2009年9月アーカイブ

Burningplain ファーストショットは平原で燃え上がるトレーラーハウス。原題の「Burning Plain」はパンフレットの表紙にもなっているこの場面から取ったものだろう。このトレーラーハウスが悲劇の始まりとなったわけだから当然だ。邦題の「あの日、欲望の大地で」は良くない。登場人物の誰も欲望で動いているわけではないからだ。夫と子どもがありながら妻子ある男と密会を続ける主人公の母親(キム・ベイシンガー)は不実で自堕落な女に見えるが、後で描かれる2つの悲痛なショットでそうではないことが分かってくる。レストランのマネージャーを務めながら、男と行きずりの関係を続ける主人公のシルヴィア(シャーリーズ・セロン)もまた行動の根幹にあるのは欲望ではない。

「21グラム」「バベル」の脚本家で、これが長編映画監督デビューとなるギジェルモ・アリアガはこれまでの脚本と同じように時系列をバラバラにして断片の描写を積み上げていく。現在のパートは青を基調とした寒々とした色彩で、過去のパートは温かな色彩でと分けてはいるのだけれど、並列的に描かれるため最初は人間関係もエピソードのつながりもまったく分からない。「21グラム」を見た時に僕は「物語をどう語るかに腐心することは大事なことだけれど、それを余計に感じる題材というものもあるのだ」と思った。この映画に関してはこの手法で良かったと思う。ミステリアスな雰囲気が作品に奥行きを与えているからだ。悲劇が横たわる母と娘、その娘とそのまた娘との関係をアリアガは重厚なタッチで描いている。断片を積み重ねる手法にもかかわらず、見ていて映画への興味が薄れないのは映像に力があるからだろう。

時系列をバラバラにするのは「21グラム」「バベル」の監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの趣味かと思ってきたが、考えてみれば、脚本を書いたアリアガの手法であることは当然なのだった。小説家でもあるアリアガの物語を語る手法は完成されている。語り口が身上とも言える映画なので、時系列に沿ってストーリーを紹介すると、映画の面白みも半減してしまう。何も知らずに見た方が良い映画と言える。

アリアガの演出・脚本は優れているが、映画を支えているのは何よりもシャーリーズ・セロンだ。美貌とスタイルに恵まれたセロンはアイドル的な映画スターになることも簡単だったが、それを拒否して13キロ体重を増やし、過剰なメイクを施して「モンスター」に出演した。「モンスター」での演技力は評価されてしかるべきものだったけれど、同時に僕はやりすぎではないかとも思った。演技が人工的で主人公の造型にも無理があった。その後の「スタンドアップ」にも僕は無理を感じたが、それに比べてこの映画のセロンは自然体である。虚無感漂う主人公を演じて間然とするところがない。しかも化粧っ気がないにもかかわらず美しい。悲しみと苦しみに苛まれる主人公にしっかりとリアリティを与えている。

脚本で惜しいと思ったのは過去と決別し、自傷行為を行う主人公の行動がやや説得力を欠くことか。映画の構成に凝る前にここをしっかりと補強した方が良かったと思う。

「インスタント沼」パンフレット 脱力系の緩いギャグを詰め込んだコメディ。食後の眠気を完全に吹き飛ばすほどではなかったが、変わったキャラクターが多数登場し、”ウルトラスーパーミラクルアルティメイテッド”な展開に笑った。

インスタント沼とは主人公の沈丁花ハナメ(麻生久美子)が父親から贈られた(100万円で買った)土蔵の中に詰まっていた土に水をかけて作った沼のこと。ハナメは10杯のミロに10CCの牛乳をかけてドロドロの状態にして飲むのが好きで(ハナメはこれをシオシオミロと呼ぶ)、土蔵の土がかつての沼の土を集めたものであり、水をかければ沼が出来上がるインスタントな沼の成分であることを察知する。クライマックス、このインスタント沼からドドドドドーっとあれが登場するシーンはなんとなく「千と千尋の神隠し」を想起させた。非日常のファンタジックな描写を含みつつ、底なし沼のようにジリ貧のOLが元気になっていく姿を描いてまず楽しめた。いや頭の隅にはもっと楽しませてくれてもいいんじゃない、という思いは残るのだけれど、三木聡監督の映画には他の誰にもないユニークな個性があり、そのユニークさが面白かった。

