2008年7月アーカイブ

Happening 不思議なのはなぜこの程度のアイデアの脚本でプロデューサーが映画化を決めたのかということだ。普通ならば、この思いつき程度のアイデアを補強するために脚本家は知恵を絞るだろう。どうやったらリアルなものにできるか、観客に信じてもらえるかを考えるはずだ。M・ナイト・シャマランの場合、それはさっさと放棄して、好意的に言えば、状況を語ることに力を注ぐ。だから魅力的な状況は描けてもネタを知らされたら、何それ、ということになる。

どうもシャマラン、基本のアイデアではなく、シチュエーションを先に考えるタイプなのではないかと思う。この状況の説明のために何とか考えたのがこのリアリティー皆無のネタなのだろう。ま、「シックス・センス」の場合はネタが最初にあったのでしょうけどね。

ニューヨークのセントラル・パークで人々が突然足を止め、ベンチに座っていた女性2人のうち1人が髪留めを外して自分の喉に突き立てる、という始まりはショッキングだ。それに続く、工事現場で人がバラバラと飛び降り自殺をするという場面も面白い。アメリカの東海岸一帯で人々が突然おかしくなり、自殺を始める。何らかの毒物が蔓延し始めたらしいというのが予告編で描かれたこと。ここから映画は一組の夫婦に話を絞り、街なかでの大状況から家族単位の小状況に話を移行させ、サスペンスを煽る。この手法は内容のバカバカしさと併せて「サイン」を思い起こさずにはいられない。

終盤に登場するある人物がすべてのカギを握っていたという展開ならまだ良かったのかもしれないと思う。命からがら逃げた場所が状況の原因を作っている人物の場所だった、というシチュエーションはホラーなり、SFなりによくある設定である。これの方がまだ話に説得力があっただろう。シャマランもそれを思いついたのかもしれないが、それに説得力を持たせることができなくて放棄したのかもしれない、と想像してしまう。

状況の面白さとアイデアの陳腐さが対照的なトンデモ映画の1本だと思う。シャマランにとってはこういう作品、「サイン」に続いて2本目だ。シャマラン、限りなく才能が枯渇していっているのではないか。

パンフレットの監督インタビューで、映画で起こる現象について理由が明かされないのは意図的かと聞かれたシャマランはあきれたことを言っている。

「この描き方は先鋭的だと思う。僕は、スタジオのために大作を作る、インデペンデントな映画作家だと自認している。これまでにないタイプの物語に挑戦できる立場にあるんだ」

もう、バカかと思わざるを得ない。これが先鋭的だったら、世の中のクズ映画のほとんどは先鋭的だ。しかも理由がないのはヒッチコックの「鳥」と同じだなんて、たわけたことを言っている。この映画の問題はこれが起こりうる可能性を論理的に説明していないことなのだ。鳥が意図的に人間を攻撃することは現実にありうるが、この映画で起こることとの間には大きな開きがある。それが認識できていないとは、シャマランの頭の中は腐っているようだ。

Ponyo 重箱の隅をつつくようなことから言わせてもらえば、宗介が助けた魚のポニョを、水道水を入れたバケツの中に入れるシーンで、それはないだろうと思った。あれではポニョは死んでしまう。すぐそばに海があるのだから、海水をバケツに入れればすむことなのに、どうしてこんな描写にしたのだろう。ポニョは魔法が使えるのだけれど、魚である以上はこうしたディテールがとても気になる。小さな子供はこれをまねするだろう。

冒頭の、たくさんの小さな魚やクラゲが乱舞するシーンを見て、これは手がかかってるなと思った。宮崎駿、今回のテーマはアニメーティングそのものにあったようだ。CGを使わずに手書きで通したのはかつての漫画映画の復権、アニメーティングの原点に返ることを意図したからだろう。その点に関しては不満は少しもない。

残念なのは話が小さな子供向けで、奥行きがないこと。というか、設定自体に奥行きはあるのだけれど、それを詳しく描いてはいない。フジモトやポニョのママの正体に関する言及が少ないので、どうも物足りなさを感じてしまう。「太陽の王子ホルスの大冒険」の昔から、宮崎駿の映画は常にエコロジーの視点が根底にある。海を舞台にした今回はいくらでも環境問題を入れられるはずなのだが、それをあまりやっていないのはやはり子供向けを意識したからか。一緒に見た次女は「面白かった」と言っていたから、子供には十分面白いのだろう。

