2009年1月アーカイブ

Wild 前半はまるでアメリカン・ニューシネマのようだと思った。文明や物質的な価値を拒否してアラスカへと向かう主人公は破滅へ向かう「バニシング・ポイント」の主人公と重なった。主人公を突き動かしたのは両親の偽りの姿で、だから人間を拒否して一人で荒野の中で暮らすことになる。そして死の直前に主人公は「幸福はそれを人と分かち合った時に実現する」という結論に達する。その時に想起したのは両親との和解であり、旅の過程で知り合った人々との交流だった。一人では幸福にはなれない。そんな当たり前のことを過酷で孤独な生活の中で知ることになるわけだ。

一般的に見れば、主人公は若さと純粋さで誤った道を取ったことになるかもしれないが、監督のショーン・ペンはそれを肯定的にとらえた。放浪の旅に出ることを「誕生」にたとえ、悩み多き「思春期」を経て悟りの境地に至るという構成。主人公は再生を果たした後に死んでいくのだ。2時間28分の上映時間は少し長く、主人公の生き方に全面的に賛成もできないが、これは「モーターサイクル・ダイアリーズ」のようにロードムービーの形を取った青春映画と言える。役のために18キロ減量したエミール・ハーシュが実在した青年に確かなリアリティーを与えている。

クリストファー・マッカンドレス(エミール・ハーシュ)はエモリー大学を優秀な成績で卒業した後、両親(ウィリアム・ハート、マーシャ・ゲイ・ハーデン)に黙って放浪の旅に出る。一見、幸福そうに見える家庭は、実は両親の諍いが絶えなかった。両親は離婚はしなかったが、虚飾に満ちた生活にクリスは嫌気がさしたのだ。余った学資の2万4000ドルを寄付し、バックパックを背負って一文無しで行う旅。時折、アルバイトをしながら、アラスカを目指す。この映画で心に残るのはこの旅の過程で主人公が出会うさまざまな人たちとの交流の方にある。

クリスと同じ年頃の息子を持ち、2年間連絡が取れていない夫婦、農場の経営者、主人公に思いを寄せる少女、そして孤独な老人。夫婦と老人とクリスは疑似家族のような関係になり、心を通わせる。クリスはなぜこの過程で、一人では生きられないことに気づかなかったのだろう、という思いを強くする。きっと人間は幸福の中にいるときはそれに気づかないものなのだろう。ショーン・ペンはこの交流と、アラスカの荒野に廃棄された小さなバス(魔法のバスとクリスは名付ける)の中で孤独に暮らすクリスを交互に描き、クリスに寄り添ってその生き方と考え方をくっきりと浮かび上がらせている。それでもこれがハッピーエンドだったら、と思わずにはいられない。実際にあった話だから仕方がないが、主人公が死ななかったら映画の印象は随分違ったものになっていただろう。

孤独感をにじませた老人役のハル・ホルブルックは昨年のアカデミー賞で助演男優賞にノミネートされた。主人公に思いを寄せる美少女役のクリステン・スチュワートは「パニック・ルーム」でジョディ・フォスターの娘役を演じ、「ジャンパー」にも出ていたそうだ。

原作の「荒野へ」(集英社文庫)を読んでみたくなったが、amazonでは品切れのようだ。書店で探してみよう。

「つみきのいえ」DVD アカデミー短編アニメーション賞ノミネート作品で、アヌシー国際アニメーションフェスティバルのグランプリも受賞した。amazonから届いたので見る。ナレーション入りバージョンとなしバージョンが入っていて、最初にナレーションなしで見た。

だんだん水面が上がってくる土地に一人の老人が住んでいる。老人は水面の上昇に対応するため、レンガを積み木のように積み重ねて家を高くしてきた。水面が上がったら、新たに作った上の部屋に移動する。そうやって家は随分高くなっている。ある日、上の部屋に引っ越す際に大事にしていたパイプを落としてしまう。代わりのパイプも持っているが、老人は潜水服を着て水面下の階下に潜っていく。そこは死んだ妻と暮らしたころの部屋。老人は子供の結婚や子供が小さかったころ、妻と知り合ったころを回想することになる。

