スラムドッグ$ミリオネア
2000万ルピー(約4000万円)の賞金などジャマールにとってはどうでも良かったに違いない。愛するラティカが無事であり、悪党から逃れられたことが確認できたのだから。愚直なまでに一途なラブストーリーであり、その強いハッピーエンドへの希求がすべてのご都合主義を粉砕する映画である。ジャマールが欲しかったのは賞金ではない。ラティカの愛だけだった。スラム出身の無学な青年なのにクイズの正解を続けられたのは偶然でも運でもなく、運命だったという開き直りの結論が心地よい。
かつてハリウッド映画はこういうタイプの映画を数多く作っていた。僕らはその嘘に心地よく騙されていたのだけれど、そのハリウッド映画のタッチをよりリアルで過酷で悲惨な設定の下で作ったのがこの映画だ。虚構をもっともらしく見せるにはリアルな設定が必要なのだ。ダニー・ボイルはハリウッドの監督ではないし、舞台となったムンバイもハリウッドのような夢の都とは正反対の所だけれど、アメリカンドリームならぬインディアンドリームを描くこの映画はハリウッド映画の精神を確実に継承した映画にほかならず、だからこそアカデミー8部門受賞につながったのだと思う。楽しくて仕方がないエンドクレジットまで充実しまくりの傑作。
ヴィカス・スワラップの原作「ぼくと1ルピーの神様」は買っているが、未読。主人公のジャマール(デーヴ・パテル)は携帯電話会社のお茶くみで、テレビ番組のクイズ$ミリオネアに出演する。1000万ルピーを獲得し、あと1問というところで司会者が警察に通報したために、逮捕される。スラム出身のお茶くみが正解を出し続けられるはずはなく、不正を働いたと疑われたのだ。ジャマールは警察で拷問を受け、なぜ正解できたかを話し始める。どの問題もジャマールがこれまで送ってきた生活にかかわっていた。ジャマールの回想で描かれるムンバイのスラムの描写はひたすら悲惨だ。ジャマールは兄サリームと母親と暮らしていたが、母親はヒンズー教徒の暴動で殺される。幼い兄弟は逃亡の途中、少女ラティカと出会う。ゴミ捨て場で3人で暮らしていた時、ママンという男の一味が声をかけてくる。ママンは子供を集め、物乞いをさせることで金を儲けていた。しかし、そのやり方には恐ろしい秘密が隠されていた。
前半の拷問場面やママンの一味が子供に行う悪行には直接的な描写はなくても目を背けたくなる(アメリカではR指定だった)。3人はそれぞれの道を歩まざるを得なくなり、離ればなれになるが、ジャマールはいつもラティカのことを気にかけていた。ジャマールは兄に再会し、ラティカの行方を突き止めるが、ラティカはどこにも逃げられない環境にある。ジャマールの「愛している」という言葉に「それで?」という答えしか返せないあきらめの状況。他の男のものであっても、顔を傷つけられていてもラティカを求め、救おうとするジャマールの一途さが力強い。悲惨な運命から立ち上がってくる奇跡を描いて、この映画、まったく隙がない。スラムの人たちがテレビを見てジャマールに声援を送る場面は「ロッキー」を彷彿させた。夢と希望をあきらめない姿勢を真正直に描いて冷笑とも気恥ずかしさとも嘘くささとも無縁の映画になっているのが最大の美点だと思う。