たちはすてきだった。ビデオ発売中。(林田)



「ジョゼと虎と魚たち」 純粋な恋愛に共感し涙する
(2004年4月15日付)

不思議な題名の映画である。しかしこの作品、ここ数年に公開された邦画の恋愛映画の中で最も強いインパクトを持っている。

大学生の恒夫は、ふとしたことから足の不自由な少女くみ子と出会う。くみ子は、フランソワーズ・サガンの小説から取った名前ジョゼを自分の名前として恒夫に呼ばせる。そんなジョゼに恒夫は恋するようになり、やがて同せいを始める。しかし恒夫はジョゼがだんだん重荷になってくる。

田辺聖子の小説の映画化である。この作品の魅力はなんと言っても、ジョゼと恒夫の純粋な恋愛にある。特にジョゼのいちずな思いには共感し涙する人も多いと思う。主演は、ひとはよいが少々頼りない恒夫に妻夫木聡、情熱的なジョゼには池脇千鶴。特にジョゼを演じる池脇千鶴の純粋さと口の悪さはこの作品の最大の魅力である。恋愛を経験したことのある人なら誰でもこの作品に共感できるのではないだろうか。(酒井)



「イン・ザ・カット」 濃密な“女”の雰囲気を堪能
(2004年4月22日付)

オープニングの「ケ・セラ・セラ」の不確かな調べと美しい花びらの舞いが観客を一気に、ただし不吉な予兆を持って物語に引き込んでいく。

メグ・ライアンはこの役のために今までの彼女のキャリアがあったのでは、と思わせるほどの適役。仕事あり独身恋人なしの彼女は殺人事件をきっかけにある男性と出会う。それは愛や恋ではない。もっと深い何か、である。劇中登場する詩の数々が彼女の深い心の内を表すキーワードになる。その言葉は映画の雰囲気そのままに性的で濃厚だ。殺人事件の犯人は誰か、という謎解きはこの作品ではあまり関係ないように思える。そんな事はどうでもいい。

血まみれの殺人現場の光景ですらその赤を美しく思ってしまうほど、濃密な女を感じさせる雰囲気、そのにおいを感じているはずなどないのに頭の中がまひ。映画のエンドロールが流れるまで心地よい濃厚な雰囲気に浸ってほしい。(手塚)


「美しい夏キリシマ」 差し出される終戦時の風景
(2004年4月29日付)

黒木和雄監督から直接笑い話として聞いた話だが、この作品にある性描写が問題となって、文科省は、特選はおろか、推薦することさえためらったという。実際に映画を見てもらえれば分かるだろうが、性描写はあるものの、観客はそれにいかなる情欲をもかき立てられることはない。もっともそれを生きる悲しみだとか、戦争の悲劇だとか、誰もが理解できるような言葉にすり替えてはならない。すり替えは一種の閉塞(へいそく)でしかなく、それが先の役人のような愚挙を引き起こすことになるからだ。

賢明な観客にできることといえば、この映画を現実のものとして体験することに尽きる。事実、この映画は一九四五(昭和二十)年の空気を、光を、風を、現在のものとして観客に差し出す。まず、その達成の深さに驚くこと。その時、この映画の無限の可能性が開かれる。感想を述べて終わってしまうような映画では断じてない。(臼井)



[「シネマ」トップ]