初恋のきた道
チャン・ツィイーの相手役の男優がとても一目惚れするほどの美男には見えないとか、40年後の姿があまりにもツィイーとは懸け離れたおばあさんすぎるとか、ツィイー親子がどうやって生計を立てているのかまるで分からないとかの瑕瑾はあるのだが、そんなことがまったく気にならないほどツィイーは素晴らしい。けなげに毎日弁当を作る姿、きのこ餃子を持って野山を必死に駆ける姿、高熱を押して雪の中を歩き続ける姿、笑顔ではにかむ姿、恋してしまった男の帰りをじっと待つ姿、どれもこれも素晴らしい。
最初にツィイーが画面に登場した時から、映画は輝きに包まれる。一途で純な少女をツィイーは見事に演じきっている。これはツィイーの魅力を余すところなく伝えるための映画であり、クロースアップを多用したチャン・イーモウ監督の演出もそれを踏まえたものである。オール・アバウト・チャン・ツィイー。恋する一人の少女の姿を追うだけで、これほど心を揺さぶる映画ができるのだ。モノクロームで描かれる最初と最後の現代の部分を抜きにして、40年前の描写をいつまでもいつまでも見ていたくなる。セリフは少なく、映像に重きを置いた映画であり、映画の原初的な感動が映像そのものにあるということを思い起こさせてくれる。珠玉という形容詞がぴったりの傑作である。
1958年、夫が死んだ悲しみから目の見えなくなった母親とともに18歳のディ(チャン・ツィイー)は中国の片田舎の貧しい村に暮らしている。ある日、村に待望の先生がやってくる。先生は20歳のルオ(チョン・ハオ)。村人にまじってルオの歓迎に行ったディは一目見てルオに恋をしてしまう。村の共同井戸は2つあったが、ルオの姿を見たくて遠い表井戸に水くみに行くようになる。村の男たちに加わってルオが学校造りを始めると、ディは毎日、昼食を届けるようになる。男たちのだれが食べるか分からないのだが、ルオに食べてもらいたいためだ。ルオが家の遠い子どもを送っていくと知って、ディは途中で待ち伏せるようになる。しかし初めはルオが近づくと、茂みの中に隠れてしまう。遠くから見つめるのみ。ある日、意を決して道ですれ違って、ルオもディの美しさに目をとめる。「ディ、先生が名前を聞いたよ!」。一緒にいる子どもたちが叫ぶ。
村の各家庭は交互にルオを招待し、食事を提供している。それだけ村で初めての教師を歓迎しているわけだ。ディの家にもルオがやってくる。「父は言った。初めて母の家に行った時、母が入り口に立って父を迎えた姿は一幅の画のようで、一生忘れないと」。その通り、ここでディが見せる表情は喜びと恥じらいを同時に表現した最高のものである。そしてここで2人の思いは決定的になる。夕食にも招待したディは餃子を作り始める。母親は「身分が違うんだよ」とディの思いをあきらめるように話す。その言葉を裏付けるように、遅れてやってきたルオは唐突に別れを告げる。町に帰らなくてはいけない、というのだ(その理由は村人のセリフで「右派らしい」と示されるだけである)。赤い服に似合うように赤い髪留めをルオはディに贈る。その髪留めを付けて餃子の包みを持ったディはルオが乗った馬車を必死に追いかける。林の中で転び、餃子を入れた碗は割れ、髪留めもなくしてしまう。それから毎日、ディは山の中を歩いて必死に髪留めを探し回るようになる。
チャン・イーモウ監督は田舎の風景の中で2人の恋の過程をじっくりと描いていく。少女の心のときめき、熱い思い、切なさを細やかに表現しており、恋が実ったときのディの喜びはそのまま観客の喜びになる。まったくこの40年前の部分は素晴らしいとしか言いようがない。最初に書いたように映画の冒頭と最後は現在のエピソードが描かれる。父親の急死で帰郷した息子が、村の語りぐさだった両親の愛の強さを回想するという形式なのである。現在の部分も決して悪くはないし、2人の愛の強さを補強することにもなるわけだが、40年前の良さに比べると、格段に落ちることは否めない。これは脚本の計算違いというより、チャン・ツィイー登場場面が良すぎたために結果的に見劣りしてしまったのだろう。現在の部分をもっと切り詰めて、40年前の話にもっと時間を割いた方が良かったのではないかと思う。
【データ】2000年 中国=アメリカ 1時間28分 配給:ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント
監督:チャン・イーモウ 製作総指揮:チャン・ウェイピン 製作:チャオ・ユイ 脚本:パオ・シー 撮影:ホウ・ヨン 音楽:サン・パオ 美術:ツァオ・ジュウピン 衣装:トン・ホアミアオ
出演:チャン・ツィイー スン・ホンレイ チョン・ハオ チャオ・ユエリン リー・ピン チャン・クイファ ソン・ウェンチョン リウ・チー チー・ポー チャン・チョンシー