裸のランチ
難解である。試写を見た人たち(10数人しかいなかったが)は、みんな「訳が分からない」と首をひねっていた。僕にもよく分からない。SFXを多用したクローネンバーグのいつもながらの暗いタッチは魅力的なのだが、ストーリーを追おうとすると、分からなくなる。ほとんど幻覚の世界を描いているのだから、訳が分からなくて当然−と開き直ってしまっていいのかもしれない。
ストーリーよりも全体を通して意味をつかむべき映画なのだと思う。しかし難解なストーリーとは裏腹に映像は明解だ。「戦懐の絆」に続いて、文学的な味わいと悪夢のようなイメージが同居しており、僕はフィリップ・K・ディックの小説世界を連想した。原作者のウィリアム・S・バロウズとディックは、麻薬に溺れたことがある点で共通しているから、これはあながち間違ってはいないはずだ。「裸のランチ」の原作もバロウズが麻薬中毒状態で書いたのだという。
主人公はゴキブリ退治の害虫駆除員ビル・リー(ピーター・ウェラー)。ある日、ビルはいつも使用している黄色い粉末殺虫剤が減っていることに気づく。妻のジョーン(ジュディ・デイビス)が粉末殺虫剤を麻薬代わりに使っていたのである。そしてビルもこの殺虫剤の常用者になってしまう。ここから、幻覚の世界が始まる。
ビルは麻薬取引の疑いで刑事に連行されるが、取り調べ室には巨大なゴキブリが現れ、ビルに語りかける。酒場にはマグワンプと呼ばれる「スター・ウォーズ」に出てくるような奇怪なモンスターがいる。医者(ロイ・シャイダー)のところに行くと、南米の巨大なムカデから作った黒い薬を与えられるが、この薬にも秘密がありそうだ。ウィリアム・テルごっこで妻を射殺してしまったビルはゴキブリに言われるまま、インターゾーン(これは別の世界というほどの意味合いである)に逃げ込む。マグワンプに命じられて、妻を射殺した報告書を書こうとすると、タイプライターが巨大なゴキブリに変貌する。妻そっくりの女も出てくる。奇怪な出来事は次々に起こり、何かの陰謀が背後にあることが分かり始めるが…。
ディックの小説が不安定な現実の揺らぎを描くのに対して、この映画の主人公は奇怪な世界にもそのまま順応していく。タイプライターがゴキブリに変わり、マグワンプの頭に変わっても、主人公はそのままタイプを打ち続ける。タイプがゴキブリになるというのは心理学的には作家の強迫観念を表しているのだろう。ラストで別の国へ入る場面は作家への第一歩を象徴しているのかもしれない。しかし、そうしたメタファーを突き詰め、意味を無理に付けることにどれほどの意味があるのか、僕には分からない。
クローネンバーグがこれまでたびたび取り上げてきたテーマは肉体の変貌だった。「ラピッド」「スキャナーズ」「ビデオドローム」を経て、傑作「ザ・フライ」でそのテーマは頂点を極めた。双子の医者の精神の歪みとその破滅を描いた前作「戦懐の絆」と、この映画は違う方向に目を向けている。「裸のランチ」には奇怪な生物が多数出てくるなど、描写の仕方がまったく変わらないところが、クローネンバーグらしいが、本領はやはりSFにある。ファンとしては次の作品にはもっとSF的なアプローチのある原作を取り上げて映画化してほしいと思う。(1992年8月号)
【データ】1991年 1時間56分 イギリス=カナダ
監督:デヴィッド・クローネンバーグ 製作:ジェレミー・トーマス ガブリエラ・マルティネリ 脚本:デヴィッド・クローネンバーグ 原作:ウィリアム・S・バロウズ 撮影:ピーター・サシツキー 音楽:ハワード・ショア
出演:ピーター・ウェラー ジュディ・デイビス イアン・ホルム ジュリアン・サンズ ロイ・シャイダー