バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
全編ワンカットの映画と聞いて感じるのは息苦しさだ。映画というのはカットを割ってリズムを作っていくのが普通だから、長回しには基本的に無理がある。カットを割らないためだけに不要に人物を追うカメラワークは不自然だし、絵的にも面白くない。ところが、「バードマン」には不自然なところがない。何も知らない人が見たら、冒頭とラストを除いてほぼ全編ワンカットの映画であることに気づかないかもしれない。
ワンカット映画の嚆矢であるヒッチコックの「ロープ」(1948年)は一つの部屋の中だけで進行する話だったから、全編がワンシーンワンカットの映画となっていた。つまり映画の上映時間と物語の時間の進行が一致していた。
「バードマン」はワンカットの中で回想はあるし、場所も頻繁に変わるし、場面の中心となる人物も変わる。時間の経過も数日間に及んでいる。フィルムの制約から10分ぐらいしか連続して撮れなかった「ロープ」の時代と違って、デジタルなら連続撮影時間に制限はなく、シーンのつなぎ目にも合成が使えるから、こうした撮影が可能になったのだろう。気になったのはシーンのつなぎ目。「ロープ」はフィルムを取り替える際に人物がカメラを覆ったりして黒みを入れて処理していた。「バードマン」も同様にシーンのつなぎ目に黒みを入れる場面があるが、つなぎ方はそれだけではなく、カメラのパンの途中で切り替えるなど工夫している。まあ、それにしても移動は多いし、撮影は大変だっただろう。
物語は過去に「バードマン」というヒーロー映画で人気を得たが、それ以後ヒット作のない初老の役者リーガン・トムソン(マイケル・キートン)がブロードウェーの舞台で復活をかける話。リーガンはレイモンド・カーヴァーの小説「愛について語るときに我々の語ること」を脚色・演出・主演で舞台化しようとするが、開幕までにさまざまなトラブルが起き、次第に精神的に追い詰められていく。終盤にスペクタクルなシーンを入れているし、笑いも随所にあって観客へのサービスは怠りないのだが、こういう話であれば、普通にカットを割って撮影しても良かったのではないかという気もする。
ビルの屋上からカメラが降りてきて窓を通って部屋の中に入ってくるというワンカットも、以前ならそのカメラワークだけで驚いたものだが、合成で何でもできるようになった今は驚けない。映画の撮影技法は物語を効果的に語るために使うべきで、ヒッチコックが「ロープ」を撮ったのは実験的な意味合いが大きかったと思う。「バードマン」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥはシリアスなドラマが多い監督だが、意外にヒッチコックのように映像の遊びが好きな人なのかもしれない。