町にはかつて大勢の人が住んでいたが、水面の上昇とともに他の人たちはよそへ引っ越していった。老人が引っ越さないのはこの家に思い出が詰まっているからだ。老人は一人で住んでいるのではない。死んだ妻の思い出とともに幸福な日々を暮らしているのだ。

優しく淡い絵柄でそういうストーリーを描いてしんみりした気分にさせる。水面下に降りていくことは自分の記憶を掘り下げていく行為の比喩となっている。しかし、これは小さな子供には理解しにくいかもしれない。そういう人生の機微が子どもには分かりにくいと思う。ナレーション入りバージョンを見ると、物語の細部の説明があって分かりやすかった。amazonのレビューにはナレーションなしの方がいいという意見があるけれど、ナレーション入りを勧めたい。ナレーション入りだと、小5の次女にも理解できたようだ。ちなみにナレーションは長澤まさみ。これは絵本にもなっているそうだ。絵本の文章もこのナレーションが元になっているのだろう。

次女の感想は「おじいさん、かわいそうだねえ」。そう、かわいそうだけど、おじいさんはたくさんの幸福な思い出があるから不幸じゃないんだ。物質はいつか消えるけど、幸福な思い出はいつまでも残るからね。

監督の加藤久仁生は1977年生まれだそうである。

「誰も守ってくれない」パンフレット  「お前が守るんだ」。主人公の刑事勝浦卓美(佐藤浩市)は姉妹刺殺事件の容疑者の妹沙織(志田未来)に兄と父親を世間から守るように言う。「人を守るってのは人の痛みを知ることだ」。

これが脚本・監督の君塚良一が訴えるシンプルなテーマだ。容疑者の家族の保護を実際に警察がどの程度やっているのか知らないが、これは現実にすべて即した映画ではなく、現実社会に隣接したところで真摯に組み立てた物語なのだと思う。ちょっと現実をデフォルメしすぎているとか、現実にはありにくいと思える描写もこの映画の中にはあるのだけれど、君塚良一は人の痛みを知らない社会への異議申し立てとしてこの映画を撮っている。「踊る大捜査線」の人なので、エンタテインメント気質が抜けていないのが逆に好ましいところで、生真面目な社会派映画では伝わらない作者の主張というのは確かにあるのだ。

君塚作品は前作の「容疑者 室井慎次」もこうしたシンプルな主張を備えていた。「勇気というものは一人に一つしかない。それを捨てた人間は一生逃げ続けることになる」というセリフから僕は「ジェームズ・スチュワートが主演していたようなかつてのハリウッド映画の精神を受け継いだ作品。歪んで腐りきった人間と真っ直ぐに生きる人間、醜悪な現実主義者と理想主義者の相克を描き、理想が勝つことを信じて疑わない視線が根底にある」と書いた(映画評)のだけれど、それは今回の作品でも同じことを感じた。君塚良一は世間的には青臭いと思われている正義感や倫理観を頑なに信じている人なのだろう。だからこういう映画が生まれる。僕はそういうタイプの映画が好きなので、この映画も大いに支持する。

保護を命じられた勝浦は妻と離婚しそうになっている。その原因は3年前の事件にあった。尾行中の覚醒剤中毒患者が4歳の男児を刺し殺してしまったのだ。責任を感じた勝浦はそれ以来、精神科に通うようになり、妻との仲も悪くなっていった。主人公のこうした設定は気の利いた脚本家ならば当然用意するもので、主人公が事件を通じてこれを克服する映画であることは容易に予想がつく。勝浦と沙織は容疑者の家族にも責任があるとして取材攻勢をかけるマスコミから逃れ、ホテルから勝浦のアパート、精神科医(木村佳乃、好演)のマンションを転々とする。そして勝浦が家族旅行をするはずだったペンションへとたどり着く。しかし、ネットの掲示板にも2人の個人情報と誹謗中傷が書かれ、追及が始まっていた。

「被害者の家族と加害者の家族は、家族がいなくなるってことでは同じです」。ペンションを経営する本庄(柳葉敏郎)の言葉にハッとさせられるのは家族にとってはどちらも突然降りかかった不幸である点では違いがないことを僕らが忘れがちだからだ。それなのに加害者の家族は加害者と同罪であるかのように扱われてしまうことが多い。君塚良一がその間違いを正したくてこの映画を撮ったのは明らかだ。人を非難する前に非難された人の痛みを知る人間であるべきなのだ。

モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞受賞作。同じ映画祭でグランプリを受賞した「おくりびと」は昨年夏に公開されたが、この映画が公開を今日まで遅らせたのは物語が1月24日に始まる設定のためもあったのかもしれない。

「海角七号」

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mixiの日記を外部ブログ(つまり、ここ)に設定してみた。こうすると、自分でも過去のmixi日記にアクセスできなくなるわけですね。なるほど。過去の日記はbackup_mixiですべてダウンロードしてあるので別に困らないが、自分だけでもアクセスできるようにならないものかな。まあ、いいか。

「海角七号」DVD  「海角七号」(英語タイトルはCape No.7)は台湾で昨年8月に公開され、「タイタニック」に次ぐ歴代興収2位のヒットとなった映画。出張で台湾に行った家内がDVDを買ってきた。中国語なんて全然分からないのにDVD買ってどうする、と言ったら、日本語が3割ぐらい入ってるとのこと。日本人が出てくるのである。とりあえず英語字幕を出しながら見た。

「太陽がすっかり海に沈んだ。これで本当に台湾島が見えなくなってしまった。君はまだ、あそこに立っているのかい?」。1945年12月25日、台湾から日本へ向かう日本人教師の手紙で映画は始まる。タイトルの後、時代は飛んで現代、海沿いの町恒春。主人公のアガ(范逸臣=ファン・イーチェン)は台北で歌手を夢見て挫折し、故郷に帰ってきた。義父である議長の世話で郵便配達の仕事をするようになったが、仕事は投げやりである。アガは日本から出され、宛先不明だった手紙の住所を探し当てようとするが、その住所「海角七号」は日本統治時代の住所で分からなかった。

この町では日本人歌手の中孝介(本人)のコンサートを海岸で開くことになった。議長は前座に地元のバンドをと提案、オーディションをすることになる。バンドのコーディネーターに選ばれたのが中国語が話せるモデルの友子(田中千絵)。オーディションに集まったのは小学生や警察官など6人で、アガも加わって練習が始まるが、メンバーの意思はバラバラ。練習も思うようにいかない。怒った友子はいったんは「もう辞める」と言い出すが、反発し合っていたアガと次第に親しくなっていく。

映画はバンドに参加したメンバーを描きながら、時折、60年以上前の手紙のナレーションを流す。教師は敗戦で恋人の台湾人小島友子(日本語名)を残して日本へ帰ることになったのだった。手紙は教師の遺族が押し入れの中から見つけて、出したものだった。

英語字幕を見慣れていないので最初の1時間は意味がつかみにくかった。後半、バンドが軌道に乗り始めて面白くなった。60年以上前の手紙のエピソードに気を取られるけれど、映画の本筋は凸凹バンドがコンサートを成功させるまでの方にあり、「フラガール」や「ブラス!」みたいな内容と言える。「マーラーサン」という新製品の酒を必死に売り込もうとする青年やバンドに参加することになる80歳の郵便配達などバンドにかかわる人間たちを笑わせて泣かせる演出で描いている。

終戦直後の教師と友子の関係はもちろん、現代のアガと友子に重なっており、これが映画に奥行きを与えている。しかし、このエピソードがなくても映画は成立するだろう。凸凹バンドの奮闘が面白いのである。流れる音楽の数々もいい。

監督は魏徳聖(ウェイ・ダーション)。映画は昨年の台北映画祭でグランプリ、アジア海洋映画祭イン幕張でも最優秀作品に選ばれた。侯孝賢監督が絶賛したというこの映画、日本で一般公開予定があるのかどうか分からないが、日本語字幕で見直してみたいものだ。

「007 慰めの報酬」チラシ ダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドの第2弾。前作「カジノ・ロワイヤル」同様にアクションは速く重くキレがある。陸海空といろんな場所で展開されるアクションはどれもこれも充実しており、ボンドの肉弾戦はとても痛そうだ。ボンドは傷だらけになりながら、犯罪組織を追い詰めていく。10分に一度ぐらいはアクションがあり、簡単なストーリーをアクションでつなぐという007シリーズの以前からの構成は少しも変わっていない。しかし、どうもドラマが盛り上がりに欠ける。味わいにも欠ける。ボンドもボンドガールも復讐の意志を秘めた物語なのに、それが設定だけ、即物的なだけに終わっていてエモーショナルな高まりがないのだ。監督は前作のマーティン・キャンベルから「チョコレート」「君のためなら千回でも」のマーク・フォースターに変わった。フォースターならドラマを重点に置くかと思ったら、なんだこの通り一遍の薄っぺらな出来は。ポール・ハギスが加わった脚本自体がまずいのか。

