It's Only a Movie, But …

シネマ1987online

火垂るの墓

昭和20年9月21日夜、僕は死んだ−。神戸三宮駅構内で、14歳の浮浪者清太が死ぬ。映画はこの清太の幽霊が回想する形で、4歳の妹・節子と清太自身が力尽きて死ぬまでを痛切に描く。幽霊の回想とは珍しい。映画を見た後に原作を読んだが、幽霊など出てこない。高畑勲はなぜこんな手法を用いたのか。それは物語が終わったあとに挿入されるラスト・ショットで明らかになる。清太と節子の幽霊が小高い丘の上からから、現在の神戸の街、ビルのネオンに光り輝く街を見下ろすショット。高畑勲はこの映画を単なる“お涙ちょうだいもの”にしたくなかったのだ。戦後生まれの世代に、この物語がはるか昔の、自分たちには関係のない話と受け取ってもらいたくなかったのだと思う。現代に通じる話であることを強調するために、どうしてもこのラスト・ショットは必要だった。だから原作にはない手法を取り入れたのである。

原作は、実際に1歳4カ月の妹を栄養失調で亡くした野坂昭如の体験を基にしている。ただし、これは30数ページしかない。高畑勲は原作を忠実にたどりながら、それを膨らませ、細部を情感たっぷりに、そして丹念に描き込んでいる。特に何度も登場する食事の場面が秀逸である。白いご飯、雑炊、サクマのドロップ、カルピス、梅干し、バター、乾パン、トマト、大豆入り雑炊、タニシ…。「いろんな味がするわあ」と言って、ドロップの缶に水を入れて飲む節子。家族にだけ白米の弁当を持たせるおば。機銃掃射を避けて、もぐりこんだ植え込みにトマトを見つけてかじりつく清太…。そのどれもが物語と密接につながっている。空襲で家と母親を亡くし、遠縁のおばから冷たい仕打ちを受けて、2人で生きてていかねばならなかった兄妹にとって、とにかく食べることが何よりも切実な問題であったことが、これで実感できる。

僕はこれほど豊穣な描写のある作品を、最近の日本映画でほかに知らない。実写の映画がどこかに忘れている細部の描写がここにはあり、それが十分な効果を上げている。アニメ、実写の枠を超えた傑作だと思う。戦争中に少年少女時代を送った世代にとって、これはたまらない映画だろう。きっと高畑勲にも原作に対してそういう切実な思いがあったのに違いない。作画、構成、声優(特に子役)、アニメーティングなどすべてにわたって恐ろしく完成度が高い。

しかし、とここで言っておかなければならない。しかし、なぜ今、「火垂るの墓」なのか。ラスト・ショットで現代につなげようとする意図は分かるのだが、この悲惨な話と現代の日本とがどのようにつながるのか、僕にはよく分からない。戦争が2人を死に追いやったとはいえ、反戦を訴えているわけではない。現代日本の繁栄の陰にこうしたかわいそうなエピソードがあった、などという安易なことが言いたかったのでもあるまい。ホタルのようにはかない命の灯を散らした兄妹の話は、あまりにもあの時代で完結しすぎている。

キネ句983号の「『火垂るの墓』と現代の子供たち」と題する高畑勲の文章は、そうした疑問に対するひとつの回答になるかもしれない。「清太のとったこのような行動や心のうごきは、物質的に恵まれ、快・不快を対人関係や行動や存在の大きな基準とし、わずらわしい人間関係をいとう現代の青年や子どもたちとどこか似てはいないだろうか。…家族の絆がゆるみ、二重三重の社会的保護ないし管理の枠にまもられている現代。…戦争でなくてもいい、もし大災害が襲いかかり、相互扶助や協調に人を向かわせる理念もないまま、この社会的なタガが外れてしまったら、裸同然の人間関係のなかで終戦直後以上に人は人に対し狼となるに違いない。…戦後40年を通じて、現代ほど清太の生き方死にざまを人ごととは思えず、共感しうる時代はない」

しかし、僕にはこうした悲しすぎる結末は耐えられない。その救いの意味も込めて、高畑監督は2人の幽霊を登場させ、ファンタスティックな効果を持たせたのだろうが、これは基本的には逃げではないだろうか。幽霊を出したことによって、原作にある、一種の潔さを映画はなくしている。それは個的な体験を基にした小説を、現代と強引に結びつけたことによって生じた破綻と言えはしまいか。

映画を見ながら、僕は何となく小栗康平の「泥の河」を思い浮かべていた。あの映画もハッピーエンドではなかったが、悲しさだけではないプラス・アルファの部分があった。それは主人公の成長であったと思う。宿舟の親子に出会い、別れたことで、主人公は確実に大人への階段を踏み出した。人生の厳しさも学んだ…。広がりのあるラストだったと思う。 「火垂るの墓」は聞違いなく、今年これまでに公開された日本映画のベストだと確信するが、僕にはどうしてもわだかまりが残る。この映画が悲しい話だとだけ受け取られてしまっては、結局“お涙ちょうだいもの”としての機能しか果たさないことになるのではないか。あのラスト・ショットに説得力を持たせる何かが必要だったのではないだろうか。(1988年5月号)

【データ】1988年 1時間30分 新潮社
監督・脚本:高畑勲 原作:野坂昭如 キャラクターデザイン・作画監督:近藤喜文 美術:山本二三 音楽:間宮芳生
声の出演:辰巳努 白石綾乃 志之原良子 山口朱美 端田宏三 酒井雅代 野崎佳積 松岡与志雄

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