敦煌
昭和49年、徳間書店社長の徳間康快が大映の新社長に就任する際の記者会見で「井上靖の『敦煌』を映画化する」と発表したそうだから、“構想15年”というのはまんざら嘘ではない。もっとも、この時には映画化権もなく、資金もスタッフ、キャストなど何も決まっていず、単なる社長の希望に過ぎなかった。その後、幾多の紆余曲折を経て、製作費45億円をかけた日合作映画として「敦煌」は完成した。キネマ旬報にその過程が連載されていてとても面白いが、それは映画の出来とは何ら関係ない。果たして出来上がった作品は唖然とするほど、つまらなかった。こんなものを見せて金を取るのは、犯罪ではないかと思う。
1026年、主人公の趙行徳(佐藤浩市)が、ある日、宋の都で新興国・西夏の女と出会ったことから物語は始まる。女のたくましさと西夏の文字にひかれた行徳は、シルクロードに旅立つが、途中、西夏の外人部隊に捕らえられる。その中で戦闘を繰り返しながら、王族の娘と恋に落ち、西夏の文字を学び、そして戦火にさらされた敦煌の莫大な経典を必死に守りぬくのだ。もともと「敦煌」という小説は、この莫大な経典が洞窟の中から発見されたことにヒントを得て、原作者が偶像力を働かせて書いたもので、時代背景などは歴史に忠実であっても、物語自体はまったくのフィクションである。まあ、だから原作と離れて、スペクタクルに撤しても悪くはない。だが、スペクタクルを撮る才能のない監督が、それをやろうとすると目も当てられぬことになる。
映画の前半の戦闘シーンには、エキストラ10万人、馬4万頭、ラクダ5000頭が投入されたそうだが、佐藤純弥の演出にはまるで迫力がない。どの戦闘シーンもカメラはロングで全景を撮ってからアップに切り替えるという単一の方法で、工夫が何もない。僕は黒沢明の「乱」を思い浮かべてイライラした。「乱」はたしかこの映画の半分くらいの製作費だったと思うが、その疾走感、映像の密度は他に例を見ない素晴らしさだった。黒沢ならこの砂漠の中での戦闘をはるかにうまく撮っただろう。いや、黒沢でなくとも、例えばこの映画の監督候補に上がっていた深作欣二でもいい。香港のアクション映画の監督でもいいだろう。このだらしのないアクション−敵か味方かが判然としない撮り方、観客にいらだちを覚えさせるようなくだらない映像、貧困な演出を決してしない監督はたくさんいる。
このヘタな戦闘シーンに力を入れたがために、肝心のドラマの方が盛り上がりを欠く結果になってしまったのは、本当にお気の毒である。盛り上がりというのも適当ではないかもしれない。ここにはドラマと呼 ぶべきものは何もない。ストーリー・テリングが大ざっぱで映画のトーンは極めて単調、極めて退屈である。
壮大な失敗作という言い方がある。しかし、これは例えばコッポラの「地獄の黙示録」のような作品に対して用いるべき言葉であって、「敦煌」の場合は壮大さすら感じさせない単なる失敗作に過ぎない。徳間社長はこの映画を作るために、中国との友好や日本での中国映画の上映に大きな貢献をしてきた。それには敬意を表するけれど、その到達点がこの程度の作品であっては、あまりにも情けない。45億円の巨費は砂漠に吸い込まれる水のように、跡形もなく消えてしまった。大映は、また倒産するのではなかろうか。(1988年5月号)
【データ】1988年 2時間23分 配給:東宝
監督:佐藤純弥 製作総指揮:徳間康快 製作:武田敦 入江雄三 原作:井上靖 脚本:佐藤純弥 吉田剛 撮影:椎塚彰 音楽:佐藤勝
出演:西田敏行 佐藤浩市 三田佳子 新藤栄作 中川安奈 柄本明 原田大二郎 渡瀬恒彦 田村高広