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シネマ1987online

闇の子供たち

「闇の子供たち」の上映に合わせて、阪本順治監督のトークショーが宮崎キネマ館であった(2008年11月2日)。

事前に原作を読んでいたので、映画は物語を反芻する感じにしかならなかったが、阪本順治流のアレンジが何カ所かあった。エイズにかかった少女を音羽恵子(宮崎あおい)がゴミ運搬車から助ける場面と主人公を新聞記者の南部(江口洋介)に変えて、ラストにその過去をフラッシュバックさせる場面。どちらも阪本順治のエンタテインメント気質が表れた場面で、原作にはない。このラストはサイコな映画によくあるもので、映画を見ながらそれはないだろうと思ったが、トークショーでの監督の話によれば、物語を遠い国で起こったことと思って欲しくなかったための措置だとか。それにしても、これがあることで社会派作品から一瞬、サイコドラマに変わってしまった印象がある。

阪本順治の映画としては「KT」の系譜に属する作品だが、題材の重たさに比べて出来の方は水準作にとどまった。重たいといっても原作よりはるかに軽いのはペドファイル(幼児性愛者)たちの子供に対する性行為が具体的に描かれないからだ。これは仕方がない。粘膜が割け、肉がきしむような過激な描写が映画でできるわけがない。その代わりに映画は白ブタのような白人男性やオタクのような日本人を出すことで、醜悪さと嫌悪感を表現している。

映画を撮るに当たって、監督は現地で児童買春と臓器移植について取材したそうだ。原作に書かれたことは10年から15年前のもので、今は子供に足かせをはめて暗い地下室に閉じ込めるようなことはやっていないという。だから映画には取材で分かったことも取り入れられている。それならば、取材を元に映画を構成しても良かったような気がする。なぜドキュメンタリーを撮らなかったのかという点について、監督は「自分はフィクションしか撮ったことはないし、ノンフィクションであっても監督の主観は入る。ドキュメンタリーだったら、少女が這いながら自宅に帰る場面は撮れない」と説明した。それと宮崎あおいや妻夫木聡のファンが映画を見に来て、この問題について知るという効果も確かにあるだろう。

ただし、原作を読んで映画を見ても僕は臓器移植については懐疑的だ。大きな災害の後に子供がいなくなることが多いそうで、そうやって連れ去られた子供たちは売春と移植組に分けられる、と監督は言ったけれども、そこを具体的に映画の中で明らかにしてくれないと、信用できないのである。こういう部分はノンフィクションじゃないと説得力がない。まあ、原作にも臓器移植の具体的な描写はないので、これは現地の警察の捜査を待たないと、無理なのだろう。

原作には出てこない心臓移植を受ける少年の父親役を佐藤浩市がさらりと好演。ゴミ運搬車から少女を助ける場面で宮崎あおいが殴られて倒れても反撃に転じる場面はいかにも阪本順治のタッチになっていた。

このほか、トークショーで印象に残ったこと。
 原作ではタイの山岳地域から子供が売られる場面があるが、これも今は変わっていて国境を越えて(ミャンマーやカンボジアあたり?)連れてこられることが多く、だから映画の中でタイ語を話す子供は1人だけにしたのだとか。そう言えば、タイ国境の場面が映画にあった。

細かいアレンジの部分では取材の成果が生かされているわけだが、分かりにくい部分だと思う。

それと、映画の中で音羽恵子が「さっちゃん」を歌うのは「子供の名前を重視したからだ」という。被害に遭っている子供たちが無名の存在ではないという主張の表れ。これは単に原作で妹の名前が幸子だったからじゃないかと思っていた。豊原功補が「つぐない」をカラオケで歌うのはテレサ・テンが死んだのが映画の舞台ともなっているチェンライだからだとか。これは映画の本筋とはあまり関係ない部分ではある。

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