ハナメは雑誌の編集長だったが、返品の山を築いて雑誌は休刊。ハナメは会社をやめ、荷物を整理していたところで古い手紙を発見する。それは母親(松坂慶子)が若い頃、ハナメの本当の父親に宛てた手紙だった。その母親は河童を探しに行った池で溺れ、意識不明となる。手紙の宛名は沈丁花ノブロウ。住所を探し当てノブロウを訪ねると、父親は風変わりな骨董店「電球商会」を営み、電球のおっさんと呼ばれていた。風間杜夫がこの父親を演じてほとんど怪演と言って良い演技を見せる。電球の店によく来るパンクロッカーのガス(加瀬亮)と仲良くなり、父親にも影響されて貯金の100万円をはたいて骨董店を始める。店はなかなかうまくいかない。父親はハナメに「うまくいかない時は水道の蛇口をひねれ」とアドバイスする。

なぜ水道の蛇口をひねるのかというと、水がたまる間にジュースを買いに行ったり、食事に行くのである。帰って水があふれていなかったら成功。ほとんど意味がないとも思える行為に熱中することで、なんとなくハナメは元気になっていく。三木聡が狙っているのは爆笑ではなく、微妙なおかしさだろう。この微妙なユーモア、ずれたおかしさが映画にはあふれている。くだらないと言ってしまえば、それまでのことだけれども、このユーモア、愛すべきものがある。緩い展開に緩いギャグ。日常から離れるにはそうしたものが必要なのだろう。

麻生久美子が今年出た映画は小さな役まで含めると5本らしい。「おと・な・り」「ウルトラミラクルラブストーリー」とこの映画の3本を見た限りでは、この映画の役が一番溌剌としていて良かった。鴨居に何度も頭をぶつけるリサイクルショップの松重豊とか、会社の部長の笹野高史、同僚のふせえりなどが微妙におかしい世界の構築に貢献している。

「男と女の不都合な真実」パンフレット 下ネタ満載のラブコメ。テレビ局の有能な女性プロデューサーと本音のトークで人気の下品でHな恋愛カウンセラーのおかしなラブストーリーを描く。four letter wordsがポンポン飛び出し、これはセリフによるR15+指定なのだろうが、そうした過激さが痛快にはなり得ていないのが惜しい。バイブレーター付きの下着を身につけたために、レストランで起こる騒動など何やってるんだと思う。

話の進め方、エピソードの組み立て方が洗練されていないし、ロマンティックなものが欠けている。何より主演のキャサリン・ハイグルにいまひとつ魅力がない。こういう役柄なら、メグ・ライアンやゴールディ・ホーン、リース・ウィザースプーンのようなキュートでコケティッシュなものが欲しい。相手役のジェラルド・バトラーの懐の広さに比べると、随分見劣りがして、バトラーの良さのみが目立った。監督は「キューティ・ブロンド」のロバート・ルケティック。

アビー(キャサリン・ハイグル)はサクラメントにある地方テレビ局のプロデューサーで朝のニュース番組を担当している。有能だが、私生活では理想が高すぎて男性に縁がない。番組の視聴率も2%台に下降してしまう。上司は視聴率を上げるため、人気上昇中のマイク(ジェラルド・バトラー)をコメンテーターとして起用する。マイクの「Ugly Truth」というコーナーは既成の恋愛観を打ち砕く本音のトークで反響を巻き起こし、視聴率が上がるが、理想の男性とは正反対の粗野なマイクにアビーは反発を繰り返す。そんな時、アビーの家の隣にハンサムな医師コリン(エリック・ウィンター)が引っ越してくる。コリンこそ理想のタイプと舞い上がったアビーはマイクのアドバイスを受けて、男が求める理想の女性を装い、コリンと親しくなっていく。それを見て、マイクは複雑な心境になってくる。

