ゴジラ×メガギラス G消滅作戦
発想はとても良かった。1984年に復活した「ゴジラ」シリーズの設定をすべてなかったことにして、1954年の「ゴジラ」第1作だけを生かし、新たな世界を作り上げている。つまり、1954年にゴジラに蹂躙されたため首都は東京から大阪に移り、1966年に東海村の原発を襲われたことで日本は原発を放棄したという設定。冒頭、ニュースフィルムでこれを簡単に紹介した後、映画は1996年の大阪で自衛隊特殊部隊とゴジラとの戦いを描く。ここで隊長の永島敏行が死亡。部下だった田中美里は憎しみを込めてゴジラに向けロケット・ランチャーの引き金を引く…。なんとドラマティックな幕開けだろう。このオープニングからすれば、映画は「エイリアン」シリーズのように戦うヒロインを描くものにならなければならなかったはずだ。しかし、いつものように怪獣プロレスと大差ないレベルに落ちてしまうのだ。しかもクライマックスに登場するメガギラスの造形はあまりにも失望を招くような着ぐるみ然としたもの。戦い方にも工夫が感じられない。初監督の手塚昌明の「新しいゴジラ映画を作ろう」という意欲は技術が追いつかなかったことでかなえられていない。志そのものは高く買うが、このレベルで満足していてはいけないのだと思う。
全体的に平成ガメラシリーズの影響が多く見て取れる。ヒロインのゴジラへの憎しみは「ガメラ3 邪神覚醒」だし、巨大昆虫メガニューラの群舞シーンは「ガメラ2 レギオン襲来」だ。加えてなぜゴジラは日本に来るのかという疑問にも説明があり、これがエネルギー開発と密接にかかわっているのは見識だろう。メガギラスは古代のヤゴ怪獣メガヌロンから成虫のメガニューラにふ化する。水没した渋谷のビルの壁から多数のメガニューラが一斉にふ化するシーンは出色の出来。無人島でのゴジラとの戦いも素晴らしい。メガニューラはここでゴジラに張り付き、エネルギーを吸い取って、その巨大化形態で戦闘能力が集約されたメガギラスを誕生させるのだ。ヤゴ怪獣メガヌロンは「空の大怪獣ラドン」の序盤にも登場し、炭坑の町で人間を次々に襲った。この映画では渋谷で男女2人が襲われる。この場面自体は悪くないのだが、「ラドン」版のように、あるいはギャオスのようにもっと凶悪に多数の人間を襲わせ、恐怖感を煽るべきだったのではないか。
古代の昆虫メガヌロンが現代に復活したのはゴジラへの最終兵器マイクロブラックホールの実験で時空が歪んだため。このマイクロブラックホールというアイデアが科学的ではない。「2メートルの大きさにブラックホールを縮小する」というセリフには苦笑せざるを得ない。ブラックホールを作った途端に地球はそれに吸い込まれてしまうだろうし(そもそも地球上で作れるとは思えない)、これをゴジラに打ち込むというような制御もできるわけがない。細部の科学的ガジェットのリアリティのなさは大きな欠陥で、これはガメラシリーズの伊藤和典のようにSFの分かった脚本家に書かせないとダメだろう。
84年に復活した「ゴジラ」は旧シリーズが怪獣プロレスと揶揄され、ゴジラを正義の味方にしてしまったことを反省して、ゴジラはあくまで人類の敵という設定を崩さなかった。それはそれでいいのだが、難しいのは新怪獣との対決のモチーフなのである。どちらの怪獣も人類の敵であるなら、なぜこの2匹の怪獣は戦わなければならないのか。これに明確に答えていたのは大森一樹「ゴジラVSキングギドラ」と正義の味方モスラを登場させた「ゴジラVSモスラ」(この方法は安易)ぐらいだろう。今回もまた2匹が戦う意味があまりない。この欠点を克服するような脚本でなければ、2匹の怪獣が力比べをするだけの怪獣プロレスの域を出るのは難しい。ガメラのように“地球生態系の守護神”との位置づけだってあるのだ。東宝にとって興行上の安全パイとなった「ゴジラ」シリーズの製作にはいろいろと制限があると思うが、新しいゴジラを作る気なら、ゴジラのキャラクターからもう一度考え直し、大人が見ても納得できる設定を考える必要がある。
【データ】2000年 東宝 1時間45分 配給:東宝
監督:手塚昌明 製作:富山省吾 脚本:柏原寛司 三村渉 撮影:岸本正広 美術:瀬下幸治 音楽:大島ミチル ゴジラテーマ曲:伊福部昭 造形:若狭新一 操演:鳴海聡 ビジュアルエフェクト・スーパーバイザー:岸本義幸 大屋哲男 小野寺浩 特殊技術:鈴木健二
出演:田中美里 谷原章介 勝村政信 池内万作 鈴木博之 山口馬木也 山下徹大 永島敏行 中村嘉葎雄 かとうかずこ 極楽とんぼ 伊武雅刀 星由里子