例の銃口の中にボンドが映るオープニングはなく、海を素早く移動するカメラで幕を開ける(銃口の中のボンドはエンドクレジットの前に出てくる)。カメラが陸地に移動すると、ボンドの乗ったアストンマーティンDBSと敵のアルファロメオのカーチェイス。短いカット割りでスピード感を持たせており、そこそこの迫力だが、感心するほどではない。敵を振り切ったボンドはトランクを開け、前作「カジノ・ロワイヤル」でボンドが愛したヴェスパーを操っていたミスター・ホワイト(イェスパー・クリステンセン)に出るように言う。尋問中に巨大な犯罪組織の存在さが明らかになり、その手先はさまざまな場所にいることが分かる。尋問中の情報部員も手先だった。M(ジュディ・デンチ)たちを銃撃し、逃げた情報部員をボンドは必死に追う。

手がかりを求めてハイチに渡ったボンドは謎の美女カミーユ(オルガ・キュリレンコ)に出会う。カミーユは環境NPOのドミニク・グリーン(マチュー・アマルリック)に接近していたが、その目的は自分の両親と姉を殺したメドラーノ将軍に復讐することだった。ヴェスパーの復讐を胸に秘めるボンドはカミーユと行動を共にすることになる。この後、映画はイタリア、オーストリア、そして組織が狙うボリビアの砂漠で展開していく。

背中にケロイドがあるボンドガールのオルガ・キュリレンコは悪くないが、復讐に燃える女に見えないところが残念。しかし一番の問題はクレイグにエモーショナルなものが欠落していることだろう。これはジェイソン・ボーンシリーズと同じ欠点。と思ったらアクション担当の第二班監督ダン・ブラッドリーはボーン・シリーズも担当しているのだった(ブラッドリーはジョン・ミリアス「若き勇者たち」のリメイク版の監督に決まっているそうだ)。ブラッドリーのアクション演出は大したものだが、そうした良くできたアクションに負けないドラマが欲しくなってくる。

どうでもいいが、Wikipediaの「慰めの報酬」のページに間違いを見つけたのでアカウントを作って訂正させてもらった。些細な部分だけど、気になったので。

「チェ 28歳の革命」パンフレット 後半、サンタクララ市の市街戦を見ていて、なんとなくキューブリック「フルメタル・ジャケット」を思い出した。市街戦の場面に関しては感情を廃した平板な作りが逆に効果的だ。というか、ここでの戦いは目標がはっきりしているから面白いのだろう。スティーブン・ソダーバーグ監督がエルネスト・チェ・ゲバラの半生を描く2部作の第一弾。映画が描くのは1956年から59年にかけてのキューバ革命に伴う戦いと1964年の国連でのゲバラの演説およびインタビュー。これを交互に描く構成は決してうまいとは言えず、前半の森の中の戦いはやや退屈だった。ベニチオ・デル・トロはいつものようにゲバラにリアリティを与える好演をしているのだけれど、どうもドラマの作りが弱い。ソダーバーグは徹底的にゲバラをリサーチして、映画で描かれることにフィクションは入っていないそうだが、それをドラマ化するところでうまくいかなかったようだ。

ソダーバーグはパンフレットのインタビューでウォルター・サレス「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004年)について、この2部作の第一章のようなものだ、と語っている。映画1本として見るならば、青春映画として見事に完結していた「モーターサイクル・ダイアリーズ」の方が上だ。 

