「パレード」

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「パレード」パンフレット予告編からはスリラーのような印象を受けた。それが先入観としてあったので、いつまでたってもスリラータッチにならないなと思いながら見ていた。だから、実はこれが行定勲監督作品としては「きょうのできごと」に連なる映画であることに気づくまで1時間近くかかった。「ロックンロールミシン」と合わせてモラトリアム3部作なのだそうだ。しかし、映画はやはりスリラーとして、予告編とは違う意味でのスリラーとして着地する。

映画を見た後に、家にあった吉田修一の原作を読んでみたら、解説で作家の川上弘美が「こわい、こわい」と繰り返していた。監督自身はこの映画について「青春映画のふりをした恐怖の映画」としている。大学生の日常を描いた「きょうのできごと」は最後までほんわかした映画だったが、この映画には正反対の怖さがあるのだ。同じように若者の日常を描きながら、緩やかな人間関係の根底にある不条理な恐怖が浮かび上がるラストが秀逸だ。

2LDKのマンションで男女4人が共同生活をしている。4人の間に恋愛のような濃い関係はない。いつでも出て行けるという安心感のある共同生活であり、それぐらい緩やかなつながりである。当人たちはこの生活の在り方を「インターネットのチャットや掲示板のような」と、たとえる。これは少し分かりにくい表現だが、要するに本音を隠して付き合っているということだろう。マンションには男部屋と女部屋があり、男部屋には伊原直輝(藤原竜也)と杉本良介(小出恵介)、女部屋には大河内琴美(貫地谷しほり)、相馬未来(香里奈)が住む。住人が集う居間がチャットルームのような在り方になるわけだ。そこに「夜のオシゴト」をしてるらしい小窪サトル(林遣都)が転がり込んでくる。マンションの近所では連続暴行事件が発生していた。というシチュエーションの下、物語は5人の視点で描かれていく。

映画は原作に忠実だが、怖さの質は少し異なる。ラストの処理で一歩踏み込んでいるのだ。原作が描いているのは映画のレイプシーンばかりを集めたビデオテープをテレビドラマ(原作では「ピンクパンサー2」のアニメ)を上書き録画するシーンが象徴している。水面下にある醜悪な現実を見ないで付き合う関係の怖さ。登場人物の1人はラストでそれに気づき、慄然とする。映画はそこから踏み込み、そうした表面的な人間関係から逃れられない怖さをラストに持って来た。「行くよね」。無表情に1人がつぶやくセリフが怖い。彼らの関係は非日常的なことが起こっても壊れない。いや壊さない暗黙の了解があるのだ。

個人的にはもっともっと不条理な展開が好きなのだが、日常生活にある不条理さを浮かび上がらせるにはこれぐらいの方がいいのかもしれない。若手俳優5人がそれぞれに好演している。小出恵介と林遣都は昨年の「風が強く吹いている」とは正反対の役柄ながら、逆にそこがいい。「GO」では感心したのに、「北の零年」では才能ゼロとしか思えなかった行定勲は若者を描いた映画に本領を発揮する監督なのだと思う。

「涼宮ハルヒの消失」元の世界に帰るヒントはダン・シモンズの傑作「ハイペリオン」に挟まれた栞に書いてあった。「涼宮ハルヒの消失」というタイトルながら、実際には主人公の男子高校生キョンが改変された世界に放り込まれる話だ。こういうケースの場合、普通はパラレルワールドで説明することが多いが、映画は別の説明を用意している。きっちりと作ったSFという印象を持った。

2時間43分という長いアニメで、原作はどれほど長いのかと思ったら、文庫で250ページしかない。映画がこんなに長くなったのは小説の地の文を主人公のモノローグ(あるいはナレーション)として使っているからだろう。ゆったりと饒舌に進む話が急展開する場面など心地よいのだけれど、もう少し短くできたのではないか。正直に原作通りに作った映画なのだと思う。ただ、この映画化の仕方は悪くない。アニメとして驚くような技術も物語上の新機軸もないが、きちんと作ったところに好感が持てるのだ。