下品な外見の下にナイーブなものを秘めたマイクをジェラルド・バトラーはうまく演じている。前半に比べて後半が面白いのはそうしたマイクのキャラクターに深みが顔をのぞかせるからだが、映画自体には深みは生まれない。脚本家デビューのニコール・イーストマンの原案・脚本に「キューティ・ブロンド」の女性脚本家カレン・マックラー・ラッツとキルステン・スミスのコンビが共同脚本としてクレジットされている。高ビーな女の子が奮起してハーバード・ロー・スクールに入る「キューティ・ブロンド」は軽くて面白かったが、今回はやや不発気味。

こういう簡単なプロットの場合、エピソードにどんなものを持ってくるかで映画の出来が決まる。コリンと出会ったアビーがうれしくて飛び跳ねるシーンはリチャード・カーティス「ラブ・アクチュアリー」に同じようなシーンがあったが、「ラブ・アクチュアリー」のような粋な映画とはかけ離れた出来に終わっている。

タイトルが出るまでに58分27秒。「ちゃんと伝える」で20分以上かかったのは「愛のむきだし」と同様の趣向だったのか。序盤は盗撮、中盤はちょっとエッチなラブコメ、終盤は新興宗教から愛する人を奪取する主人公の姿を描く。中盤のスラップスティックなラブコメの部分が一番溌剌としていて面白い。

タイトルが出た後に全編を貫くのはヨーコ(満島ひかり)に対するユウ(西島隆裕)の一途な愛。これに新興宗教ゼロ教会の幹部コイケ(安藤サクラ)が絡むという三角関係的な男女の愛が描かれる。これだけなら普通は4時間(正確には3時間57分)もかからないのだけれど、園子音監督としては一度、興行的制限を度外視して4時間の映画を作ってみたかったのだろう。ひたすら大衆的、通俗的に元気よく4時間を突っ走る。4時間ならテレビドラマ4回でもいいかと思えるが、テレビではこんな描写できないだろうというシーンがたくさんある。それが映画のエネルギッシュさにつながっている。

パンチラなんて平気の満島ひかりの大熱演と西島隆裕のひ弱な真っ直ぐさ、安藤サクラのねじ曲がり具合がそれぞれに面白く、このほとんど新人の3人を使って、面白くてユニークで弾けた作品に仕上げたのは立派。というか、3人ともとても良かった。

普通、盗撮というと、陰湿なものを感じるが、ユウは求道者のように盗撮の道を突き進むので、いやらしさがない。盗撮、変態が記号化されているのである。同時にキャラクターはカリカチュアライズされ、リアクションはデフォルメ化されていて、まるで漫画のよう。リアリティと離れたところで、一途な愛を描く手法が特に漫画好きには受けるのではないかと思う。ラブコメの部分などは弓月光を思い出した。

「ウルヴァリン X-MEN ZERO」パンフレット 途中に出てくる老夫婦のエピソードにしても、敵味方がコロコロ入れ替わる終盤の展開にしても、脚本の設定は悪くなかったが、いずれも描写不足で情感が高まっていかない。物語をドラマティックにするためのギャヴィン・フッド監督(「ツォツィ」)起用だったのではないかと思うが、フッド、アクションに比重を置きすぎている。あの老夫婦の息子はベトナム戦争で戦死したとか、同時テロの被害に遭ったとか、政府の陰謀の犠牲になったとかの設定を入れるだけでも、映画の印象は変わったはず。

