壬生義士伝
主人公は「たそがれ清兵衛」と同じ東北地方の下級武士で、清兵衛と同じく剣の達人。幕末の戦乱で死ぬところまで同じである。しかし、描かれること、描き方は大いに違う。主人公の吉村貫一郎(中井貴一)は貧困に苦しむ妻子を救うために脱藩し、新撰組に入るが、「義のために」負け戦に参加し、「義のために」死ぬのである。国家や組織のために自分を捨てて忠誠を誓うという考え方は気持ち悪くてしょうがないので、この映画にもまったく乗れなかった。いや途中まではまだ良かったのだが、最後であきれてしまった。戦いで重傷を負った主人公のその後を延々と描き、その子どものことまで描く構成は何とかならなかったのか。主人公がかなわないと分かっていながら、朝廷の軍へ突撃する場面で終わっていれば、まだ映画の印象は良くなったのかもしれない。余計なことを描きすぎなのである。主人公の話に絞らなければ、長い原作を映画化するのは無理。ダイジェストにしかならないのは自明のことだ。脚本化の段階で、原作のポイントだけを取り出す努力が放棄されているとしか思えない。チャンバラ映画の魅力を感じさせる部分もあるが、映画のまとめ方で計算が狂っている。
「たそがれ清兵衛」が一家の貧しさを前半で徹底的にリアルに描いたのとは対照的に、この映画での貧しさは記号のようなものである。3人目の子どもを身ごもった主人公の妻(夏川結衣)が口減らしのために自殺しようとする場面だけでは貧しさと金への執着に説得力が足りない。貧しさから抜け出すために人殺し集団の新撰組に入った主人公には共感を持ちようもない。自分の家族を救うためなら、この男は平気で人を殺すのだ。一見、家族思いの主人公の姿勢には底の方で「自分さえよければ」というエゴが垣間見え、不快感、違和感がつきまとう。主人公が不祥事を起こした隊員の切腹の介錯をする場面の過剰な演出がそれに輪を掛けている。こういう男をさも立派な男のように描くことに僕は反発を感じる。キネマ旬報1月下旬号で佐藤忠男が指摘しているように、前半は家族のために動いていた主人公が後半、義のために動くのはテーマの突き詰め方が足りなかったためだろう。お涙頂戴のレベルを超えられなかったのもそこに原因がある。映画の作りが安いのである。
そんな映画の中で光るのは主演の中井貴一をはじめとする役者たちの演技である。主人公と対立する斎藤一(佐藤浩市)や近藤勇を演じる塩見三省、沖田総司の堺雅人、土方歳三の野村祐人らの新撰組のメンバーが実にうまい。斎藤の愛人で「醜女と言われるのは私の誇りです」と話す中谷美紀、主人公の親友・大野次郎右衛門(三宅裕司)とその家来の佐助(山田辰夫)も魅力的な演技を見せる。こういう役者の好演を引き出しているのに映画の出来はもったいないとしか言いようがない。同じ新撰組を描いた大島渚「御法度」の新しさに比べて、この映画の作りと思想は極めて古い。「まっすぐに泣ける」などというコピーには腹立たしさを覚える。泣けることを前面に出していること自体がもう映画の古さを象徴しているのである。もちろん、観客を泣かせることも情緒的満足を与えるという意味で映画の効用ではあるが、少なくともこの程度の映画では泣けないし、泣かされたくもない。監督は滝田洋二郎。ひいきの監督なのだが、今回は支持できない。
【データ】2003年 2時間17分 配給:松竹
監督:滝田洋二郎 製作代表:大谷信義 菅谷定彦 鞍田暹 俣木盾夫 石川富康 菊池昭雄 プロデューサー:宮島秀司 榎望 原作:浅田次郎 脚本:中島丈博 音楽:久石譲 撮影:浜田毅 美術:部谷京子 殺陣:諸鍛冶裕太
出演:中井貴一 三宅裕司 夏川結衣 塩見三省 堺雅人 野村祐人 斎藤歩 堀部圭亮 塚本耕司 比留間由哲 加瀬亮 山田辰夫 伊藤淳史 藤間宇宙 伊藤英明 村田雄浩 中谷美紀 佐藤浩市