It's Only a Movie, But …

シネマ1987online

ゆきゆきて、神軍

書きたいことが多すぎて何から書いていったらいいか、分からない。それほど、さまざまなことを考えさせられる刺激的な映画である。こういう場合、自分に身近なことから書けばいい。まず、その手法からいこう。

一人の男が事件にかかわる人々を訪ね歩いて、真相を明らかにしていくという構成は、ハードボイルド・ミステリを思わせる。ここで提示される謎は、ニューギニア戦線に従軍した2人の日本兵が終戦後23日目になぜ死んだか、ということである。遺族には戦病死と伝えられたが、実は2人は銃殺処刑されていた。なぜか。主人公の奥崎謙三はそれを探るために、2人の遺族とともにかつての上官たちを追及していく。映画が撮られた時点で38年前のことだから、関係者はなかなか口を割ろうとしない。突然、訪ねてきた奥崎たちに無礼な態度を取る人もいる。しかし奥崎は時に暴力を振るいながら、強引なやり方で真相をつき止めていく。

周囲4キロを米軍に包囲されるという極限状況のジャングルで、1万数千人の日本軍の間では、飢えと疲労から人肉食がおこなわれていた。関係者はポツリポツリとあるいは平然と、その事実を打ち明ける。2人の日本兵は、その事実を隠蔽するために殺されたらしい。関西のある食堂のおやじは白人を白ブタ、原住民を黒ブタと称していたことを話し始める。

「じゃあ、プタというのはすべて人肉のことだったんですね」

「土人のブタを取ったら、土人から殺されるからね」

「でも白ブタも黒ブタも捕まえられないこともあったでしょう。そういう時は部隊の下の方から殺して順番に食べていったんじゃないですか」

「いや、私のいた部隊では日本兵は食べなかった」

こうした非日常的なセリフが日常生活を営む普通の人間の口からポンポンと出てくるのだから、驚かされる。もっとも、人肉食(カニバリズム)自体は衝撃的なことであっても、歴史においてはそんなに珍しいことではない。江戸時代、天明の大飢饉の時には犬の肉と称して人肉が売られていたというし、この映画と同時代のドイツでは閉じ込められた2人のドイツ兵のうち1人がもう1人を食べて生き延びた。発見された時、この兵士は発狂していたという(この事件は有名な一人芝居になっている。「告白」とか「審判」とかいう題ではなかったか)。近いところでは、アンデス山中に落ちた飛行機の乗客が死体を食べたというのもあった。乗客たちはキリスト教徒であったため、生き延びる道があるのにそれをせずに餓死することは、禁じられている自殺をするのと同様だ、という理屈からカニバリズムに踏み切ったのだ。恐らく、人間は追い詰められれば人間を食べる。

話がそれた。この映画が明らかにする事実は十分にショッキングであるし、謎が解かれていく過程は人を引きつけて離さない。だが、この映画の凄さはそれだけにとどまらない。ここで何よりも凄いのは奥崎のキャラクターであり、相手の反応である。そして映画が求めたのはまさにこの部分であったのだと僕は思う。

もし、謎を解明するだけが映画の目的であったなら、こういう微妙な問題を扱う場合、関係者の顔を隠すのが常識である。テレビでよくやるように顔にボカシをかけるとか、後ろから撮るとかするのが普通だろう。しかし、ここに出てくる人たちはすべて実名、自宅も顔もカメラの前にさらけ出される。その人間性までもがカメラの前であらわにされてしまう。プライバシーの保護という心配がチラリと頭をかすめるが、映画はそれを無視したところから始まっている。だから、悪いといっているのではない。だからこそ、無類に面白いのだ。

画面に張り詰めた緊張感は、そうした事実の重みによるものである。奥崎の怒り、殴られる人の痛み、遺族の悲しみが見ている者の胸をえぐる。そして決して奥崎にも関係者にも介入しないカメラの存在。監督の原一男が自ら回したこのカメラには強い意志が働いて、ストイックなまでに中立の立場を保っている。いや、もちろん奥崎を主人公にした映画であるから、奥崎を中心に撮られてはいるのだが、カメラは記録者の位置を動こうとはせず、目前に起きたことを忠実にとらえようとするのみなのである。ドキュメンタリーの本質とはこういう撮り方なのではなかろうか。

これを可能にしたのは、究明者としての奥崎の存在があったからだ。短時間で、しかもカメラに写された下で、重い事実を話させるには奥崎が取ったような過激な方法がなくては無理だっただろう。

「暴力を振るって良い結果が得られるのなら、暴力は許される」と言う奥崎はきわめてカリスマ的な魅力を持っている。と同時にアクの強い人物でもある。奥崎が天皇を非難する時、その言葉は殺意に満ちたものとなる。戦争責任をあいまいにさせてきたこの国の多くの人々はドキリとせざるを得ない。ただ、奥崎の考え方が一般的な極左(例えば「虹作戦」で天皇のお召し列車の爆破を図った東アジア反日武装戦線“狼”部隊のような)と異なるのは、その根本に神の思想があることである(だから「神軍」なのだ)。国家、法律、会社、組合などを人間を断絶させるものと規定し、切り捨てる。これはもう、一種の宗教だろう。

この映画の後、奥崎は銃殺を指示した元中隊長の長男を拳銃で撃ち、重傷を負わせる(その場面を撮るよう依頼されたが、原監督は断った)。一審で懲役12年の判決が下され、控訴も咋年12月に棄却された。控訴審ではこの映画のビデオが上映されたという(犯罪者が犯罪を起こすまでの足跡をたどった映画とみることもできるのだ)。傷害致死などの前科があること、明らかに殺意があったことを考えると、上告しても減刑の可能性は少ない。まさに事実は小説よりも奇なり。ノンフィクションがフィクションを超えた痛快な例として「ゆきゆきて、神軍」は長く記憶されるに値する。キネ旬ベストテンで2位に終わったのは、奥崎に対する反発をそのまま映画の評価とした評論家が多かったからにほかならぬ。関係者の家族から罵倒されながらもカメラを回し続けた原監督以下のスタッフに敬意を表するとともに、ビデオの発売によって、この異形の傑作が地方でも見られるようになったことを喜びたい。(1988年1月号)

【データ】1987年 疾走プロ 2時間2分
監督:原一男 製作:小林佐智子 企画:今村昌平 撮影:原一男 編集・構成:鍋島惇
出演:奥崎謙三

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