ウルヴァリンことローガンの恋人ケイラ(リン・コリンズ)の運命が「X-MEN2」のジーン・グレイ(ファムケ・ヤンセン)ほど心を動かさないのは女優の格の違いと言うよりもフッドとブライアン・シンガーの演出力の差が出た結果なのだろう。映画のテンポが一直線かつ筋を追うのが精いっぱいで緩急がない。ストーリーテリングの未熟さによって有望な題材をうまく仕上げられなかった。非常に惜しい。

物語は1845年から始まる。なんだそれはX-MENたちの祖先の話かと思ったら、ウルヴァリン、この時代から生きているのだ。父親を殺されたジェームズ少年は怒りにまかせて手の甲から骨を突き出し、父親の仇を討つが、殺した相手から本当の父親だと名乗られる。ジェームズ(ヒュー・ジャックマン)には極めて高い再生能力があった。同じ能力を持ち、義理の兄と分かったビクター(リーヴ・シュレイバー)とともに南北戦争から第一次、第二次大戦、ベトナムなどの戦場を経験する場面がタイトルバックで描かれる。銃殺されても死なない2人の能力に目を付けた軍のストライカー(ダニー・ヒューストン)はミュータント部隊を組織し、アフリカで隕石から出来た超合金アダマンチウムを手に入れる。部隊の暴力に嫌気が差したジェームズは部隊を離れる。6年後、ローガンと名乗って恋人のケイラとともにカナダで暮らしているが、かつての隊員たちが殺される事件が起きる。ローガンにも魔の手が伸びてくる。

「X-MEN2」で描かれたようにウルヴァリンにアダマンチウムを埋め込んだのはストライカー。今回はそれがどういう経緯をたどったのか、ローガンがなぜウルヴァリンと名乗るようになったのかが分かる。ビクターからケイラを殺されたウルヴァリンはビクターと戦って敗れる。そこでストライカーの誘いを受け、アダマンチウムを埋め込むことになるのだ。物語はそこから二転三転し、X-MENの世界につながるようサイクロップスなど他のミュータントたちも登場してくる。エグゼビア教授(パトリック・スチュワート)も出て来てミュータントの子供たちを救うことになる。

上映時間1時間47分。この長さにしてはエピソードを詰め込みすぎな感じもある。もう少し長くなっても良いから、情感を高め、ドラマを盛り上げる方向で演出してもらいたかったものだ。既に続編が計画されているらしい。ギャヴィン・フッドが次の作品も監督するかどうかは分からないが、ブライアン・シンガーが第2作で第1作の汚名を晴らしたように、フッドにも挽回のチャンスが欲しいところだ。

「ガマの油」

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「ガマの油」パンフレット 俳優役所広司の初監督作品。主演もしている。何だか変わった映画というのが第一印象で、時々、自主映画風になったり、冗長な部分があったりする。それは初監督作であるための技術的な拙さであると同時に、個性的で作家性を感じさせもする。主人公が森の中で熊と格闘するシーンなど話の本筋とはあまり関係ないシーンとしか思えないが、それ自体は面白い。そしてその後のシーンで主人公は決定的に変わるのだ。主人公が変わる契機に熊との格闘を持って来たのが個性的と思える。もっともこれは原案・脚本の中田琇子(うらら)の個性なのかもしれない。

タイトルの「ガマの油」は主人公が幼い頃に出会ったガマの油売りに由来する。これは役所広司自身の体験という。役所広司はガマの油売りとその妻を天使のような存在にたとえ、時空を超えて登場させる。ガマの油は息子を失った主人公の心の傷を癒やす妙薬でもあるのだろう。