子供向けの映画を大人が見て不満を述べるのは大人げない気もするけれど、「ルパン三世 カリオストロの城」や「風の谷のナウシカ」「千と千尋の神隠し」などは年齢を超えて観客にアピールする傑作だった。それは面白さを突き詰めた展開やキャラクターの深い描き方やエコロジーへの明確な主張や深い寓意があったからだが、今回はそのレベルに至ってはいないのだ。

母親のキャラクターはいかにも宮崎駿らしい。「未来少年コナン」のモンスリーを思わせた。未来少年コナンのデータを見てみたら、これ2008年の設定だった。コナンの放映は1978年。それから30年後の未来を舞台にしていたわけだ。宮崎駿の映画には30年以上付き合ってきたのだなあ、とちょっと感慨深いものがある。

劇場公開時に一部での評判の良さを気にしながら、見逃した。阿鹿里(あしかり)村といういかにもな名前の山奥の温泉地に来た女性2人(松下奈緒と鈴木亜美)が、足を切ろうとする村人たちからいかに逃げるかというストーリー。超常現象は出てこない。狂気の集団という点で「悪魔のいけにえ」あたりを思い起こさせるが、ホラーではなく、アクション、コメディの趣が強い。

上甲宣之の原作を深作健太監督が映画化。深作健太は「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」でまるでダメだなと思ったが、今回はB級に徹したところが良かったのだろう。携帯の通話やメールを繰り返しているうちに誰が敵で誰が味方か分からなくなる展開がポイントで、主人公は疑心暗鬼にとらわれながら逃げ惑う。終盤の反撃が気持ち良い(村人たちが弱すぎる気もする)。携帯でずっと助けてくれた男の正体も笑った。

鈴木亜美も好演してるけど、松下奈緒の方がいいですね。このほか、小沢真珠(怪演)と中川翔子を出しているのは監督の趣味なのか。

Climbershigh 横山秀夫のベストセラーを原田眞人監督が映画化。日航ジャンボ機墜落事件を報道する地方新聞社の激動の1週間を圧倒的な迫力で描ききった。これは原田眞人最良の作品だと思う。いつものように細かいカット割りとさまざまな細かい技術を組み合わせながら、それだけが目に付いた「魍魎の匣」とは違って、まったく気にならない。というか、物語を語るために技術が総動員されているので、技術だけが浮き上がって見えないのだ。コマ伸ばしの効果的な使い方は久しぶりに見た(だいたい、コマ伸ばしなんて若い監督は知らないだろう)。冒頭、原作の解体の仕方がうまいなと思わせるが、その後は原作とじっくり向き合って作ってある。

原田監督作品としては銀行を舞台にした傑作「金融腐蝕列島 [呪縛]」(1999年)に連なる映画であり、「呪縛」がそうであったように新聞社内の闘争がめっぽう面白い。主人公はさまざまな障害に遭い、人間関係の軋轢に悩まされながらも紙面製作に邁進する。どこの会社や組織でもありうることと思えるのは原作を読んだ時にも感じたことだが、映画もそういう作りになっている。原作の面白さを生かしながら、原田眞人は自分の映画に仕上げており、監督の言う“言葉のボクシング”が炸裂した熱い映画になっている。今年のベストテン上位は決定的という印象だ。

主人公の悠木和雅(堤真一)は群馬県の北関東新聞の記者。1985年8月12日、販売局の安西(高嶋政宏)と谷川岳の衝立岩に向かおうとした時にジャンボジェット機不明の第一報が入る。乗客524人、墜落したとすれば、未曾有の事故だ。悠木は事故報道の全権デスクを命じられる。社内には無線機がなかった。翌日、現場に向かった県警キャップの佐山(堺雅人)は必死の思いで取材し、山を下りて電話で送稿する。しかし、輪転機の故障で締め切りが早まったことを悠木は知らされていなかった。社内にはかつて大久保清事件と連合赤軍事件で名前を売った上司たちがおり、事故の大きさをやっかみ、悠木たちの報道に妨害を仕掛けてくる。さらに安西がくも膜下出血で倒れ、その裏に会社の過酷な業務命令があったことが分かる。

脚本は成島出と加藤正人の初稿を原田監督が手直したという。ビリー・ワイルダー「地獄の英雄」(Ace in the Hole、1951年)のセリフ「チェック、ダブルチェック」を効果的に引用し、クライマックス、主人公が事故原因のスクープを掲載するかどうかを判断する場面の効果を上げている。このエピソード、まるで原作にもあったかのようにピッタリと収まっており、ハリウッド映画に詳しい原田眞人らしいアレンジだと思う。

