2009年2月アーカイブ

「チェンジリング」パンフレット  クリント・イーストウッド自身による切ないメロディにまず心を奪われる。1928年のロサンゼルス。行方不明となった9歳の息子ウォルターを捜し求めるシングルマザー、クリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)の話かと思ったら、映画は腐敗したロス市警と猟奇的な犯罪を同時に描いていく。この3つのテーマがどれも高いレベルで融合している。イーストウッドの演出は的確で、どれも大変面白い。母親に共感し、警察の在り方に怒り、犯罪者に戦慄するという、感情的に大きく揺り動かされる映画である。締めくくりのセリフに「ホープ(希望)」を持ってきたのはエンタテインメントらしい在り方だと思う。

僕は見ていて君塚良一「誰も守ってくれない」との共通点を感じずにはいられなかった。ヒロインが自分を苦しめた精神病院の悪行を暴き、入院中に親しくなった女性患者と無言で視線を交わす場面などはいかにも娯楽映画的心地よさに満ちている。正しいことを貫き通すヒロインの在り方、希望を失わない在り方は単なるサイコな映画に落ちることなく、観客に共感を与えるだろう。「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」や「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」といった一生懸命作っていても十分には満足できない映画の後でこういう映画を見るとホッとする。イーストウッドの技術は言うまでもなくサム・メンデスやデヴィッド・フィンチャーよりも上なのであり、メンデスやフィンチャーの映画が良くできたアマチュア作品程度に思えてくる。

チェンジリングは取り替え子。同じ題名のホラー映画があったが、この映画に超自然的な要素はない。クリスティンの方不明となった息子は5カ月後、警察によって発見される。駅で一見して息子とは違うことが分かったが、メンツを重んじる警察はクリスティンの言うことに耳を貸さない。身長が7センチ低く、しているはずのない割礼をしていることを訴えても聞き届けられず、逆にクリスティンは精神病院に入れられてしまう。

なぜ、この子どもはウォルターと名乗っているのかも謎で、それを映画は終盤に明らかにするのだけれど、ここでは大きな問題ではない。悲嘆と絶望の涙にくれながらも押さえつける力に負けず、信念を曲げないヒロインが映画の中心から動かないのだ。アンジェリーナ・ジョリーはこの映画について、「これは、正義、民主主義、行動についての物語」と端的に語っている。その通りだと思う。

暗く重かった「ミスティック・リバー」を僕は好きではないけれど、同じく重たいテーマを含み、同じように色あせた色彩で描かれながらも、この映画にとても魅力を感じるのはこのヒロインがいるからだ。80年前の実際の事件を元にした映画でありながら、現在に通用するのも素晴らしい。権力の腐敗、戦慄の犯罪は今でもあるし、母親の子どもへの愛情も普遍的なものだ。視点が総合的なのである。だから単なる社会派映画にもサイコ映画にもならなかった。別にこの映画はイーストウッドのベストではないけれど、格の違いを見せられた思いがする。

イーストウッド作品は4月に「グラン・トリノ」が公開される。こちらはまったく傾向の異なる映画らしいが、楽しみに待ちたい。

「ハイスクール・ミュージカル ザ・ムービー」パンフレット  僕は「マンマ・ミーア」に行きたかったのだが、先週から次女がこれに行きたいと言っていたので連れて行く。長男も誘ってみたが、「行ってらっしゃい」。劇場には小中学生の女の子たちがたくさんいた。みんなディズニー・チャンネルの放送を見ているらしい。人気があるのだ。テレビ版は夕方に放送していたので、子どもと一緒に眺めていたが、真剣に見たことはない。

題名通り、ティーンズ向けのミュージカル。冒頭、イースト高校のバスケットボールの試合中にキャプテンで主人公のトロイ・ボルトン(ザック・エフロン)がいきなり「シックスティーン、シックスティーン(残り16分、16分)…」と歌い出すのがいかにもミュージカル風。歌とダンスがメインの映画でストーリーは凝っていない。作り自体、テレビのような作りだ。その後もストーリーの途中で突然歌い出し、背景がステージになるというクラシックなミュージカルの作りを踏襲している。

