ホタル
良心的に作られた映画であることは分かっているのだが、良心的ということと映画の出来とはまた違うわけで、ちょっと苦言を呈さねばならない。傑作になりそうでならなかった一番の要因は脚本にあると思う。“知覧の母”を描くのか、特攻隊として戦死する朝鮮人兵士を描くのか、高倉健夫婦の日常を描くのか、焦点が絞りきれていない。もちろん3つとも描きたかったのだろうが、まとめ方がうまくないのである。特攻隊の面倒を見た“知覧の母”奈良岡朋子の演技が凄すぎるのが、まず良い意味での計算違い。映画の企画の出発点となったここだけを中心に描いても十分1本の映画になったのに、奈良岡朋子の描写が少なすぎる。高倉健夫婦の日常に関しては田中裕子の人工透析を受けているという設定が実際の患者にとっては不快だろうし、不要である。最も重たい朝鮮人兵士に関しても日本映画として初めて韓国へロケに行ったのに設定の不自然さ、不十分さ、演出のまずさが目に付いてしまう。どれか一つを重点的に描くべきだった。もちろんここでは夫婦の戦後にまで影響を及ぼす朝鮮人兵士のエピソードこそが、現代に特攻隊を描く映画としてふさわしいと思う。しかしこのエピソードが出てくるまで40分も待たねばならないこの映画の構造ははっきり間違っているし、何より戦争に対するスタンスが非常にあいまいである。戦争の現実から目を背け、とりあえずきれい事だけで終わらせるような映画を僕は好きにはなれない。
1989年の鹿児島が舞台。山岡秀治(高倉健)は特攻隊の生き残りで、妻知子(田中裕子)と暮らしている。知子が腎臓を患い、人工透析を受けるようになって秀治は漁をやめ、カンパチの養殖をするようになった。昭和が終わり、平成になったある日、青森から秀治の戦友藤枝(井川比佐志)がやってくるが、山岡とはすれ違いで帰る。数日後、秀治は藤枝が雪山で死んだことを知らされる。藤枝は特攻隊として出撃したが、機体の故障で引き返した過去がある。終戦の日、自殺を図るが、秀治に止められる。2人には仲の良かった上官金山少尉がいた。金山は朝鮮人で、出撃の前日「大日本帝国のためではなく、朝鮮民族のため、(婚約者の)知子のため出撃する」と2人に遺言を残す。その知子と山岡は戦後、結婚したわけである。ある日、秀治は“知覧の母”山本富子(奈良岡朋子)から金山少尉の遺品を遺族に渡して欲しいと頼まれる。富子は特攻隊で亡くなった兵士の遺族に戦後、遺品を渡す旅を続けていた。しかし、足腰が弱り、金山少尉の遺族が韓国にいることが分かっても行くことは出来なかった。秀治は知子とともに韓国に向かうことになる。
富子は自分で老人ホームに入ることを決意するが、その別れの会で、集まった人々を前に「本当の母親だったら、息子を次々に特攻隊に送り出すはずがない」と泣いて悔やむ。奈良岡朋子の名演と相俟って胸を打つ場面である。奈良岡朋子は他の場面でも圧倒的な貫禄を見せ、この人が主人公の方が良かったような気がする。そしてこのあいまいな映画の中で唯一、反戦を明確に体現した存在でもある。これに対して高倉健夫婦の描写には疑問を覚えざるを得ない。なぜ雪の中で鶴の真似などしなければならないのか、僕には理解不能である。病弱な田中裕子が高倉健宛に遺書を書いていたことが分かる場面もここだけ取り上げれば、それはそれでいい場面なのだけれど、映画全体にかかわってこない恨みが残る。演出で言えば、韓国の金山少尉の遺族と高倉健は突っ立ったまま通訳を通じて長々とやりとりをする。遺族の方は何か話す際には一歩前に出るというまるで学芸会みたいな演出は、ここで語られる重いテーマに対してあまりにも芸がなさすぎる。藤枝の孫娘役水橋貴己の棒読みのセリフもなんとかならなかったのか。
日本軍に協力して戦死した朝鮮人1000人の遺骨を韓国政府は未だに引き取っていないというエピソードも描かれ、この映画の中で語られる朝鮮人兵士の問題は決して小さくはない。それなのになぜ、そこに焦点を絞らなかったのか。夫婦愛を描くだけなら、この映画のタッチでも構わなかった。特攻隊、朝鮮人兵士という重い題材を絡めるのならば、もっと深くもっと鋭いタッチが必要だろう。多すぎる不要なエピソードを削って、こうしたことを真正面から取り上げて欲しかった。
【データ】2001年 1時間54分 配給:東映
監督:降旗康男 製作:高岩淡 企画:坂上順 プロデューサー:石川通生 浅附明子 野村敏哉 木村純一 李延柱 脚本:竹山洋 降旗康男 撮影:木村大作 音楽:国吉良一 美術:福沢勝広
出演:高倉健 田中裕子 井川比佐志 奈良岡朋子 小林稔侍 夏八木勲 水橋貴己 小沢征悦 高杉瑞穂 今井淑未 苗木夕子 小林綾子 中井貴一 原田龍二 石橋蓮司