It's Only a Movie, But …

シネマ1987online

フィールド・オブ・ドリームス

誰でも人生を左右するような“声”を聞くことはあるだろう。それは親しい友人の忠告かもしれないし、見知らぬ人の何気ない言葉、あるいは自分の内なる声、そしてこの映画の主人公レイ・キンセラのように畑仕事をしている途中に突然聞こえてきた声かもしれない。「それを作れば、彼はやって来る」。この言葉を聞いたためにレイは大事なトウモロコシ畑をつぶして野球場を作ってしまう。家族があり、生活があるたいていの30代の男にはそんなことはできない。声が聞こえなかったふりをするか、常識から考えて自分を無理に納得させるかだろう。だが、レイの場合、“自分が生まれた時には既に年を取っていた”父親を見ていたために、それを実行する。レイの父親は“声を聞いたかもしれないのに、耳を貸さなかった。何一つ冒険をしなかった”。レイはそうなるのが怖くて、そういう冒険ができるのも今が最後だと考えて、常識から言えば極めてバカげたことをするのだ。もう、このあたりでエーン、エーンと泣けてくる。「男を泣かせる映画」というコピーはまったく正しい。ここでいう声とは夢や希望という言葉と同じ意味を持つ。だから、この映画は夢を信じ、そのことによって幸せをつかんだ男の物語なのである。夢を捨てないということは何と素晴らしいことだろう。そんな思いを強く感じさせられた。珠玉、という言葉が実にふさわしいファンタジーだ。

「ここは天国か?」。映画の最初の方でシューレス・ジョーが、そしてラスト近くでもう一人の選手がレイに尋ねる。この球場はレイにだけでなく、野球界を追放されたシカゴ・ホワイトソックスの選手たちにとっても“夢の球場”なのである。だからここで行われるプレーが見える人と見えない人との違いは、夢を信じる人と信じない人との違いにほかならない。映画の中でレイの娘がテレビで「ハーヴェイ」(ジェームズ・スチュアート主演)を見ているシーンは象徴的だ。あれは他の人には見えない2メートル(正確には6フィート3インチ)の大ウサギを友人に持つ男の話のはずだから。僕は見ていないのだが、この映画はアメリカでは有名な作品らしく、「ロジャー・ラビット」の酒場のシーンでもそれをもじったセリフが出てきた。

「フィールド・オブ・ドリームス」は総じて出演者たちの演技がいい。レイ役のケビン・コスナーは性格俳優から出発して今やアメリカを代表する二枚目になってきた。エイミー・マディガンは「ストリート・オブ・ファイヤー」の片鱗を見せつつ、理想的な妻役をうまく演じている。不遇の作家テレンス・マンを演じるジェームズ・アール・ジョーンズのはぎれの良さ、“ムーンライト”グラハム役のバート・ランカスターの年輪を感じさせる演技も場面をさらう。ランカスターは「アトランティック・シティ」あたりからすっかり老け役が板についた。ラスト近くで、けがをしたレイの娘を助けるために球場の外に踏み出す(つまり夢と現実との境を越える)シーンなどはとても感動的だ。

映画を見ていて、僕は「ナチュラル」との相似を思わずにはいられなった。「ナチュラル」の主人公ロイ・ハプスがシューレス・ジョーをモデルにしているということだけでなく、映画のタッチがとてもよく似ている。麦畑のキャッチボールとトウモロコシ畑のキャッチボール。それはどちらも父と子の間で行われる。アメリカの文化の継承と言えば、大げさだけれども、このキャッチボールは古き良きアメリカを思わせる。そしてそうした時代への回帰願望も込められているような気がする。野球はアメリカを代表するスポーツなのだから、その仲介の役目となるのは当然のことかもしれない。(1990年3月号)

【データ】1989年 アメリカ 1時間47分
監督:フィル・アルデン・ロビンソン 製作総指揮:ブライアン・フランキッシュ 製作:ローレンス・ゴードン チャールズ・ゴードン 原作:W・P・キンセラ 脚本:フィル・アルデン・ロビンソン 撮影:ジョン・リンドレイ 音楽:ジェームズ・ホーナー
出演:ケヴィン・コスナー バート・ランカスター ジェームズ・アール・ジョーンズ エイミー・マディガン レイ・リオッタ ギャビー・ホフマン フランク・ホエーリー

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