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千と千尋の神隠し

「千と千尋の神隠し」

大ヒットした「もののけ姫」から4年、宮崎駿は恐ろしく完成度の高い作品を作ってしまった。テーマと物語の見事な融合。豊かすぎる細部の描写。完璧なアニメーティング。良くできた古典を見せられたような充実感がある。「不思議の国のアリス」のような話なのに、なぜこんなに焦点深度の深い作品になるのか。異世界の物語で現代の日本を語り、10歳の少女に託して人間の本質を語っているからにほかならないだろう。物語に身を委ねることの快楽を覚えずにはいられず、続きの物語を知りたくてたまらない気持ちに駆り立てられてしまう。それは傑作小説を読む時に感じる切実な感情と同じものである。宮崎駿はまぎれもなく堅固な思想と作家性を持つ監督だが、同時に圧倒的な大衆性をも備えている。それがほかの凡百の映画とは一線を画す作品を生み出す理由なのだと思う。この作品でまたも引退をほのめかしているようだが、そんなことをさせてはいけない。世界に通用する数少ない日本の監督なのだ。この映画にはそんな宮崎駿の並々ならぬ思いが感じられる。アニメの狭い枠を軽々と飛び越えた傑作であり、絶対に見逃してはならない作品。

10歳の荻野千尋は引っ越しの途中で道に迷い、両親とともに古ぼけたトンネルの中に入る。トンネルを抜けた場所は荒れ果てており、かつてのテーマパークのように思われた。美味しそうな匂いに惹かれた両親は誰もいない中華料理店で料理をガツガツと食べ始める。気が進まなかった千尋は周囲を歩き始めるが、やがて日が暮れると、そこは異様な世界に一変した。正体不明の化け物のような存在が跋扈する世界。恐怖を覚えた千尋は両親のもとへ帰るが、2人とも豚の姿に変わっていた。逃げ出した千尋を助けたのはハクと名乗る少年だった。ハクは千尋に湯屋「油屋」で働くよう指示する。人間がこの世界で生き延びるためには油屋を支配する魔女・湯婆婆(ゆばーば)に仕事をもらうしかない。働く意志を持たないものは両親のように豚にされるか、消されてしまうのだ。千尋は油屋の地下にあるボイラー室で釜爺の仕事を手伝った後、湯婆婆に会い、湯女として働くことを許される。名前は千に変えられた。これまで両親の庇護のもとで暮らし、何もできなかった千尋は先輩のリンやハクに助けられて懸命に働く。ヘドロをだらだらと流しながら歩く河の神オクサレ様にうまく対応し、自分を持たないカオナシの乱暴を止めたことで、周囲の理解を得られるようになる。

働かなければ生きていけないというのは現実社会の単純な真理だ。宮崎駿は物語に現実を反映させているのだが、それだけでなく、この物語にはさまざまな寓意が込められている。オクサレ様やカオナシ、湯婆婆、その息子で巨大な赤ん坊・坊も含めてキャラクターは単純な善でも悪でもない。環境によってキャラクターは善にでも悪にでもなれるという描き方には極めて説得力がある。そして豊かなイマジネーション。様々な神々の姿、細部の凝った作りには圧倒される。ファンタジーに不可欠の異世界の見事な構築がこの映画にはある。映画は後半、湯婆婆の姉・銭婆(ぜにーば)によって傷ついたハクを助けるため、そして両親を人間に戻し、元の世界へ帰るために奔走する千尋を描く。千尋は何の力も持たない普通の少女だが、そのキャラクターはコナンやルパンやナウシカなど宮崎駿の映画の主人公と共通するものだ。観客の胸を熱くさせる懸命な姿、一途な思い。これが映画を引っ張っている。

映画の構成は異世界への迷い込みと、そこからの帰還という閉じたものだから、自然とプロットの完成度は高くなる。しかし、この密度の濃さには恐れ入る。立派な作品であるにもかかわらず、どこか息苦しかった「もののけ姫」とは異なり、ユーモアも随所に挿入される。優れた物語が持つ普遍性と観客の心をつかんで放さない魅力をこの映画は備えており、例を見ない大ヒットは当然のことと納得できる。

【データ】2001年 2時間5分 配給:東宝
監督:宮崎駿 製作総指揮:徳間康快 原作:宮崎駿 脚本:宮崎駿 音楽:久石譲 作画監督:安藤雅司 美術監督:武重洋二 プロデューサー:鈴木敏夫 主題歌:木村弓「いつでも何度でも」
声の出演:柊瑠美 入野自由 夏木マリ 内藤剛志 沢口靖子 我修院達也 神木隆之介 玉井夕海 大泉洋 はやし・こば 上條恒彦 小野武彦 菅原文太

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