登場人物は主演の堤真一をはじめ、堺雅人、遠藤憲一、蛍雪次朗、でんでん、田口トモロヲ、マギー、中村育二ら端役に至るまで素晴らしい。気になったのは販売局長(皆川猿時)のヤクザみたいな描き方と山崎努演じる社長のいかにもといった感じの悪役ぶり。1985年の日航機墜落事件と2007年の谷川岳登山を交互に語る映画の構成も後半に至って、単調に思えてくるのだけれど、小さな傷と言うべきだろう。緊張感を伴って突っ走る2時間25分。怒り、悲しみ、屈辱、後悔などさまざまな人間感情が噴出する様子は見応え十分だ。

「山桜」

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「山桜」パンフレット 藤沢周平の原作を篠原哲雄監督が映画化。予告編は随分前から流れていて、田中麗奈も篠原哲雄も好きなので少し期待していた。見終わった感想としてはほぼ水準作の映画で、それ以上でも以下でもない。藤沢周平原作の映画であるならば、どうしても山田洋次の3部作と比べられるのは仕方がない。そして比べてしまうと、元も子もなくなる映画である。

富司純子が出てくる最後の場面で泣かせるし、ゆったりとした映画の展開も真っ当なのだけれど、話が古く感じる。いや、例えばここで描かれる悪徳武士であるとか、苦しめられる農民であるとか、正義感に燃える武士たちは何も悪くない。問題は描写の密度なのだろう。山田洋次作品で徹底的にリアリティーを与えられていた武士の家の古びた様子はここにはなく、なんだか小ぎれいなたたずまいだ。

話も小ぎれいにまとまっていて、だからリアリティーを欠いてしまっている。こうしたありきたりの描写が話を古く感じさせる要因なのだろう。うまい描写で見せられれば、話の古さなどは感じないものなのである。だいたい、山田作品と同じく庄内のたぶん海坂藩なのにどうして方言(「がんす」)が出てこないのか。標準語でしゃべる登場人物たちが一番リアリティーを欠いている。

主演の東山紀之と田中麗奈も悪くない。悪くないのだけれど、どちらもミスキャストではないかと思えてくる。田中麗奈は基本的にちゃきちゃきした現代っ子なのだ。それが寡黙さを演じるには少し無理がある。というか、魅力を消している。どうも小さな齟齬が積み重なって映画の出来を悪くしている感じがする。神はやっぱり細部に宿るのである。

「Mayu ココロの星」パンフレット @宮崎映画祭。期待値ゼロ、平山あやを見られればいいかという気分で見に行ったら、大変面白かった。乳がん患者の闘病記ではなく、乳がん患者を主人公にした悩む若者たちの「セント・エルモス・ファイヤー」みたいな青春映画に仕上がっている。主人公の友人たちと家族、乳がん患者たちの描写がいいのである。松浦雅子監督の脚 本は細部のセリフや描写にいちいち説得力があり、嘘っぽくない。平山あやは予想以上の好演で、もっと映画に出るべきだと思った。見てみないと分からないものですね。

「私をいくら攻めても無駄だから、私の一番大切なものを標的にしたんだわ」。
 娘のまゆが乳がんと分かった時に主人公の母親(浅田美代子)が言う。母親は12年前に卵巣がんが見つかり、余命わずかと言われながらも、がんと闘ってきた。病人に見られないように精いっぱいの努力をしてきたのだ。そんな母親も娘ががんと知らされれば、絶望的になる。原作にもあるのだろうが、こういう子供を思う親の気持ちがぐっと来る。

あるいは恋人と別れるシーン。「もう会わない方がいいよ、私たち」という主人公は実は恋人からそれを否定してほしいのだが、恋人は「まゆが何カ月もかかって出した結論なんだろう」と言ってそれを受け入れる(最低の男だ)。主人公は恋人が去っていく後ろ姿を見て涙を流す。

同じ乳がん患者を演じる京野ことみを見るのは個人的には「メッセンジャー」(1999年)以来。「メッセンジャー」でも感心したが、今回は別人かと思えるほどうまくなっている。