原作は谷川流のライトノベル。テレビシリーズを受けた映画化なので、基本的にはファン向けの作品なのだろう。涼宮ハルヒをはじめSOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)のメンバーがどんな能力を持っているかは一般観客には初めはよく分からないが、宇宙人(というか、宇宙人が作ったアンドロイド=長門有希)であったり、未来人(朝比奈みくる)であったり、超能力者(古泉一樹)であることは見ているうちに分かってくる。クリスマスを控えたある日、主人公キョンの周囲に不思議な出来事が起こる。昨日まで元気だったクラスメート谷口は風邪を引き、昨日も調子悪かったと言う。クラスの他の生徒にも風邪が蔓延していた。しかも、キョンの後ろの席にいるはずの涼宮ハルヒが消えていた。クラスのみんなはハルヒなんて知らないと言う。ハルヒ代わりにいたのはかつてキョンを殺そうとした朝倉涼子だった。古泉がいるはずの1年9組はなくなっている。SOS団が占拠していた文芸部の部室には長門がいたが、キョンのことを覚えていない。いったい何が起こっているのか。

抑揚のないセリフ回しの長門有希の立ち位置はエヴァンゲリオンの綾波レイに似ている。このほか、ハルヒやみくる、浅倉など登場する女子高生キャラは男子高校生を萌えさせるに十分なかわいらしさ。それだけではなく、ストーリーがしっかりしていることが人気の秘密なのだろう。

ちなみに原作ではヒントが挟まれていた本は「SF大長編の第1巻」とあるだけで題名はない。ハイペリオンシリーズは「ハイペリオン」「ハイペリオンの没落」「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」の全4作(文庫では全8巻)だから大長編というほどではないが、これを選んだのは脚本に協力している原作者か脚本家か。

「タイタンの戦い」特撮の巨匠レイ・ハリーハウゼンが担当した1981年の同名作品(デズモンド・デイヴィス監督)のリメイク。旧作は見ていない(公開当時の評判は良くなかった)が、「アルゴ探検隊の大冒険」などハリーハウゼンの一連のダイナメーションにはやっぱり驚いた経験がある。有名な骸骨と人間の戦いなどは作り物であることが見え見えであっても、それを長時間かけて実現した作りの苦労自体が感動の源になっているのだ。今回の新作は出てくる怪獣・怪物たちがCGで描かれているにもかかわらず、巨大サソリと人間の戦いの場面などに不自然さを感じる(わざとそうしたという説もある)。人間の俳優が絡む場面はいくら技術が進歩しても難しい部分があるのだろう。これを回避するにはフルCGで描けばいいが、それではアニメと変わらなくなる。

とはいっても、この映画、VFXは全般的に水準を保っており、特にクライマックスに登場する巨大なクラーケンの造型などは面白く、なかなか全貌を見せない撮り方も良い。蛇女メデューサの動きの速さはダイナメーションでは表現できない部分だろう。「トランスポーター」「インクレディブル・ハルク」のルイ・ルテリエ監督だけにアクション場面にも抜かりはない。だが、平凡な印象が抜けきらない。同じくデミゴッド(半神)が主人公でメデューサが登場した「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」に比べれば面白く見たが、物語の部分がダイジェストにしか思えないのだ。いくらCGが進歩しようと、ドラマをしっかり組み立てなければ映画は面白くならないというのをあらためて感じさせられる作品と言える。

主人公のペルセウス(サム・ワーシントン)は全能の神ゼウス(リーアム・ニーソン)とアルゴス国の前王妃との間に生まれたデミゴッド。怒った前国王に母親とともに海に流されたところを漁師に助けられて成長する。ゼウスは兄で冥界の神ハデス(レイフ・ファインズ)の提案を受け、神に戦いを挑んだ傲慢な人間たちを懲らしめることを決める。ハデスは現在のアルゴス国王に10日後に海の怪物クラーケンを放ち、国を滅ぼすと宣言。それを回避するには王女アンドロメダ(アレクサ・ダヴァロス)を生け贄に捧げなくてはならない。育ての親をハデスに殺されたペルセウスはアンドロメダを助けようと、クラーケンの退治法を探るため魔女のもとを訪れる。

