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バトル・ロワイアル

「バトル・ロワイアル」

本多勝一が家庭内暴力や登校拒否のルポに「子どもたちの復讐」と名付けたのは、そうした事象が現在の歪んだ社会への不満の噴出と見たからだが、少なくとも深作欣二はこの映画で社会を直接的に照射することなど考えてはいなかっただろう。クラスメートを殺さなければ自分が死ぬという極限状況は戦争に近いシチュエーションである。深作欣二は自分の戦争中の原風景を織り交ぜ、戦争映画としてこの題材を映画化した。そしてこのことで映画は普遍性を得た。殺し合う中学生を普通の大人に変えても成立する映画なのである。しかし同時に深作欣二はダメな大人の視点から若者へしっかりとエールを送ってもいる。リストラされ、妻に逃げられた主人公秋也の父親は「頑張れ秋也、頑張れ秋也、頑張れ秋也」と書き残して自殺する。家でも学校でも馬鹿にされる教師キタノ(北野武)は好意を寄せる女生徒に自分を殺すよう仕向ける。そして主人公2人が都会を駈けていく姿に「走れ。」と出る字幕。「頑張れ、頑張れ、頑張れ」「走れ、走れ、走れ」。深作欣二はダメな社会を変革する若者の力を信じ、鼓舞しているのだと思う。生ぬるさとは無縁の熱い熱い映画だ。疑いようのない傑作であり、絶対の必見。

考えてみれば、BR(バトル・ロワイアル)法という不条理な法律を作った社会は全体主義社会の怖さを思わせ、国民を総動員して一部階級の利益のために他国と戦争をさせたかつての日本の姿とだぶって見える。殺し合いの場に放り込まれた中学生たちは生き残るために進んで殺し続ける者もいれば、戦いを放棄して自殺するものもいる。平和を呼びかけ、あっけなく殺される者もいれば、疑心暗鬼から内ゲバを起こして自滅するグループもいる。悲惨な戦い、不条理な戦い、絶望的な戦い、かっこいい戦い、みじめな戦い、恐怖の戦い、自分を守るための戦い、あらゆる種類の多くの戦いが立て続けに描写され、圧倒される。だからこそこれは戦争映画なのである。戦いとはどういうものか、殺し合いがどういう結果につながるのか、人が極限状況の中でどんなエゴイズムを見せるかをしっかりと描いている。

殺伐とした戦場の中で唯一のヒューマニズムを象徴するのが主人公・七原秋也(藤原竜也)と中川典子(前田亜季)で、与えられた武器が鍋のふたと双眼鏡という役に立たないものでなくても、この無条件に信じ合う2人の姿には希望を抱かされる。それに謎の転校生川田章吾(山本太郎)の存在がある。川田はかつてバトル・ロワイアルに参加させられ、好きな女生徒と2人生き残ったが、最後には殺し合ってしまった過去を持つ。女生徒が死ぬ間際に言った「ありがとう」という言葉の意味を知るために再び戦いに参加したという設定である。川田が秋也と典子の姿にかつての自分の姿をだぶらせているのは間違いなく、この2人を殺さず助けるのはそのためだろう。この映画で唯一の不満はこの3人が自分たちをこんな状況に追い込んだ社会に対するファイティングポーズを明確にしないこと。深作欣二はラストシーンに都会の群衆に向かって銃を乱射する秋也も考えたという。それならば、社会への復讐の意志がはっきりするのだが、よくよく考えてみれば、それでは物語が矮小化されてしまったかもしれない。単なるテロリストになってはこの映画のラストのような希望を感じることはできなかっただろう。

「きょうは皆さんにちょっと殺し合ってもらいます」。キタノがいうセリフやバトル・ロワイアルの方法を解説するビデオ(宮村優子が爆笑の怪演)など、全体を覆うブラックユーモアは映画を絵空事のように見せるけれども、深作欣二は本気である。本気で自分の思いを込め、映画製作にあくまでも真摯な姿勢を貫いている。そのエネルギッシュさには脱帽するしかない。主演の2人もいいが、鎌を振りかざして凄絶な戦いを繰り広げ、「あたしただ奪う側に回ろうと思っただけだよ」とつぶやく柴咲コウと、「あたしの全存在をかけてアンタを否定してあげる」ときっぱりと言い放つ栗山千明が鮮烈に輝く。殺されていく他の中学生たちも総じて印象に残る演技をしており、この映画には「仁義なき戦い」のような集団劇的魅力も満載されているのだった。

【データ】2000年 1時間53分 配給:東映
監督:深作欣二 企画:佐藤雅夫 岡田真澄 鎌谷照夫 香山哲 エグゼクティブ・プロデューサー:高野育郎 プロデューサー:片岡公生 小林千恵 深作健太 鍋島壽夫 脚本:深作健太 撮影:柳島克己 美術:部谷京子 音楽:天野正道 主題歌:「静かな日々の階段を」Dragon Ash
出演:藤原竜也 前田亜季 山本太郎 塚本高史 高岡蒼佑 小谷幸弘 栗山千明 石川絵里 三村恭代 島田豊 宮村優子 柴咲コウ 安藤政信 ビートたけし

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