映画が始まる前にゲバラがその「モーターサイクル・ダイアリーズ」時代に南米の各国を見て影響を受け、その後にもう一度南米を旅行してフィデル・カストロに出会い、キューバ革命に参加したことが説明される。アルゼンチン出身のゲバラは南米の圧政に苦しむ人々を見て、革命を目指すのだ。ゲバラが未だに支持されるのはキューバ革命だけにこだわった人ではなかったからだろう。映画の前半、ゲバラは医者としての能力を生かして負傷兵や村人を助け、兵士に読み書きを教える。そうしたエピソードはあってもゲバラという人間を十分に描いたとは言い難い。この映画で分かるのはキューバ革命はどのように進んだかということだけである。実在の人物を描いたからといって、ドキュメンタリーのように撮る必要はない。感情を揺さぶるものが欲しくなるのである。

もちろん、当初は1本の映画として作られた作品を2本に分けたのだから、第2部の「39歳 別れの手紙」を見なければ、判断を下すのは早すぎる。第一部がシネマスコープサイズで撮られたのは戦闘シーンのスペクタクルも意識したからだろう。これに対して第2部はビスタサイズを採用しているという。ボリビアでどのようにゲバラが戦い、処刑されたか、それをソダーバーグはどのように描いているのだろうか。ゲバラの人間性がより深く描かれることを期待してやまないが、この作りではあまり期待できない気もする。

「ターミネーター サラ・コナー クロニクルズ」 「ターミネーター サラ・コナー クロニクルズ」の1話と2話が届いたので見る。思った通り、いかにもテレビシリーズという作り。無理に続けて見る必要もないような気がする。そう感じるのは出演者がテレビ級の俳優ばかりだからか。シュワルツェネッガー不在の穴は大きいし、その代わりとなる強烈なキャラクターがいないのも弱い。テレビシリーズの常で話の密度が薄いのが最大の欠点だろう。

「序章」は1999年が舞台。サラ・コナー(レナ・ヘディ)とジョン・コナー(トーマス・デッカー)は救急救命士の男と暮らしていたが、長く滞在するのは危険と判断して逃げ出す。別の町でジョンは高校に通うが、男の教師が突然、太ももから銃を取り出してジョンを撃ち始める。教師はターミネーターだった。それを救ったのはクラスメートのキャメロン・フィリップス(サマー・グロー)。キャメロンは2027年のジョンが送り込んだロボットで、コナー親子を守るため行動を共にすることになる。

スカイネットが生まれる原因となったダイソン博士は死に、研究も廃棄したはずなのに、未来社会ではスカイネットとの戦争が続いていた。誰かがダイソンの研究を引き継いだらしい。サラはこのまま逃げ続けていてもいつかは殺されるとして、未来を再び変えるためにスカイネットを今度こそ断とうと決意。銀行の貸金庫に用意されていたタイムマシンで2007年へと旅立つ。

第2話は2007年の社会で偽造IDを作るサラと、この時代にもいたターミネーターとの戦いが描かれる。

VFXは大したことはなく、このテレビシリーズの出来は25年前の映画に完璧に負けている。出てくるターミネーターがT-800型ばかりなのも、予算がないのは分かるんだけど、スケール感を小さくしている。せめて話を工夫してほしいところだが、感心できる部分は皆無だった。しっかりした脚本家が付かないと、面白くなる見込みはないような気がする。アメリカでは既に第2シーズンが放映されているが、これでは視聴率も取れないのだろうな。

物語を見て、おっと思ったのはスカイネットが起動するのが2011年という設定。映画の第1作が公開された1984年には2011年なんてまだまだ未来の話と思っていたが、もはや2年後に迫っているのだった。

久しぶりにGoogleノートブックを使ったら、「イースタン・プロミス」の感想を書いてそのままにしているのを発見。日付は昨年10月13日。日記にコピーするつもりで書いて忘れていた。せっかくなのでここにコピーしておこう。

「イースタン・プロミス」パンフレット パンフレットによれば、「イースタン・プロミス」とは東欧組織による人身売買契約の意味とのこと。キリスト教絡みの意味があるのかと思ったら、内容をそのまま表したものだった。イギリスのロシアン・マフィアを描くこの作品、最初からバイオレンスに彩られている(暴力描写でR-18というのも暴力に甘い日本では珍しい)。デヴィッド・クローネンバーグの前作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は我慢に我慢を重ねた男が最後に爆発するという、まるで高倉健や鶴田浩二が出て来る任侠映画のような筋立てだったが、今回は菅原文太が出てくる実録路線のヤクザ映画を彷彿させる。冒頭、理髪店の椅子に座った男が首を切られるシーンから凄絶な描写。従来のマフィア映画であれば、剃刀をスーッと横に滑らせるだけだが、この映画ではのこぎりの歯を引くように左右にグビグビと動かして喉笛を切る。マフィアを描いたといっても社会派の映画ではさらさらなく、リアルなバイオレンス描写が前作から続いてのクローネンバーグの関心なのではないかと思えてくる。バイオレンスと緊張感に満ちた作品だ。