映画が今ひとつの出来に終わったのは育ての親を殺されたペルセウスの怒りがあまり伝わってこないからか。ルイ・ルテリエの演出はエモーショナルな部分に弱さを感じる。型どおりの演出なので、情感が高まらないのである。主演の「ターミネーター4」「アバター」のサム・ワーシントンはこうしたVFX大作にすっかりなじんできた感がある。特にハンサムとも思えないのに引っ張りだこなのが不思議だが、この映画でも可もなく不可もなしのレベルの演技を披露している。

「第9地区」

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district9.jpg 主人公ヴィカス・ファン・デ・メルヴェ(シャルト・コプリー)が第9地区でエイリアンの謎の黒い液体を浴び、徐々に肉体がエイリアン化していく過程を見て、まるで塚本晋也「鉄男」のようだと思った。「鉄男」はホラーだったが、「第9地区」は社会派の要素も取り込んだSFエンタテインメント。難民キャンプに押し込められた180万のエイリアンたちは人種差別や難民差別を容易に思い起こさせる。

この構成はエイリアンの科学者への弾圧をユダヤ人迫害に見立てた1980年代のテレビドラマ「V」の例もあるので、目新しいとは言えないし、これがテーマかと言えば、むしろエイリアンと地球人の相互理解と交流の方が中心になっていて、それならば、過去の映画にたくさんの例があるなと思うのだが、過去のSFの模倣に終わらせず、さまざまな要素を独自の物語の中に溶け込ませている点が良く、きっちりと作っている点に好感を持った。枝葉末節にオリジナルな部分は少ないにもかかわらず、全体としてはとてもオリジナリティーを感じる作品だ。

クライマックスに活躍するパワードスーツが超国家機関MNU(マルチ・ナショナル・ユナイテッド社)の傭兵から大量の銃弾を浴びせられて倒れるシーンは「ロボコップ」を思い起こさせ、実写のパワードスーツと言えば、「エイリアン2」のパワーローダーが嚆矢だよなと思っていたら、監督のニール・ブロムカンプはSF映画のファンであり、好きな映画の中にこうした作品も入っているそうだ。ついでに言えば、倒れたパワードスーツがプシューっと開き、中の人間が顔をのぞかせるシーンの呼吸は「パトレイバー」や「攻殻機動隊」など日本製のロボットアニメの数々を参考にしたのに違いない。監督自身は「攻殻機動隊」と「アップルシード」の影響を認めている。

そうした過去の映画のエッセンスを31歳のブロムカンプは血肉にしているのだろう。次作は大量のロボットが登場する映画ということを聞けば、架空のニュース映像で構成される序盤は「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」や「クローバーフィールド HAKAISHA」などPOV(ポイント・オブ・ビュー)の映画ではなく、これまた「ロボコップ」の方が頭にあったのかもしれないなと思う。ヨハネスブルグ上空に浮かぶ巨大な宇宙船の光景はとてもシュールだ。そのシュールさ、日常の中の非日常にリアリティーを持たせるためのニュース映像の手法なのだろう。

エイリアンたちは強力な武器を持っているが、DNAが合致しないと動作しないため人間には操作できない。体の一部がエイリアン化したヴィカスにはそれが可能なため、ヴィカスを巡る争奪戦がメインプロットになる。争奪に加わるのは軍事企業の側面を持つMNUと、第9地区に住むナイジェリア人のギャングたち。恐ろしいことにヴィカス個人の命など何とも思ってない非情な連中である。スラム化した猥雑な第9地区を舞台に中盤からは三つどもえのアクションに次ぐアクションとなる。序盤がやや退屈なのは中盤以降の展開に説得力を持たせるタメの部分だからなのだろう。28年間、静止していた宇宙船がついに動き出すクライマックスとヴィカスの運命。さまざまな問題点を残したまま映画は終わり、続編に期待を抱かせる。