主人公の矢沢拓郎は1日に何億も稼ぐデイトレーダー。豪邸に住み、「どんなもんじゃい」が口癖というスクルージのような嫌な奴である。家族は妻の輝美(小林聡美)と一人息子の拓也(瑛太)。ある日、拓也は少年院を出所する友人の秋葉サブロー(沢屋敷純一)を迎えに行く途中、車にはねられ、意識不明となる。その拓也の携帯にガールフレンドの光(二階堂ふみ)から電話がかかってくる。折り返し電話した拓郎は光に拓也の死を告げられず、拓郎を拓也と勘違いした光をそのままにしておいた。やがて拓也は死ぬ。「暗い墓の中に入れられるなんて、かわいそう」という妻とサブローの言葉に、拓郎は拓也の骨の埋葬場所を探してキャンピングカーでサブローとともに旅に出る。

拓郎は小さいころ、ガマの油売りから「人は二度死ぬ」と聞かされる。一度目は体が死んだ時、二度目は人から忘れられた時。二度死なせないためには思い出さなければいけないという結論は真っ当で、個性的な外観とは裏腹に映画は正統的な終わり方を迎える。個性的でありながら正統派の演技をする役所広司らしいと思うのは牽強付会か。主人公の変化をもっと明確に描くと、良かっただろう。

役所広司はパンフレットのインタビューで監督を志した理由について「今まで、色んな映画に俳優として参加してきていつも思うことは、監督は大変そうだけど、完成した時の達成感は俳優のそれとは比べ物にならないくらいの喜びがあるのではないかと思ってきました」と語っている。役所広司が主演した「パコと魔法の絵本」の監督、中島哲也はホームページに「監督として、演出家として、役所さんは僕よりずっと先にいる。悔しいけど、パコより断然“響く映画”でした」とのコメントを寄せている。考えてみれば、この映画、「パコと魔法の絵本」に通じるところが多かった。

「サブウェイ123 激突」 地下鉄乗っ取りを描いた傑作「サブウェイ・パニック」(1974年、ジョセフ・サージェント監督)の35年ぶりのリメイク。これはもうはっきりと、旧作の勝ちである。脚本のアイデアが薄いのがダメな点で、これの3倍ぐらいのアイデアが欲しいところだった。犯人側の要求金額を100万ドルから1000万ドルに引き上げたり、乗っ取られた地下鉄車両の様子をパソコンを通じてネットに流したりなどの現代的な脚色は行われているのだが、どれも話の本筋に有機的に絡んでこない。一番ダメなのは犯人グループのリーダー、ジョン・トラボルタと交渉役になるデンゼル・ワシントンのキャラクターが描き込まれていないこと。トニー・スコットのスピーディーな演出も上滑り気味である。

旧作には「本年度分の賄賂はもう締め切った」というウォルター・マッソーの格好いいセリフがあった。今回、デンゼル・ワシントンは日本に車両の選択に行き、35000ドルの賄賂を受け取って降格されたという背景がある。どうもこれが主人公に感情移入しにくい理由になっているようだ。脚本のブライアン・ヘルゲランドとしてはそうした過去を持つ男が事件を通じて再生していくのを描く意図があったのかもしれないが、まったく機能していない。細部に説得力がない。ワシントンは映画のために12、3キロ太ったそうだが、太っただけではキャラに深みを与えることにはならなかった。本当なら、トラボルタに要求されて衆人環視の中で、自分の過ちを告白せざるを得なくなる場面などはもっと盛り上がるはずなのに、そうならなかったのはキャラクターの描き込みが足りなかったからだろう。だいたい、ワシントンが賄賂を受け取るような人間には見えないのだ。元証券マンという設定のトラボルタの役柄も凶暴なだけでキャラが薄く、事件を計画した背景をもっと知りたくなる。他の犯人たちは単なる記号のような存在にすぎない。

原作はジョン・ゴーディの「The Taking of Pelham 123」。旧作が公開されたのは「ポセイドン・アドベンチャー」に始まるパニック映画(ディザスター映画)全盛時で、地下鉄とパニックをくっつけただけの邦題を聞いた時にはなんという安直なタイトルかと思ったものだ。でも、「ジャガーノート」との2本立てで公開された映画は面白かった。マッソーの飄々としたユーモアと事件のサスペンスが絶妙のブレンドだった。犯人グループのリーダー、ロバート・ショーがいかにもできる感じを漂わせていた。犯人グループには風邪を引いている男(マーティン・バルサム)がいて、交渉中にくしゃみをすると、マッソーがすかさず「gesundheit」(ゲズンドハイト=お大事に)と言う。これがラストの伏線になっていたのが心憎い設定だった。