上映後のトークでの松浦監督の話も面白かった。松浦監督はこの映画を引き受けたとき、妊娠後期だったが、それを伏せて引き受け、生まれたばかりの子供と40日間、離れて北海道で映画を撮影した。結婚していることも子供がいることも伏せてきたという(監督の代わりはいくらでもいるからだ)。いったん書き上げた脚本はプロデューサーから絶賛されたが、原作者の大原まゆから「私、こんなにいい子じゃないかも」と指摘され、主人公が泣いたりわめいたりするシーンを追加したそうだ。これが正解。これによって主人公の造型が深くなり、幅が生まれた。主人公はリストカットする友人から頼りにされているが、主人公自身の弱さも描いたところが良い。

「だいじょうぶ、きっと私はがんばれる」という主題がストレートに伝わる佳作だと思う。

「世の中ウソばかりじゃない。ほとんどウソだけど」。

宮崎映画祭で見た。ウディ・アレンのセリフの9割近くはジョークだった。まあ、死んだ記者が死に神の船の中で特ダネを知り、それを伝えるために現世へ逃げ出し、記者志望の女子大生(スカーレット・ヨハンソン)に伝えるという設定からしてジョークに近い。というか、アレンはその小説を読んでも分かるようにこうしたSFチックな奇想の系譜に属する作品がある。短編小説では名手と言って良い腕前ですからね。映画では「カメレオンマン」とか「ニューヨーク・ストーリー」の中の1本とか「ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう」とかが思い浮かぶ。

もっともこの映画、出だしは奇想だが、その後の展開は殺人事件の容疑者に接近した女性が恋に落ちてしまうというよくあるもの。それを救っているのはアレンのジョークとヨハンソンのコケティッシュな魅力か。偽の親子に扮して容疑者の貴族(ヒュー・ジャックマン)に接近する2人のでこぼこコンビぶりが楽しい。「生まれた時はユダヤ教だったが、その後ナルシスト教に変わった」とかユダヤ関連のジョークも相変わらず多い。というわけで僕はまあまあ面白く見た。

「つぐない」

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イアン・マキューアンの原作読んでから見るべきだったと激しく後悔した。第3部で明かされる仕掛けが明らかに小説向きのものだからだ。映画はそれを移し替える際にうまくいっていない。映像化が難しいアイデアで、小説以外では成立しにくいためだろう。ほかの映画なら失敗作と言い切るところだが、この映画の場合、第2部が素晴らしすぎて失敗作と言いたくない。成功はしてないけど、失敗もしてないという微妙なところにある。

ただし、ジョー・ライトの技術を見るためだけでも映画館に足を運ぶ価値のある作品だと思う。絶妙の長回しに驚嘆した「プライドと偏見」の技術の高さはフロックではなかったのだと確認できた。

第2部に限って書くと、刑務所から出るために戦場に行くことを選んだ男と待ち続ける女の描写が胸を打つ。出征前のレストランのシーンは極限までエモーションを高めた名シーン。「Come back to me, Come back」というセリフの切実さと切なさが凝縮している。

戦場から帰ろうとする男を待つ女というシチュエーションはアンソニー・ミンゲラ「コールドマウンテン」を彷彿させるが、思えばあの映画にもまた「Come back to me」というセリフはあったのだった。ジョー・ライトの資質は明らかにこうしたラブストーリー的描写にある。

このシーンにノックアウトされたと思ったら、この後にまたもや驚異の長回しが待っていた。多くの兵士がいる海岸で展開される長回しはまるでジョー・ライトが「これが自分の映画の刻印なのさ」と言っているようだ。カメラが登場人物の跡を追いかけて撮るような単なる長回しではなく、カメラをフィックスにしてまるで演劇のように撮る長回しでもない。主人公がいったん画面から消えて、移動しながら他の兵士たちを映し、再び主人公が画面の中に入ってきて普通に演技を続けるという大変なもの。多数の登場人物が入り乱れる長いワンカットを撮るのは大変だが、それをやりたがるジョー・ライトはこうした技術そのものが好きなのだと思う。

ダリオ・マリアネッリの音楽も素晴らしい。ジョー・ライトには普通のラブストーリーを撮ってほしいものだとつくづく思う。絶対に傑作になる予感がある。

クライマックスは牛の解体。それまでに鶏や豚の解体を見ているので、なんてことはないと思っていたが、やはり屠殺の仕方から牛の場合は違う。「ノーカントリー」でハビエル・バルデムが使っていたような屠殺銃を額に押し当てられて牛は一瞬で殺される(と思ったが、あの段階ではまだ死んでいず、失神しているだけらしい)。その直前にガタガタ体を震わせるのは自分の運命を知っているからだろう。その後の流れ作業は鶏や豚の場合とあまり変わらない。皮を剥ぎ、内臓を取り出し、切断していく過程がてきぱきと行われていく。