ブロムカンプの本当の評価も次作の出来がカギを握るだろうが、SF好きの監督が出て来たことはSFファンとしてはとても嬉しい。

「花のあと」

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hananoato.jpg いくらなんでも以登(北川景子)の表情の乏しさは欠陥以外の何ものでもないだろうと最初は思った。表情や感情に乏しいのは以登が剣の試合で一瞬心を通わせる江口孫四郎(宮尾俊太郎)も同様で、人なつっこい笑顔を見せ、表情豊かな片桐才助(甲本雅裕)が登場してからは、なおさらこの2人の演技の未熟さが目立ってしまう。しかし、同時に2人の純情さ、若さゆえの一途さが浮かび上がることにもなっている。

この一途な2人に比べると、食欲旺盛でやや下品な片桐は当初、俗物にしか見えないのだが、映画が肯定しているのはむしろ、片桐の姿にある。物事の判断が大人であり、懐が広い。片桐は人間的な幅の広い魅力を備えていることが徐々に分かってくるのだ。ラストのナレーションで片桐が筆頭家老にまで上り詰めたことが言及されるが、確かにそれにふさわしい人物のように描かれている。表情に乏しかった以登がラストで満開の美しい桜を見限って片桐の方を向き、初めて笑顔を見せるのは、だから当然なのだろう。以登は一瞬の恋心を経て、人間の本質と本当の愛を知ることになるのだ。それを考えると、生硬と言いたくなる北川景子の演技も中西健二監督の計算のうちだったのではないかと思えてくる。

藤沢周平の短い原作は以登と孫四郎の関係が中心である。「恋などというものは、そなたらが夢みるようにただ甘し、うれしのものだけではないぞや。いっそ苦く、胸に苦しい思いに責めらるるのが、恋というものじゃ」。映画にもあるこのナレーション通りに、女剣士以登と羽賀道場で一番の使い手である孫四郎の一瞬の恋の行方を描いている。原作の以登は美人とは言えず、容貌を気にしている。孫四郎もハンサムな男ではない。美男美女をキャスティングした映画はまずそこから作りを変えており、それもまた片桐の魅力を強調するためだったのではないかと思う。

打ち合っているうちに、以登はなぜか恍惚とした気分に身を包まれるのを感じた。身体はしとどに濡れ、眼がくらむような一瞬があったが、その一瞬の眼くらみも、不快感はなくてむしろ甘美なものに思われた。照りつける日射しのせいだけではなかった。どうしたことか、身体は内側から濡れるようであり、恍惚とした気分も、身体の中から湧き出るようである。

孫四郎との試合で原作の以登はこういう高ぶりを覚える。桜の下で声をかけられ、孫四郎と試合がしたいと思った以登の気持ちは実は孫四郎を恋する気持ちだったわけだから、それが成就したことの高揚感がこうなるのは実に理にかなっている。映画はこれを「俺たちに明日はない」のボニーとクライドのように視線を交わす2人に象徴させている。これはうまい場面だ。このほか、原作の行間を埋め、細部を膨らませた脚本は良い出来である。

しかし、この映画の成功がそれ以上に甲本雅裕の存在にあるのは間違いない。初めは眉をひそめたくなるような振る舞いがそのうちに思わず微笑みたくなってくる。以登や孫四郎のように一直線の人間にはないぬくもりが感じられて好ましいのである。映画を支えるしっかりした演技だと思う。

