ハドソン川の奇跡
黒澤明にしても晩年の2作、「夢」と「八月の狂詩曲」に関しては明確に力が落ちたと感じさせた。最盛期のダイナミックな演出の片鱗はあったが、全体として見れば緩さが目に付いた。86歳のクリント・イーストウッドが撮った「ハドソン川の奇跡」には無駄な部分も緩い部分もない。
ニューヨークのラガーディア空港を離陸したUSエアウェイズの旅客機1549便が直後にカナダガンの群れと衝突(バードストライク)して左右両方のエンジンが停止する。機長の的確な判断でハドソン川に不時着水し、乗客乗員155人に犠牲者はいなかった。この実際の事故を1時間36分にコンパクトにまとめ、緊密な作品に仕上げてある。
事故が起きたのは2009年1月15日。バードストライクで損傷を受けたジャンボ機の帰還を描く矢口史靖「ハッピーフライト」が公開されたのが2008年11月15日だったから、ちょうど2カ月後に実際の深刻な事故が起きてしまったわけである。
映画はマンハッタンに墜落する飛行機の悪夢で始まる。悪夢を見たのは機長のチェスリー・“サリー”・サレンバーガー(トム・ハンクス)。サリーは42年の操縦経験を持つベテランだが、こういう事態は初めてだった。いったんはラガーディア空港に戻ると管制官に連絡するが、高度が足りず、帰還できないと判断、ハドソン川への着水を決行する。乗客乗員155人を救った英雄と賞賛されるが、国家運輸安全委員会(NTSB)は空港に帰還できたのではないかとして、サリーと副操縦士のジェフ(アーロン・エッカート)を厳しく追及する。コンピューターのシミュレーションでも十分に帰還できるという結果が出た。サリーは公聴会で事故当時の状況を説明することになる。
事故の詳しい状況とサリーの生い立ちを映画は手際よく見せ、公聴会での一発逆転が見せ場となる。機長がその後、訴追されなかったことは分かっているので、公聴会でのサリーの主張がポイントになる。サリーはシミュレーションの穴を突き、航空シミュレーターにある要素を加えて実行させ、現実とシミュレーションの違いを際立たせる。
NTSBはその主張を受け入れ、「Xの存在」が乗客の命を守ったと評価する。Xとはサリーのこと。しかし、サリーは自分一人の力ではなく、他の乗員や乗客、救助に駆けつけたフェリーや警察などかかわったすべての人たちのお陰だと話す。事故当時のニューヨークの気温はマイナス6度。救助が遅かったら、命を落とした人がいたかもしれないのだ。
イーストウッドは早撮りで有名だそうだ。決断が速いのだろう。バードストライクから208秒で着水を行ったサリーも決断は速かった。その決断を支えたのが豊富な経験だったわけだ。いくら決断が速くても実力が伴わなければ、緊急事態を乗り切ることはできない。机上の空論(シミュレーション)ではなく、現場のプロの力の重要さを描いて間然するところのない作品だ。