風の又三郎 ガラスのマント
タイトル前の空撮がいい。風に乗ったカメラが野山を駆けめぐり、稲穂の上をかすめ、かかしの麦藁帽子を吹き飛ばす。山の中腹にあるサーカス小屋の中に入った風はオルガンを鳴らし、再ぴ空高く舞い上がっていく。爽快感があり、いかにも「風の又三郎」にふさわしい幕開けである。しかし、タイトルが出たあとに繰り広げられる物語からは、ついに何のときめきも感じることができないままに映画は終わってしまった。わずか数分のシーンに、その後の1時間半以上のドラマが負けているのである。
脚本は筒井ともみと、監督でもある伊藤俊也の共作。クレジットに“作品集よリ"とあるように、「銀河鉄道の夜」や「セロ弾きのゴーシュ」など宮沢賢治の他の作品からのエピソードも取リ入れてある。東北の山村の分校を舞台に、原作には登場しない少女かりんの目から見た不思議な少年又三郎と子供たちの交流、大自然の美しさがファンタスティックに、あるいはノスタルジックに生き生きと描かれる、はずであった。確かに、脚本のストーリーだけを追ってみれぱそうなるのだが、完成した映画からは“生き生きと"の部分がすっぽりと抜け落ちている。子役の演技がまるでできていないのが、その大きな原因ではないかと思う。又三郎役の子供は完全にミスキャスト。ただのおとなしいだけの子供であって、神秘性などは皆無である。かリんはかわいい女の子だけれども、それだけのことだ。ほかの少年たちも素材としてはいいのだろうが、演技となると駄目。監督の指導もまずいのだろう。脚本自体も決して良い出来ではなく、例えば中途半端なまま終わる、かりんと母親のエピソードなどはないほうがいい。要するにこれは宮沢賢治の世界を詰め込みすぎて、1本の映画の脚本としてまとめきれていないわけだ。
とりあえず、製作者たちの一生懸命さは伝わってくるものがある。一生懸命やったのだけれども、それが実を結ばなかった不幸な例なのだ。それを「さそり」とか「誘拐報道」とか「花いちもんめ」とかの、一流になりきれない(必ずどこかに欠陥のある)伊藤俊也監督のせいぱかりとは言えないだろう。僕も何となく悪口を言いたくない気分なのだが、この程度の出来ではやっぱりまずいのではないか。見ていて思わず笑ってしまう幼稚な演 出もいくつかあった。「自然がきれいだ」とか「子役がいい」とかの肯定的な意見を言う目の不自由な観客も中にはいる(僕はそれすらも間違いだと思う)。そのレベルでどうこう言うのは、情けないではないか。少なくとも、映画であるならば、総体としてそれを上回る何かが必要だ。一つひとつの要素が組み合わさって相乗効果を上げていくのが本当なのに、この映画にはそんな部分が全くない。
にもかかわらず、“少年・青年・成人・家庭”の4部門で文部省特選。別に文部省のオススメがあったからといって映画が傑作であるとは限らない。むしろ、その反対の例が何と多いことか。この映画には青少年に有害な部分はないが、有益な部分があるとも思えもない。無害無益のこんな映画が文部省には好ましいのだろうかね。(1989年3月号)
【データ】1989年 1時間47分 朝日新聞社=東急エージェンシー=日本ヘラルド
監督:伊藤俊也 製作:一柳東一郎 前野徹 吉川為之 原作:宮沢賢治 脚本:筒井ともみ 撮影:高間賢治 美術:村木忍 音楽:富田勲
出演:早勢美里 小林悠 檀ふみ 草刈正雄 樹木希林 内田朝雄 岸部一徳 すまけい