「ハート・ロッカー」パンフレット イラク戦争の爆発物処理班を描いたサスペンス。アカデミー作品、監督、脚本賞など6部門を制した。それだけではなく、ロサンゼルス、ニューヨーク、ボストンと全米の批評家協会が作品賞を与えた。アメリカ国内では高い評価を受けている。では、これが傑作かと言うと、映画の技術に限れば、という条件が付くことになる。爆弾処理という狭い範囲を完璧に作っただけで描かなかったものの方に重要なものがあるのだ。

キネ旬の特集記事によれば、イラク戦争の映画はことごとくアメリカの観客に受け入れられなかったが、この映画だけは受け入れられたそうだ。それも当然の内容と思う。戦争の意味に目をつぶり、米軍内の、それも爆発物処理だけを描いて何の意味があるのかと思う。これならば、アメリカ侵略主義への批判を内包した「アバター」の方がまだ志は高い。定点観測をすることで、全体の問題を浮き彫りにする手法はあるのだけれど、この映画の場合それもない。批判精神に欠けた、ただのエンタテインメントに近い映画であり、ある意味、イラク戦争肯定映画的な内容と言っていい。だから米国民ではない我々としては見ていて不満がむくむくと頭をもたげてくるのである。

キャスリン・ビグローにとってはメルトダウンの危機に瀕したソ連の原子力潜水艦乗組員を描いた「K-19」から7年ぶりの監督作品。狭い範囲を描く手法は「K-19」と同じなのだが、アメリカがイラクで行ってきたことを思えば、この手法では物足りなくなる。ふと思い浮かべたのはマイケル・チミノ「ディア・ハンター」で、あれもベトナムの民族解放戦線をまともに描いていなかった。あの映画の場合、米国内でも批判が噴出したのだが、今回、それがないのはイラク戦争がベトナム戦争よりまだ短い期間だからか。あるいは慎重に批判を封じるような作りになっているからか。描かなかったことに対する批判はできても、少なくともこの映画に描かれたことに重大な間違いはないのだろう。

2004年夏、イラクのバグダッド郊外が舞台。主人公はブラボー中隊に配属されたウィリアム・ジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)。これまでに873個の爆弾を処理してきたベテランだ。映画は冒頭、防護服を着た爆弾処理兵が爆風に巻き込まれて死ぬ場面を見せる。防護服を着ていたからといって、安全ではないのだ。中隊は次々に爆発物を処理し、その緊張感と危険が十分に描き出されていく。中盤、800メートル離れた敵の狙撃手との行き詰まる攻防のシーン(見ていて「山猫は眠らない」を思い出した)などにビグローの演出は冴え渡る。女性監督なのに男っぽい演出に長けた監督である。この人、恋愛映画など軟弱な映画は撮ったことはなく、いつも題材は男っぽい。そしていつもエンタテインメントだ。シーンを的確に撮ることは得意だが、社会派的な題材の処理には慣れていないのだと思う。

「戦争は麻薬と似ている。一度味わうとクセになる」という冒頭の字幕に呼応する行動を主人公は取る。問題はどこが麻薬と似ているかを十分には描いてくれなかったことだ。死と隣り合わせの戦場に麻薬に似た快楽を覚える変わった兵士も中にはいるかもしれない。しかし、大部分にとっては恐怖以外の何ものでもないだろう。それを麻薬と言い切る内容は映画では描かれなかった。どこか歪な印象を受けるのはこうした映画の作り自体に無理があるからではないか。

「ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ」パンフレット テレビシリーズは一切見ていない。見ていなくても分かる作りになっていて、そこには好感を持った。テレビシリーズの最終回を映画でやるというのは最初からテレビの視聴者だけを相手にした映画になりがちだけれど、それを避けたのは賢明だった。

なぜテレビを見ていなくても分かるのかと言えば、映画で描かれる決勝戦(ファイナルステージ)は独立したゲームだからだ。ゲームの参加者11人が3色のリンゴを投票するだけの「エデンの園」と呼ばれるこのゲームは、単純だがよく考えてあって、ツイストの連続。ゲームが1回終わるたびに意外な結果が現れ、登場人物がその種明かしをするという構成になっている。脚本は20稿に及んだそうだ。穴を防ぎ、つじつまを合わせるために脚本家の2人(黒岩勉、岡田道尚)は相当考えたに違いない。

