15ミニッツ
「インサイダー」でアル・パチーノが製作する番組は「60ミニッツ」といったが、この映画のタイトルはそれとは関係なく、アンディー・ウォーホールの「だれでも15分間は有名人でいられる時代が来る」との言葉から取っている。当然のことながら、メディア批判を意図したわけだ。しかし、批判の矛先は鈍い上に、ドラマの構成にも破綻が目立つ。メディア批判なのか、刑事アクションなのか、描写がどちらも中途半端である。この程度で社会派云々といわれると、苦笑せざるを得ない。テレビ局の描写はカリカチュアに近いし、犯人像もリアリティーに欠ける。監督・脚本のジョン・ハーツフェルド、映画製作に対する姿勢が安易なのではないか。25年前の「ネットワーク」(シドニー・ルメット監督)に負けるようでは、こういう題材を撮る意味はない。
暴力報道を志向するニュース番組「トップ・ストーリー」のスタッフをスケッチした後、映画は東欧からニューヨークに来た2人の男エミル(カレル・ローデン)とウルグ(オレッグ・タクタロフ)が、アパートでかつての仲間とその妻を衝動的に殺す場面を描く。ウルグはビデオマニアでその殺人現場をビデオ撮影。2人は事故死に見せかけ、アパートに放火する。殺害の様子は殺された妻の友人ダフネ(ヴェラ・ファミーガ)が目撃していた。ニューヨーク市警の刑事エディ・フレミング(ロバート・デ・ニーロ)はその現場で消防局の放火捜査班員ジョーディ・ワーソー(エドワード・バーンズ)と出会う。ジョーディは死体の状況から事故死ではなく、殺人であると指摘。2人は行動を共にし、殺人を続けるウルグとエミルを追いつめていく。
このまま進めば、普通の刑事アクションになるはずだが、映画はここで無理矢理メディア批判に方向転換する。ウルグとエミルはアメリカのテレビがセンセーショナルな映像を高く買い上げることを知り、有名人を殺す現場を「トップ・ニュース」に高く売りつけようとする。その標的に選んだのが、ニューヨークで最も有名な刑事エディだった。逮捕されても精神異常を装い、精神病院に収容された後に正常を訴えて退院するという計画。正常であることが分かってもダブル・ジョパディー(一事不再理=二重処罰の禁止)の原則で再び罪には問われないという計算である。これが著しくリアリティーを欠くのだが、さらにメディア批判的展開でありながら、結局、ラストを刑事アクション的場面で終わらせてしまうのではどうしようもない。
ニューヨークが舞台なので、タイムズ・スクウェアやセントラル・パークなどニューヨークの風景がふんだんに出てくるのは良く、目抜き通りで繰り広げられるアクションはまずまず。ロバート・デ・ニーロはこういう映画でもちゃんと演技に手を抜かず、軽妙と重厚さを併せ持った演技を見せる。相手役のエドワード・バーンズもなかなか良く、この2人を中心にした純粋な刑事アクションを見たかった思いがする。「ダーティ・ハリー」に象徴されるように、こういう刑事コンビで、どちらかが危機に陥るのは定石的な展開だが、そこを少しひねり、意外性を持たせた点は評価できる。ただし、デ・ニーロが消えた後はノー・スターの映画になってしまい、画面から重みがなくなっている。本筋に絡まない無駄な描写も多く、ジョン・ハーツフェルドの演出にはどうも締まりがない。
【データ】2001年 アメリカ 2時間1分 配給:日本ヘラルド映画
監督:ジョン・ハーツフェルド 製作:ニック・ウェクスラー キース・アディス デヴィッド・ブロッカー ジョン・ハーツフェルド 製作総指揮:クレアー・ラドニク・ポルスティン 脚本:ジョン・ハーツフェルド 撮影:ジャン・イヴ・エスコフィエ プロダクション・デザイン:メイン・バーク 音楽:J・ピーター・ロビンソン 衣装デザイン:エイプリル・フェリー
出演:ロバート・デ・ニーロ エドワード・バーンズ ケルシー・グラマー エイヴリー・ブルックス メリーナ・カナカレデス カレル・ローデン オレッグ・タクタロフ ヴェラ・ファミーガ ジョン・ディレスタ シャーリーズ・セロン