ダンサー・イン・ザ・ダーク
「目が見えないのか」と問われて、主人公が歌い出す“I've Seen It All”のシーンが素晴らしい。「私はすべて見た。もうこれ以上見るものはなにもない」。ビョークの歌に合わせて列車の上の労働者が、付近の家の夫婦が歌い、踊る。過酷な運命を生きる主人公の思いを振り絞るように表現したとてもミュージカルらしいシーンだ。この前にある工場での最初の歌と踊りのシーンも、それまでの暗い画面とストーリーを払拭する鮮やかさで、溌剌としている。しかし、素晴らしいのはこの2つの場面だけだった。
ラース・フォン・トリアーはミュージカルを根本的に誤解している。具体的には書かないが、この主人公はラスト近く、過酷な運命に暗く恐怖を覚ているのに空想のミュージカルシーンになると、笑顔を見せ、楽しそうに踊るのである。抑えきれない感情の高まりが歌になり、踊りになるのが本来のミュージカルなのに、現実の気持ちと乖離していては著しく興ざめである。この映画は救いようのない悲劇だからダメなのではなく(いや、そういう部分もあるが)、歌と踊りに必然性がないからダメなのである。ミュージカルの組み立て方がまるで分かっていない。ビョークの歌そのものは良いだけにトリアー演出の不備が余計に目立つ。
1960年代のアメリカが舞台。主人公のセルマ(ビョーク)はチェコからの移民である。息子ジーン(ブラディカ・コスティク)と2人で、警官ビル(デヴィッド・モース)のトレーラーを借りて住み、工場で働いている。一切無駄遣いをせず、つつましい暮らしだが、セルマにはそうせざるを得ない事情があった。生まれつきの病気で徐々に視力を失い、間もなく失明することが分かっているのだ。息子も手術を受けなければ、同じ運命をたどってしまう。セルマは息子に手術を受けさせるためアメリカに渡り、少ない賃金の中から蓄えを続けてきたのだった。しかし、父親の遺産を受け継いで裕福と思われていたビルは浪費家の妻のために銀行への借金が膨らみ、セルマの金を盗む。セルマはそれを取り返そうとしてビルを殺してしまう。
このストーリー自体、もともとミュージカル向きとは言えないだろう。セルマはミュージカルに憧れ、地元の劇団で舞台に立つための練習をしている。工場の騒音や生活の中のさまざまな音がリズムとなり、セルマを空想へと導く。セルマにとってこれは過酷な現実から逃れるための手段なのである。トリアーは現実の場面を暗くざらざらした映像で描き、セルマが空想するミュージカルの場面を色鮮やかなタッチで描く。本来、これは効果的なはずなのだが、前述したように2つの場面を除いては主人公の気持ちと食い違っているから、ミュージカルシーンが取って付けたような印象になるのである。これならばミュージカルにする意味はない。
トリアーがミュージカルをどう分かっていないかはパンフレットを読むとよく分かる。「私はミュージカルのようなものを真剣に受け止めさせるのは興味深いことだと思っていた」。もうこの言葉だけで、ミュージカルをシリアスドラマより下に見ているのは明白である。「ジーン・ケリーや『ウエスト・サイド物語』などの例外もあるけれど、多くのミュージカルはただ楽しませるためのエンタテインメント作品としてしか存在していない」。アホか。こんな分かっていない監督が演出したミュージカルが優れた作品になるわけがない。“ただ楽しませるためのエンタテインメント作品”がどれほど人の心を豊かにするか、この映画の主人公はなぜミュージカルに憧れるのか、トリアーは極めて表面的にしかとらえていないのだろう。だから映画の中でセルマに思いを寄せるジェフ(ピーター・ストーメア)の「なぜミュージカルは歌ったり、踊ったりするんだ」というセリフはそのままトリアーの正直な気持ちなのかもしれない。少なくともこの映画を見てミュージカルに憧れを抱く人はいないだろう。
【データ】2000年 デンマーク 2時間20分 配給:松竹 アスミック・エース
監督:ラース・フォン・トリアー 製作:ヴィベケ・ウィンデロフ 製作総指揮:ペーター・オールベック・ヤンセン エグゼクティブ・プロデューサー:マリアンネ・スロット ラース・ヨンソン 脚本:ラース・フォン・トリアー 撮影:ロビー・ミュラー 振付:ビンセント・パターソン 音楽:ビョーク 美術:カール・ユリウスン 衣装:マノン・ラスムッセン 音響:ペア・ストライト
出演:ビョーク カトリーヌ・ドヌーブ デヴィッド・モース ピーター・ストーメア ジョエル・グレイ ビンセント・パターソン カーラ・セイモア ジャン・マルク・バール ブラディカ・コスティク ジョブハン・ファロン ゼルイコ・イヴァネク ウド・キアー