この脚本の練り方は評価に値する。ただし、、どうも見ていて小粒だなという印象になってくる。ゲームのような犯人捜しだけの本格ミステリは欧米ではとっくに廃れ、もっと現実に近づいたミステリがほとんどだ。ツイストにツイストを重ね、高い評価を受けているのはジェフリー・ディーヴァーぐらいか。この映画の場合、ゲームそのものが主体なので、そうした批判は当たらないし、騙し合いのゲームの中で人を信じるというテーマも備えているのだけれども、やっぱり物足りない思いは見ていて消しようがない。ゲームの中の心理戦に過ぎず、小さなところでごちゃごちゃやってる印象になってしまうのである。見ていてこういう練った脚本の在り方をゲームの外に持ち出して欲しいと思えてくる。実社会を舞台にしたゲームになれば、金子修介「デスノート」のように面白い映画になっていたかもしれないなと思う。

セミファイナルでゲームを降りた神崎直(戸田恵理香)にファイナルステージの招待状が来る。1人が棄権したために直に出番が回ってきたのだ。直は天才詐欺師・秋山(松田翔太)の足手まといになりたくなかったが、今回のゲームは人を信じることが要求されると聞き、秋山を助けるためにゲームに参加することになる。参加者は11人。ゲーム「エデンの園」は金、銀、赤の3色のリンゴを投票し、最も数が多かった色のリンゴに投票した者には1億円が支払われる。全員が赤を選べば、全員が1億円を受け取ることになり、敗者はいなくなるが、ゲームに勝って賞金50億円を目指す参加者たちは1回目から裏切りに裏切りを重ねていく。

舞台の孤島をもっと話に絡めて欲しいとか、悪役側をもう少し描けよ、とかいろいろ不満はある。しかし参加者11人にそれぞれスポットを当てながらもキャラクターがやや類型的になり、厚みを欠いていることが水準作ではあるけれどもそれ以上の作品にはならなかった一番の理由ではないかと思う。

監督は映画初演出の松山博明。戸田恵理香はバカ正直な主人公にぴったり。松田翔太も雰囲気が良い。映画に登場するゲームの進行役ケルビムは「SAW」のジグソウに影響を受けているのは明らかだろう。映画全体の作りも影響を受けていると思う。

Paranormal 撮影期間7日間、製作費1万5000ドル(135万円)の映画が全米興収1億ドル(90億円)以上のヒットとなった。と聞けば、興味がわくが、内容は本当に大した事はなく、おまけにまったく怖くなく、これがなぜ大ヒットしたのか疑問を感じるばかり。上映時間1時間26分(1時間39分版もあるようだ)の映画だが、20分程度にまとめられるような内容だ。そうしておけば、短編映画として傑作になったかもしれない。アイデアが短編なのである。ビデオカメラのPOV(ポイント・オブ・ビュー=主観)映像で撮影された映画としては先行する「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」「クローバーフィールド HAKAISHA」「REC/レック」には遠く及ばない。この映画のヒット自体が幸運に恵まれたパラノーマル・アクティビティ(超常現象)のように思えてくる。監督・脚本・製作・編集のオーレン・ペリはイスラエル出身で、これが初監督作品という。

ケイティ(ケイティ・フェザーストーン)とミカ(ミカ・スロート)が暮らす家に何かがいる気配がする。それをビデオカメラに収めようとするのが物語の発端。2人は寝室にビデオカメラをセットし、寝ている間も撮影を続ける。そのビデオには不気味な物音がしたり、ドアが風もないのに閉じたりという不思議な現象が映っていた。怪異現象は次第にエスカレートしてくる。ケイティは子どもの頃から、こうした現象に脅かされており、家自体が原因ではないようだ。

