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シネマ1987online

愛と宿命の泉

PARTI フロレット家のジャン Jean de Florette
 PARTII 泉のマノン Manon de Source

この長大な物語の主人公はタイトル・ロールのジャン(ジェラール・ドパルデュー)でもマノン(エマニュエル・ベアール)でもなく、スベラン家のセザール(イヴ・モンタン)である。ここでは多くの悲劇が描かれるが、ラストでそれらがすべて、フロレットの手紙がセザールに届かなかったという、ただ1点に集約されていく。このダイナミズム! 運命のいたずらと言うか、あまりにも皮肉な人生がここにはある。そして最も大きな悲劇がセザール自身に起きたものであることは言うまでもない。だから、最初から最後まで事の顛末を見つめ続けたセザールこそが主人公たりうるのである。

第2部が第1部よりも劣るのは、セザール役のイヴ・モンタンに対抗しうる俳優が存在しないからにほかならない。マノンを演じるエマニュエル・ベアールはただ美しいだけで、演技らしい演技ができていない。第1部のジェラール・ドパルデュー(ジャン)の圧倒的な演技を見たあとでは何とも物足りないのである。都会から来たインテリ紳士として登場したジャンは、住んだ土地に水がないばかりに(セザールと甥のウゴランが泉を埋めてしまったために)馬車馬のように働く羽目になる。1時間もかかる泉まで毎日、水を汲みに行き、作物を育て、井戸を掘る(この描写は執拗に何度も繰り返され、悲痛感を煽る)。しかし、その努力にもかかわらず、ついに命を落としてしまう。

第1部のラストでマノンは、セザールとウゴランの悪業を知る。そして10年後、かつての家の近くで、羊飼いとしてイタリア人の老婆と暮らしている。実はこれが、2人への復讐のためなのか、それとも単に思い出の地であるからなのかが、よく分からない。マノンは恋心を寄せてきたウゴランに冷たい態度をとることで、そして偶然見つけた村の泉の源を埋めることで結果として復讐を果たすが、これでは強い意志に基づいた復讐とは言えないと思う。

それはそれで構わない。この映画には悪意を持つ人物はいても、単純な悪人は存在しないのだから。セザールが隣人を殺してしまったのは不幸な事故であるし、ウゴランは恋したマノンのリボンを胸に縫いつけるという純粋さを持っている。村人たちがジャン一家に冷たいのも田舎ゆえの閉鎖性が災いしている…。人物の描き方は重層的であり、さまざまな要素が介在して、映画は悲劇へと突き進む。これがドラマというものだろう。

聞くところによると、「泉のマノン」は原作者のマルセル・パニョルによって以前、映画化されているのだそうだ。ラストで明らかになる意外な(というほどのものではなく、容易に想像はつく)人間関係は、その映画では描かれなかったという。映画の主題が水と火、愛と憎しみの対比であるのならば、確かにこの部分は不要かもしれない。しかし、ここは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のラストのように人生の愚かさ、主人公の無念の思い、後悔を鮮やかに浮かび上がらせる。映画の手法は極めて大衆的で、芸術的な香気には欠けるけれども、ぶ厚い長編小説を読んだ後のような満足感が残った。

それにしても3時間56分。途中で休憩がなかったのはつらいが、主観的な長さとしては最近の日本映画のタワケタ大作よりもずっと短い。ヒッチコックの言うケーキの断面ではなく、人生の断面を描くためには、これくらいの長さは必要なのである。(1988年7月号)

【データ】1986年 フランス フロレット家のジャン(2時間2分) 泉のマノン(2時間24分)
監督・脚本:クロード・ベリ 製作:ピエール・グルンステイン 原作:マルセル・パニョル 脚本:ジェラール・ブラッシュ 撮影:ブリュノ・ニュイッテン 音楽:ジャン・クロード・プティ
出演:イヴ・モンタン ダニエル・オートゥイユ ジェラール・ドパルデュー アマニュエル・ベアール

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