歌と踊りはまずまず楽しいけれど、どちらも凡庸な出来。特別に印象的なナンバーがないのも残念だ。テレビ版の主題歌である(次女に聞いたら、違うとのこと)「ハイスクール・ミュージカル」が一番良いというのは寂しい。これでドラマもありきたりということになると、テレビシリーズを見ているファン向けの作品なのだろう。ミュージカルは好きなので腹は立たなかったが、テレビシリーズを見ていない人は無理に見る必要はない。

主人公のザック・エフロンは将来のスター候補なんだろうか。ヒロインのガブリエラ・モンテスを演じるヴァネッサ・ハジェンズと一緒に歌い、踊るシーンは確かに他の出演者よりも一歩抜きんでている。個人的には「キューティ・ブロンド」のリース・ウィザースプーンのように高ビーなお嬢様シャーペイ・エヴァンスを演じるアシュレイ・ティスデイルに今後注目したい。

アメリカでは昨年10月に公開され、2週連続、ボックスオフィスのトップとなった。しかしIMDBの評価を見ると、3.4と驚くほど低い。そこまでひどくはないと思う。ファンを怒らせる内容だったのか、あるいはテレビの方はもっと面白いのか。次女の感想は「テレビより面白かった。豪華だった」とのこと。それはそうだろう。

高校生が主人公のミュージカルということで、「フットルース」を思い出した。「フットルース」もドラマは弱かったが、歌と踊りにはインパクトがあったし、ヒット曲もいくつか生まれた。この映画のようにすべて中ぐらいというものではなかった。監督のケニー・オルテガはその「フットルース」をリメイクする。大丈夫だろうか。

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」パンフレット 日曜日に見たのだけれど、久しぶりのプログラミングにはまって書く暇がなかった。はまると映画の感想どころか本も読めませんね。ようやくヤマは越えたが、このプログラム、汎用性に欠けることが分かった。まあ、自分の環境だけで動けばいいや。

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」は監督、主演男優、助演女優などアカデミー賞13部門にノミネートされている。それに見合う傑作かと言えば、疑問を覚える(もっとも作品賞にはノミネートされていないノミネートされていた)。スコット・フィッツジェラルドの短編を基に「フォレスト・ガンプ 一期一会」「インサイダー」「ミュンヘン」のエリック・ロスが原案と脚本を書いた。原作と同じなのは老人で生まれて若返っていく設定だけと言って良い。「人生は何が起こるか分からない」といった寓意が至る所に込められているのだが、どうもデヴィッド・フィンチャーの演出にはロマンティシズムやセンチメンタリズムなど情緒的なものとファンタジーらしい神秘的な雰囲気が不足している。2時間46分という長い上映時間もマイナスで、こういう映画は2時間以内にまとめてほしいものだ。無用に長いと、演出も凡庸に思えてくる。

若返っていくベンジャミン(ブラッド・ピット)と年老いていくデイジー(ケイト・ブランシェット)の話である。老人と少女として出会った2人は同じ年格好となった数年間を一緒に過ごし、やがて少年と老女の時を過ごすことになる。二人が共有する幸福な時間はとても短い。全体をコンパクトにまとめてそこをもっと強調すべきだったのではないか。2人が結ばれるまでと、別れた後が長いのだ。

映画は病院のベッドに横たわるデイジーの場面で幕を開ける。デイジーはベンジャミンが残した日記を娘に読んでもらい、その生涯を回想していく。冒頭に描かれるのは戦争で息子を亡くした時計職人が逆回りの大きな時計を駅のホームに取り付けるシーン(これこはイラク戦争を反映しているのだと思う)。時間をさかのぼることができれば、息子を取り戻せるのにという願いが込められているのだが、これとベンジャミンとの関係はあいまいだ。神秘性がほしいのはこういうところ。

原作でベンジャミンは身長170センチの老人として生まれるが、いくらなんでもそれではリアリティーを欠くので、映画では今にもお迎えが来そうな老人のようにしわくちゃの赤ちゃんになっている。母親は出産の際に死に、そのショックもあって父親トーマス・バトン(ジェイソン・フレミング)はベンジャミンを捨てる。ベンジャミンは子宝に恵まれなかった黒人のクイニー(タラジ・P・ヘンソン=助演女優賞ノミネート)に拾われ、クイニーが働く老人ホームで育つことになる。