というのが設定であり、物語のすべてである。ポルターガイスト現象を描いた21日間の物語で、幽霊の専門家が出て来て、「これは悪魔の専門家に任せた方がいい」とさじを投げる場面があったりするが、それ以外はカップルと怪異現象の描写が続くだけに終わる。怪異の正体がまったく出てこなかった「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」には不満を覚えたのだけれど、恐怖の醸成という点ではいい線行っていたと思う。あれは森の中に迷い込む恐怖が含まれていたからだろう。この映画の場合、普通の家(撮影した家はペリ監督の自宅だそうだ)の中で起きる現象のため、何かあったら逃げればいいじゃんと思えてくるのだ。

もちろん、ケイティ自身に原因があるようだから、逃げても無駄なのだが、怪異以外の恐怖の要素が皆無なのは「ブレア…」に比べると弱いと思う。怪異現象によってあのカップルの人間関係がズタズタになるとか、そういう追い詰められた人間を描くような部分が必要だったのではないか。ホームビデオの映像にはリアリティを感じ、効果を上げていると思う。ただし、この手法も独自のものとは言えないのが辛いところだ。

ラストはスピルバーグの助言で撮り直したという。オリジナルはどうなっていたのか気になるが、確かにこういうラストでなければ、観客は納得しなかっただろう。ちなみにこの映画、続編が決定し、公開日も今年10月22日に決まっている。なのにまだ監督が決まっていないという、普通のアメリカ映画では考えられないようなスケジュールである。7日間で撮影が終わった映画の続編なので、大丈夫なのだろう。続編では怪異の正体をたっぷりと描いてほしい。そして続編にも出るのなら、主演のフェザーストーン、10キロほど減量した方がいいと思う。

「ゴールデンスランバー」パンフレット 「雅春、ちゃちゃっと逃げろ」。一向に敵の見えない展開で主人公の必死の逃亡だけが続き、工夫はいろいろ凝らされてあってもそろそろ少し飽きてきたかなと思ったところで、父親役の伊東四朗が出て来て画面をグッと引き締める。自宅に押しかけた報道陣を前に、息子の無実を心の底から信じている父親は息子を犯人扱いするマスコミを批判し、カメラに向かって息子に逃げ通せと捨て台詞を吐くのだ。

「俺は子どもの頃から雅春を知ってる。家内はそれ以前から、お腹の中にいる頃から雅春を知ってるんだ」。父親は息子が首相爆殺などという重大な犯罪を犯す人間ではないことを強く訴える。現実の重大事件では子どもの両親をカメラの前で謝罪させることが当たり前のことのように行われているけれども、この場面はそれを批判してもいるのだ。そして父親の息子へのまったく揺るがない信頼と愛情の深さで胸が熱くなる。なにしろこの父親は正義感のかたまりで、小学生時代の息子に書道で「痴漢は死ね」と書かせたぐらいなのだ。

黄金のまどろみ(ゴールデンスランバー)の中で起きた悪夢のような事件。いや、悪夢のような事件の中で主人公の青柳雅春(堺雅人)は自分を取り巻く人間たちをまどろみながら思い出す。運送会社に勤める主人公が事件の犯人に仕立てられたのは2年前、アイドル(貫地谷しほり)を救ってマスコミから紹介され、一躍注目を集めたためだったのだろう。追っ手の中には警察上層部がいて、事件の首謀者は国家の中枢部にいるらしいことは分かるが、詳細は分からず、青柳はまったく理不尽な逃亡を余儀なくされることになる。典型的な巻き込まれ型サスペンス。次々に迫り来る危機をくぐり抜けて逃走する主人公のサスペンスの部分もよくできているが、しかし、この映画の良さは疑うことを知らない人の良い主人公とそれを助ける周辺の人間たちを生き生きと温かく描いていることだ。