内容はタイトル同様に明快である。助産師のアンナ(ナオミ・ワッツ)が働く病院に妊娠中のロシア人少女が胎盤剥離で搬送される。少女は死ぬが、子供は生まれる。少女の身元を探すためアンナは少女が持っていたカードからロシアン・レストランを訪ね、店の前でニコライと名乗る男(ヴィゴ・モーテンセン)に出会う。レストランの主人セミオン(アーミン・ミューラー=スタール)は温厚そうな人柄だったが、少女が残した日記に強い興味を示す。日記はロシア語で書かれており、アンナには読めない。ロシア人の叔父に訳してもらうと、そこにはロシアン・マフィアの恐ろしさが綴られていた。セミオンはマフィアのボスで、ニコライはその息子キリル(ヴァンサン・カッセル)の運転手だった。

スティーブ・ナイトの脚本は過去によくあるマフィア映画の設定をロシアン・マフィアに移し替えたもので、取り立ててよく出来ているわけではない。ボスの息子が酒浸りでダメな男だったり、そのそばに優秀なニコライがいる設定など何度も見た覚えがある(ちなみに、スティーブ・ナイトは別名で本当はスティーブン・ナイト。作品によって最後のnを取ったり取らなかったりしているのは何か理由があるのだろうか)。それなのにこんなに緊張感のある映画に仕上がるのはやっぱり映画は監督に左右されるからだろう。クローネンバーグのギャング映画はマーティン・スコセッシともコーエン兄弟とも異なる独自のものだ。サウナで全裸のモーテンセンがチェチェンマフィアの男2人と繰り広げるアクションは凄絶で極めてリアル。

ヴィゴ・モーテンセンは冷徹な男をクールに演じて隙がない。ヴァンサン・カッセルのダメ男ぶりもうまいと思う。どちらも演技に奥行きがあった。

以上、コピー終了。

なぜ、これを日記に移さなかったかというと、まだ途中なのだ。もう少しちゃんと書いて仕上げてからコピーしようとしてそのままになっていた。

僕は必ずしもこの映画に100%満足したわけではない。何が物足りないかと言えば、ストーリー。よくある話すぎるのだ。それが単なるよくある映画に落ちなかったのは描写がものすごいから。ただし、描写の凄さだけで評価して良いものかどうか迷った。前作と同じような趣向というのも気になった。上に書いた文章は褒めっぱなしなので、そういう批判的な部分を付け加えるつもりだったのだ。

ところで、このブログの画像はデフォルトで横幅100ピクセルになっていたが、それでは小さすぎるので150ピクセルに変更した。元の画像はだいたい200ピクセルぐらいでスキャンしている。映画パンフレット のページにもコピーしているので、今後は300ピクセルぐらいにした方がいいか。

「WALL・E/ウォーリー」パンフレット 昨年の映画ベストテンを選んでいて痛感したのが感想を書いていない映画が多いこと。いろいろと忙しいためもあるが、「母べえ」も書いてませんでした。これはいかん。今年からは短くてもいいから必ず書こう。ちなみに選んだベストテンの1位は洋画が「ラスト、コーション」、邦画は「おくりびと」という極めて普通の選択になりました。

最近見て感想を書いてなかったのが昨年末に見た「WALL・E/ウォーリー」。合評会の課題作でもあるので、自分のためにメモしておくと、これ、正直な映画だと思う。キャラクターがかわいくて3DCGの技術も脚本もうまくまとまっている。地球環境保護のテーマも真っ当だ。700年間宇宙を旅している人間たちがいずれも太っているのは実にありそうだ。そしてこれもエコのテーマにつながっていく。ロサンゼルス批評家協会賞を取っても異論はない。

