黄泉がえり
「俊介、なんで葵を残して死んだんだよ。葵は俺じゃダメなんだよ」と言いながら、主人公の平太(草なぎ剛)は親友だった俊介を甦らせるため、その角膜を持って鹿児島から阿蘇へと急ぐ。俊介と平太と葵(竹内結子)は聖なる三角関係にある。いや、あった。葵にプロポーズすることを俊介が平太に相談したため、平太は自分の思いを打ち明けられずにきた。俊介は海で死んだが、葵は今も俊介を愛している、と自分で思っている。身近にいる男の良さが分からずに遠くへ行った男のことを思い続けるというのは山本周五郎の小説(「柳橋物語」とか)を持ち出すまでもなく、切ない設定だ。だから、葵が平太の自分に対する気持ちと自分の本当の気持ちに気づく場面がなかなか感動的である。人が甦るには甦ってほしいと強く願う人が必要なのだった。同じことはいじめに遭って「死んでみせる」と言って自殺した山田克典(市原隼人)にも言える。誰からも必要とされていないと思っていた克典は甦って初めて自分のことを思ってくれていた森下直美(長澤まさみ)の存在を知る。直美こそが克典の甦りを強く願っていたのだ。
ラーメン屋で働く中島英也(山本圭壱)は2年間、店主の玲子(石田ゆり子)のことを思っていた。そこへ死んだ亭主の周平(哀川翔)が甦ってくる。傷心の英也のところにも風邪をこじらせて14歳死んだ優一(東新良和)が甦ってくる。両親を亡くして兄弟2人で親戚をたらい回しにされ、あげくに孤児院に預けられたという英也の独白が泣かせる。医師(田中邦衛)のところには死んだ聾唖者の妻(忍足亜希子)が甦ってくる。妻は自分の命と引き替えに娘を出産して死んだ。娘(伊藤美咲)は母親に感謝して今、手話を教えている。という風に「黄泉がえり」は阿蘇周辺の町を舞台に甦ってくる人々とそれを願う人々の幸福で複雑な情感を交えたエピソードで構成される。もちろん中心になるのは平太と葵の関係なのだが、塩田明彦監督はまず、こうしたさまざまなエピソードをいくつも積み重ねていく。甦りを願う人と甦った人とを説得力を持って描いていくのはなかなか難しく、いくつかの傷はあるが、それでも邦画のファンタジーとしては成功の部類に入る出来だと思う。
原作は熊本在住のSF作家・梶尾真治。小説には宇宙から飛来した物体の描写もある。映画はそういう部分を一切廃してファンタジーに徹している。黄泉がえりの理屈は一応、山中で見つかった巨大なクレーターとの関係で説明されるが、詳しくは描写されないのである。人が甦って来るというシチュエーションとそこから生まれるドラマを最大限に生かした映画化というべきか。誰もが指摘するようにクライマックスのコンサートの場面は長すぎる。あれほど長くするのなら、歌手のRUI(柴咲コウ)のエピソードをもっと増やす必要があっただろう。本筋から浮いてしまったのは残念だ。ここだけ、プロモーションビデオを見せられているような気になるのである。
傑作「メッセンジャー」に続いて、草なぎ剛は一歩引いた演技で好感が持てた。原作の平太は熊本弁の新聞記者で主人公でさえないが、映画では厚生労働省の役人。このほか、どのエピソードも映画のオリジナルと言って良いほど、改変が加えられている。それでも原作のエッセンスは壊していず、物語を映画向きに再構成した脚本はうまいと思う。
【データ】2003年 2時間5分 配給:東宝
監督:塩田明彦 製作:児玉守弘 企画:浜名一哉 神野智 原作:梶尾真治 脚本:斉藤ひろし 犬道一心 撮影:喜久村徳章 音楽:千住明 美術:新田隆之
出演:草なぎ剛 竹内結子 石田ゆり子 哀川翔 山本圭壱 伊藤美咲 忍足亜希子 東新良和 長澤まさみ 市原隼人 寺門ジモン 田辺誠一 柴咲コウ 伊勢谷友介 高松英郎 加茂さくら 北林谷栄 田中邦衛