かつての恋人の竹内結子、心ならずも青柳を陥れる策略に荷担する大学時代の友人・吉岡秀隆、後輩の劇団ひとり、運送会社の先輩渋川清彦、そして「びっくりした?」と言って登場する通り魔の濱田岳、入院患者でやくざな柄本明まで、俳優たちはみな印象に残る演技をしている。彼らが青柳を助けるのは青柳自身の善良な性格に好意を持っているからだろう。この映画の主眼が事件の解決よりもそうした人間たちを描くことにあったのは明らかであり、監督・脚本(林民夫、鈴木謙一と共同)の中村義洋は、その主軸を少しもぶれさせず、伊坂幸太郎原作をテンポ良く見事な映画に仕上げている。疾走するスピード感と密度の濃さを伴った2時間19分だ。主演の堺雅人はキャラクターを生かした役柄を演じきってうまい。追っ手側では、まるでターミネーターのような永島敏行が怪演していて面白かった。

とはいっても、やっぱり事件は完全に解決させた方が観客の気分は良くなる。ぜひとも敵の正体を明らかにして鉄槌を下す続編を期待したいところだが、書く気はないのか、伊坂幸太郎は。

Invictus 考えてみれば、昨年の「チェンジリング」「グラン・トリノ」はどちらも意外性のある物語だった。その意外性がドラマと密接に結びついて物語の痛切さを増幅させていた。これは「ミリオンダラー・ベイビー」にも「ミスティック・リバー」にも言えることだ。今回はストレートな物語である。黒人と白人の対立が根強く残る南アフリカで、ネルソン・マンデラ大統領がラグビーを通じて国民の融和を図ろうとする実話をクリント・イーストウッドはど真ん中の剛速球のようなタッチで描く。自国開催の世界選手権を勝ち進んだ南アチームの決勝戦を描くクライマックスには心を揺さぶられる。イーストウッドの演出は今回もほぼ狂いがない。

ただし、“国の恥”と言われるほど惨敗していた南アチームがなぜ選手権までの1年間で強くなったかに説得力がない。スポーツを題材にした映画なら、チームが弱い原因を提示し、それを克服していくことで強くなっていく過程を描いていくのが普通だろう。そういう部分がこの映画には欠落しているのだ。だから南アチームは都合良く勝っていくだけに見えてしまう。もちろんイーストウッドは単純なスポ根映画を作るつもりなどなかったのだろうが、スポーツを取り扱う以上、こういう部分はとても重要なのである。これは端的に脚本の欠陥だと思う。黒人と白人の対立がチーム内にも影響を及ぼしていたという部分を描ければ良かったのだが、白人のスポーツと目されている南アの代表チーム・スプリングボクスに黒人は1人だけ。これではチームの姿を国に重ね合わせることは難しい。

“One team, One Country”(一つのチーム、一つの祖国)という言葉がチームの統率と国の融和を象徴する言葉であることは分かる。主将のフランソワ・ピナール(マット・デイモン)がマンデラ(モーガン・フリーマン)に会って心服することで、チームの統率を高めていく展開も分かるのだけれど、それならば実力は秘めていながら統率が取れていなかったから弱かったという部分を強調する必要があるだろう。僕にはそこが弱く感じられた。

バランスの難しい話なのだと思う。映画の冒頭に描かれるのは大統領に就任したマンデラの姿。初の黒人大統領を敵視する政府の職員たちが次々に去っていくのを見て、マンデラは呼びかける。「この国には皆さんの力が必要だ」。映画の重点は南アの人種対立を克服しようとするマンデラの姿にある。これはジョン・カーリンの原作もそうなのだろう。映画の主人公はあくまでもマンデラだ。代表チームに主軸を置いた構成にすれば、良かったのではないかと思う。代表チームが困難を克服していく過程がもっと描いてあれば、映画は説得力を増したに違いない。

インビクタスとは英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(1849?1903)の詩のタイトルで、ラテン語で「征服されない、不屈」を意味する。27年間の投獄期間中、マンデラが心の支えにした詩なのだという。

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