顔
乱暴な比較をしてしまえば、「ボーイズ・ドント・クライ」のキンパリー・ピアースよりも阪本順治の方が演出の力は上である。なぜ、こんな比較をするのかと言えば、「ボーイズ・ドント・クライ」が上に書いたように男という性の固定観念に縛られた人たちの悲劇を描く映画だったのに対して、「顔」は自分に対する固定観念を打ち破っていく話だからである。そして阪本順治はこの過程を実に気持ちよく、分かり易く演出している。阪本順治の強みはこの分かり易さ、つまりいい意味での大衆性にあるのだと改めて思う。
藤山直美演じる主人公の正子は、意地の悪い妹(牧瀬里穂)を発作的に殺してしまったために引きこもり同然の生活からの脱却を余儀なくされる。警察からの逃走は当然のことながら日常からの逃走でもあり、そのことによって自分の可能性に目覚めていくわけである。離島からの脱出を図って海を必死に泳ぐ主人公をとらえたラストショットはいかにもこのヒロインにふさわしい力強さとたくましさに満ちており、こうならなければならないラストと言える。たとえ、その後に警察に捕まることが明白なシチュエーションであったにしても、ここで終わったことで映画は心地よい気分を残す。
加えて、この映画、出演者たちの演技が見事に充実している。本格的な映画は初めての藤山直美がうまいのは舞台の経験があるのだから納得はできるのだが、この肉体的にも図太い主人公がいなかったら、映画の魅力は半減したことだろう。主人公とレイプ同然に性交渉する酔っぱらいの中村勘九郎のいやらしさ、主人公を理解し、別府のスナックで雇う大楠道代の優しさをはじめ、その弟で元ヤクザの豊川悦司、スナックの常連客の國村準、主人公が思いを寄せる佐藤浩市、主人公の母親の渡辺美佐子、ラブホテルの支配人岸部一徳など、脇を固める人々もすべて好演している。特に手首に傷を持つ大楠道代は生活感と人生への疲れをにじませた、さすがというべき演技。自分が傷ついて生きてきただけに他人の痛みが分かる人間であり、主人公は大楠道代に出会ったことで決定的な変化を遂げる。こういう演技を引き出すのも監督の手腕なのだろう。
ヒロイン像とテーマは今村昌平「赤い殺意」に通じるものがある。そして「赤い殺意」同様、この映画も人間をまず丁寧に描くことに気を配っているようだ。リストラされた会社の資料を持ち出して「俺、間違ったことをしてしまった」と言う佐藤浩市に対して「私、間違ったことをする人好きです」と答える藤山直美の言葉は、みなそれぞれに弱さを抱えたこの映画の登場人物に対する監督の視点でもある。警察の手が迫り、スナックから逃げ出した主人公が別れの電話をかける場面で、大楠道代が「サヨナラなんて言わずにまたいつか会おうよ」と引き止める場面の切実さ、あるいは主人公が佐藤浩市に向かって「もういっぺん生まれ変わって、また私と会ったら、一緒になるって約束してください。うん、って言ってください」としつこく迫る場面の真剣さ、思いを告白した後で「さらばじゃ」と快活に別れを告げる場面など、どれもおかしさと哀しさが入り交じり、心に残る。細部の具体的な描写が映画に深みを与えているのである。
題材自体は明るくはないのだが、デビュー作「どついたるねん」同様、なんだか元気の出る映画となったのは阪本順治の資質というべきか。ほのかなユーモアがにじみ出た映画であり、豊かな映画だと思う。逃げて逃げて逃げることをあきらめない主人公のアクティブな姿は、決して恵まれてはいなかったというこの映画の製作過程における監督の姿勢を思わせる。低予算にもかかわらず、豪華キャストとなったのは監督の思いを理解し、技術を信頼する映画人が多かったからなのだろう。
【データ】2000年 2時間3分 配給:東京テアトル
監督:阪本順治 企画:KИHO 製作:宮島秀司 石川富康 寺西厚史 中沢敏明 椎井友紀子 原案:宇野イサム 脚本:宇野イサム 阪本順治 撮影:笠松則通 音楽:coba 衣裳:宮本まさ江
出演:藤山直美 豊川悦司 國村準 大楠道代 佐藤浩市 中村勘九郎 岸部一徳 内田春菊 渡辺美佐子 牧瀬里穂 早乙女愛