It's Only a Movie, But …

シネマ1987online

光る女

気のいい大男というと、僕はすぐにレイモンド・チャンドラー「さらば愛しき女よ」の大鹿マロイを思い浮かべてしまい、それだけで作品に対する評価を甘くしがちである。この相米慎二監督の新作「光る女」の主人公・仙作(武藤敬司)も“キングコング”と評される野人みたいな大男。それが東京に出たまま帰らない婚約者を捜しに、北海道から上京してきたという設定だから、好意的に見てしまうのは仕方がない。実を言えば、冒頭の場面で“光る女”こと芳乃(秋吉満ちる)が夢の島でオペラを歌っているのには、「難解な映画なのではないか」と警戒したのだけれど、ストーリーはまったくのメロドラマ、あるいはラブストーリーであって、とても面白く見させてもらった。

ただ、ストーリーはメロドラマであっても、相米監督はストレートには作っていない。ドラマの至る所にさまざまな要素を散りばめており、それが例えば、フェリーニ的なナイトクラブであったりするものだから、映画評も一筋縄ではいかないことになる。恐らく小檜山博の原作は、ストレートな話なのだろうと思う。その枝葉末節になぜごたごたと、過剰な描写を付けるのか、僕にはよく分からない。この過剰な描写がストーリーに何らかの効果を与えているのかと言えば、全然ないとは言わぬまでも、それほどの効果は挙げていないのだ。むしろ、ドラマの盛り上がりを排除する方向にそれは働く。映画なり、小説なりの細部は本筋を引き立てるためにのみ存在するはずのものだろう。“神は細部にこそ宿り給う”という言葉はそれを踏まえたものだと思う。それがここでは、まったく正反対の役割なのである。

で、そのことが僕は嫌だったとかというと、そうではない。紙一重で浪花節になりそうな話を、細部が本筋に対抗することで救っているからである。映画のタッチが渇いているのもそのためだ。

仙作が捜していた婚約者・栗子(安田成美)は、スナックのホステスをしており、ナイトクラブの経営者・尻内(すまけい)の情婦でシャブ中毒にもなっている。家を出た妻を捜しにやはり北海道から東京に出てきた赤沼(出門英)はナイトクラブでおかまショーを演じ、体をこわし、結局、新宿西口のバスの中で焼身自殺する。歌えなくなった歌手・芳乃は仙作と出会ったことで、歌えるようになる。つまり、都会に押しつぶされた人間の悲劇とか愛の力とか、題材は極めてありふれたことで、それをそのまま描いては見ている方が気恥ずかしくなる。いや、こういう題材を非常にうまく作る監督ももちろんいるが、相米慎二はそれを別の方法で撮ったのだ(意図的かどうかは疑わしいにしても、結果的にはそうなっている)。キネ旬979号で映画評論家の田山力哉さんが、それを“持って回った”撮り方と批判しているのだけれども、僕はそういう方法があってもいいと思う。

基本的には、贅肉を削ぎ落とし、夾雑物を排した映画が僕は好きだ。しかし、例外はある。「光る女」は数少ない例外の1本であり、昨年のうちに見ていたら、きっとベストテンに入れていただろう。英語なまりが気になるが、秋吉満ちるがとてもよかった。(1988年3月号)

【データ】1987年 1時間58分
監督:相米慎二 製作:羽佐間重彰 大川功 矢内広 山本洋 入江雄三 宮坂進 原作:小檜山博 脚本:田中陽造 撮影:長沼六男 美術:小山富美夫 音楽:三枝成章
出演:武藤敬司 秋吉満ちる 安田成美 すまけい 出門英 中原ひとみ 児玉茂

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