ブラッド・ピットのメイクには驚かざるを得ない。小さな体にピットの顔が乗った、恐らくパフォーマンス・キャプチャとCGを組み合わせたシーンには驚かないのだけれど、若くなるところで、ホントに十代に見えるのが凄い。この特殊効果は大変よく出来ていて、メイクアップ賞か視覚効果賞は確実だろう。ピットは若くなってオートバイに乗るシーンなど生き生きとしている。ケイト・ブランシェットも若いころの姿には特殊効果が使ってあるのだろう。2人ともまず好演している。

雷に7回打たれた男とか、クスリと笑えるエピソードもあるが、この種のあり得ないファンタジーにはもっともっと飄々としたものが欲しくなる。フィンチャーにはそうした洒落た部分はないように思う。題材がフィンチャーの資質に合っていないのだ。IMDBの採点は8.3で、トップ250フィルムの111位。そんなに評価の高い映画とは思えないが、アメリカ人にしか分からない部分もあるのかもしれない。

「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」パンフレット 昨夜、女性だけの飲み会だった家内が「久保田 千寿」の残りをもらって帰った。今夜、飲んでみたら、一口飲んで、とんでもなくまずいと思った。千寿なんて元々、大した酒ではないが、いくらなんでもこんなにまずくはない。気が抜けているというか、キレもコクも風味もないのだ。賞味期限を見たら、昨年12月5日。なるほど。それだけではなく、恐らくかなり前に栓を開けていたのではないかと思う。何も知らない女性陣はこういうのを「久保田」の名前だけでありがたがって飲んだのだろうか。

監督の名前だけでありがたがってはいけないのは「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」(このサブタイトルは余計)も同じ。テーマは一見深刻、出演者は熱演、演出は端正かつ正確なのに出来は水準以上のものではない。決定的に脚本がまずいとしか思えない。サム・メンデス監督作品は「アメリカン・ビューティー」「ロード・トゥ・パーディション」までは感心するところが多かったが、「ジャーヘッド」で普通の作品になり、今回もそう感じた。

いきなりパリへの移住を持ち出すケイト・ウィンスレットに説得力がない。郊外の住宅地に住む主婦の日常の苛立ちの描写が不十分なのだ。若い頃、特別な夫婦と見られ、自分たちも他人とは違うと思っていた夫婦が平凡な存在になることの苛立ちをもっと詳細に描かなければ、パリ行きの提案が唐突に感じられる。平凡でありたくないという願望、日常とは違うところへの脱出の渇望が、女優の道を断たれた挫折感とは違うところで必要なのである。映画の描写では単に甘えた考えの夫婦にしか見えない。

レオナルド・ディカプリオとウィンスレットが「タイタニック」以来11年ぶりの共演というのは話題作り以外のなにものでもなかっただろう。ウィンスレットは映画を背負って立つ熱演で、ディカプリオとの激しい口論の場面は見応えがある。舞台出身のメンデスの演出はこういうところで溌剌としている。ただし、この夫役はディカプリオでなくても良かっただろう。

時代は1950年代。これは原作の設定がそうなっているからだが、現代と50年代の共通点も見えてこない。いや、いつの時代でも夫婦は、近所付き合いは同じという風に極めて矮小化してしまえば、時代なんていつでも良いことになる。逆に言えば、トッド・ヘインズ「エデンより彼方に」のように偏見が多かった50年代でなければ描けなかった話にはなっていず、それならば50年代に設定する意味は薄いように思う。原作がそうだからという消極的な理由しか見あたらないのである。

アカデミー賞で助演男優賞(マイケル・シャノン)、美術賞、衣装デザイン賞の3部門だけのノミネートに終わったのは当然と思える。表面の深刻さとは裏腹にドラマに奥行きがない。サム・メンデス、賞味期限の切れた監督にならないように次回作では捲土重来を期待したい。

原作はリチャード・イェーツ「家族の終わりに」。書店に寄ったら、あったので買いそうになったが、思い直して、湊かなえ「少女」の方を買った。

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