豚の場合は電気棒のようなもので、屠殺機の中へ追い立てられ、出て来た時には死んでいる。牛でこういう屠殺の仕方ができないのは体が大きいからなのだろうか。屠殺の過程さえ、自動化してしまえば、牛の解体に感じた残酷さは感じなくなるのかもしれない。実際、死んでワイヤーに吊されたシーンから豚も鶏もおいしそうに見えてくる。

食肉過程に残酷さを感じないのはすべてが流れ作業で機械化されているからだろう。豚は腹を切り裂く過程さえ、機械で行われている。豚で残酷さを少し感じたのは大きなハサミで足をパチンパチンと切断していくシーンのみ。作業の多くの場面で女性が参加しているのも面白いが、牛の解体に女性がいなかったのはやはり豚や鶏に比べて残酷さを感じる過程が残っているからだろう。

原題は「Unser taglich Brot」(Our DailyBread=私たちの日々の糧)。食肉の製造過程だけでなく、野菜や果物、魚などがどう生産され、加工されていくかをランダムに見せる。音楽もセリフもなく、生産過程をそのまま見せることがニコラウス・ゲイハルター監督の意図だったという。豚から野菜に行き、豚に戻り、魚に行くといったランダムな見せ方が 映画のポイントで、余計な説明がないのは潔いが、最小限の字幕ぐらいはあっても良かったのではないかとも思う。ひよこに予防注射をしている場面とか子豚の去勢のシーンなどは説明されないと分かりにくいのではないか。

ゲイハルターは

「僕が特に興味を持つのは、『なんでもかんでも機械で出来る』という感覚や、そういった機械を発明しようという精神、それを後押しする組織です。それは、とても怖い感覚で、無神経でもあると思います」

と語っている。機械化・自動化によって命を感じさせないことへの批判と受け取れるが、実際に毎日働いている人に命を断つことの重みを感じさせていたら、作業は成り立たないだろう。部分的に作業をやっているからできるのであって、あの過程に参加する数の人間がそれぞれ屠殺から解体まですべて一人でやることは不可能に近い。

牛の解体をクライマックスに持ってきたのは命を最も感じさせる処理であるからにほかならない。これに比べれば、野菜の生産現場の描写などは付け足しとも思え、牛の人工授精から解体までを詳細に描くだけでも映画として成立するだろう。監督の意図を実現するには牛の解体だけで事足りるのである。ただし、そうなったら重すぎる映画になるのかもしれない。野菜や果物のシーンにも農薬の問題などは含まれているけれども息抜き的な効果の配慮もあるのだろう。

映画を見た後に原作を読んだ。映画も原作も詰めが甘いと思う。映画は丁寧に描いてあり、映画化の仕方としては悪くないけれど、この原作では限界があったのだろう。見終わった後の物足りなさは原作を読んでも解消されなかった。物足りなく思ったのは以下の3点。

(1)不登校の原因があいまい

(2)引きこもりのような隠遁生活を送っている祖母との生活で回復するのか疑問

(3)祖母の生活は本当のスローライフではない。スローフードでもない。

原作が出た当時はスローライフという言葉はなかっただろう。だからこれを田舎の生活と言い換えてもいい。スローフードは自然に近い食べ物と考えればいい。祖母の生活はこのいずれでもないと思う。映画はスローライフを強調しているわけではないが、主人公が元気を取り戻す生活の在り方をしっかり描くべきだったろう。都会交じりの生活ではなく、本当の田舎の生活の描写が必要だ。

不登校の原因については一般論として主人公が語るのだけれど、一般論だけに切実さがない。映画は孤立して給食を食べている主人公を映すが、それだけでは説得力がないし、そこに至る原因の方に僕は興味がある。

サチ・パーカーがいいのですっと見られる映画だけれど、考えていくと、描写が足りない部分がたくさんある。原作にはない夜中にクッキーを食べるシーンは長崎俊一監督の奥さんが付け加えたものだそうだが、魔女修行の第一歩は早寝早起きなのにこれはないと思う。都会の考え方なのではないか。

サチ・パーカーに関してはなんだかよろよろしながら登場するシーンで違和感を持ち、セリフ回しも変だと思った。サチ・パーカーのキャスティングがなければ、成立しない映画だが、決して100点満点の演技ではない。

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