だが、個人的には正直に作ってあるだけでそれ以上のものはないと感じた。SFのセンスは普通、語り口も普通。過不足はないのだけれど、ここは凄いと感心した所がないのである。子供向けあるいはファミリー映画としてこれほどまとまった映画なら不満を述べる筋合いはないが、ただまとまっているだけのことなのである。監督のアンドリュー・スタントンの作品には「バグズ・ライフ」「ファインディング・ニモ」のどちらにも同じようなことを感じた。平均的にそつなくヒットを打つが、ホームランは少ないタイプと言えようか。で、この映画のパンフレット、確かに買ったのだが、家の中で見あたらない。年末の大掃除でどっかに消えたようだ。車の中にあったのでスキャンした。

「WALL・E/ウォーリー」に関してはキネ旬1月下旬号で立川志らくが、映画の中に出てくる「ハロー・ドーリ?!」について、数ある傑作ミュージカルの中でこれを選んだことに不満を書いている。これも「ハロー・ドーリー!」にかこつけて映画全体への微妙な不満を述べているのではないかと思う。「ハロー・ドーリ?!」という普通の出来のミュージカル(IMDBで6.8)を選んだのは普通の監督のアンドリュー・スタントンにはふさわしいかもしれない。といっても僕は見てないんですけどね。スタントン、かなり優等生でマニアックなところはないのではないか。

キネ旬1月下旬号と言えば、東宝の2009年ラインナップが紹介されてあった。期待できるのは24日公開の「誰も守ってくれない」(君塚良一監督)、映画館のマナーの爆笑CMにも使われている「クローズZEROII」(三池崇史監督)、「アマルフィ 女神の50秒」(西谷弘監督)、「BALLAD 名もなき恋の歌」(山崎貴監督)、「ヴィヨンの妻」(根岸吉太郎監督)、「ゼロの焦点」(犬童一心監督)などか。

「20世紀少年」の第2章と第3章に関してはあまり期待はしていなが、第1章をあそこまでつまらなく作ったのだから、あれ以上に落ちることは考えにくい。といっても原作は第1章の部分が一番面白かったんだけど。

「BLEACH Fade to Black 君の名を呼ぶ」パンフレット 劇場版「BLEACH」第3作。僕は「BLEACH」に関しては門外漢で、原作もテレビアニメも見ていない。一昨年の劇場版第2作で初めて見た程度の知識しかない。劇場版は独立したストーリーだが、それでも物語の背景を知らないと、分かりにくい部分がある。Wikipediaから引用しておくと、「ひょんな出来事から悪霊・虚(ホロウ)の退治者(死神)になってしまった高校生、黒崎一護(くろさき いちご)とその仲間達の活躍を描いた漫画」ということになる。

今回は一護に死神の力を与えた朽木ルキアが何者かに記憶を消されるところから始まる。一護は異変に気づき、尸魂界(ソウル・ソサエティ)に行くと、死神たちは皆、一護の記憶をなくしていた。一護は旅禍(りょか)として追われ、ルキアを助けるために奔走する。というのが大まかなプロット。94分の映画としてはこれぐらいだろうが、物語の全体は悪くないにしても、尸魂界の死神たちが記憶をなくす理由に説得力が乏しい。説明されても納得できない。ここをもう少し工夫すれば、映画はもっと面白くなったのではないか。高橋ナツコの脚本は前半の語りに配慮が足りないと思う。パンフレットのインタビューを読むと、「記憶をどう消していくかというところは時間がかかりました」と言っているが、とても時間をかけたとは思えない。プロットに終わっていて密度は薄い脚本だ。

それでも一昨年の「劇場版BLEACH The DiamondDust Rebellion もう一つの氷輪丸」よりはよくまとまっていると思う。ただし、アニメの技術で際だったものはない。テレビアニメや原作を読んでいるファンはどう感じるのだろう。一緒に行った長男は「残念だったね」、次女は「面白かった」という感想だった。どちらも原作、テレビアニメとも見ている。

原作を読んでいない人間には相変わらず、耳で聞いただけでは理解できない言葉も頻出する。「霊子(れいし)」や「瀞霊廷(せいれいてい)」なんて、まず字面を想像できない。これはファン向けに作られているのだから、仕方がないか。公開から3週間たっても満席に近い入りなのだから、ファンには支持されているのだろう。

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