そうした細かい工夫が今回の映画にはすっぽりと抜け落ちている。メインの事件に派手さはないのだから、周辺にもっと凝るべきだった。35年前の映画に勝てないようではリメイクの意味はない。

「BALLAD 名もなき恋のうた」パンフレット 優れたジュブナイルであり、優れたリメイク。「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」を見た時に、映画の完成度の高さに感心しながらも、これはクレしんの枠組みでやる必要はない話と思った(シネマ1987映画評)。実写版の今回はもちろん、クレしんの枠組みではなく、主人公は川上真一という小学生になっている。山崎貴監督は井尻又兵衛と廉姫の秘めた恋心、儚い恋の行方を中心に物語を組み立てた。

映画の成功は主にこの2人を演じる草なぎ剛と新垣結衣の好演にある。クレしん版の又兵衛はがっちりした体格と無骨な男らしいイメージがあり、草なぎ剛では少し違うかと思ったが、鋭い眼光と殺陣、ナイーブさを表した演技で十分にカバーしている。新垣結衣は清楚で勝ち気で信念を曲げない廉姫にぴったりだった。「お前が生きてかえってくれれば...自由に生きよう。お前と」。500対5000という圧倒的に不利な戦いの中で、2人は姫と臣下という身分の違いを超えて思いを募らせる。この2人のきりっとした姿は見ていてとても気持ちよい。これにVFXで戦国時代の舞台を整え、泣かせどころをわきまえた山崎貴の情感豊かな演出が加わって心に残る作品になった。

ストーリーはほぼ同じである。湖のそばで祈りを捧げる姫の夢を見た主人公の真一(武井証)は「川上の大クヌギ」のそばで古い文書を見つけ、なぜか天正2年にタイムスリップする。そこで又兵衛を狙っていた鉄砲隊のじゃまをして、偶然、又兵衛の命を救う。小国の春日の国で侍大将を務める又兵衛は"鬼の井尻"の異名を持つ凄腕の男。美しい廉姫とは幼い頃、一緒に遊んだ仲だった。その廉姫に大国の大倉井高虎(大沢たかお)が目を付ける。廉姫を嫁に差し出せという要求に殿様の康綱(中村敦夫)は一時は屈するが、真一と後を追ってきた両親(筒井道隆、夏川結衣)から未来の話を聞き、要求を断る。「むなしいのう。戦に明け暮れ、国を守っておるが、いずれは消え去る運命か...」。怒った高虎は軍勢を率いて春日の国に攻め入ってくる。女子供を含めて500人しかいない春日の国は存亡の危機に陥る。

パンフレットによれば、山崎貴は「ラストサムライ」の撮影現場を見学して以来、時代劇を撮りたいと考えていた。小説や映画や漫画など数ある時代劇の中で「一番いい話、自分が大好きな話」として「戦国大合戦」のリメイクを決めたのだという。欲を言えば、黒沢明や山田洋次の時代劇にあるような生活感のリアリティのある描写が欲しいところだったが、小さな傷だろう。ストーリーがすべて分かっているのに、泣かせられる演出とクレしん版の特徴でもあった合戦のリアルな描き方は実写にしても少しもおかしくない。映画の冒頭でいじめっ子から逃げた真一が又兵衛たちとの交流を通じて「逃げない」少年になるという枠組みはジュブナイルには欠かせないものだろう。佐藤直紀の音楽も情感を高める素晴らしいスコアだった。

alan 「 BALLAD ?名もなき恋のうた?」

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