2008年観賞映画の最近のブログ記事

久しぶりにGoogleノートブックを使ったら、「イースタン・プロミス」の感想を書いてそのままにしているのを発見。日付は昨年10月13日。日記にコピーするつもりで書いて忘れていた。せっかくなのでここにコピーしておこう。

「イースタン・プロミス」パンフレット パンフレットによれば、「イースタン・プロミス」とは東欧組織による人身売買契約の意味とのこと。キリスト教絡みの意味があるのかと思ったら、内容をそのまま表したものだった。イギリスのロシアン・マフィアを描くこの作品、最初からバイオレンスに彩られている(暴力描写でR-18というのも暴力に甘い日本では珍しい)。デヴィッド・クローネンバーグの前作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は我慢に我慢を重ねた男が最後に爆発するという、まるで高倉健や鶴田浩二が出て来る任侠映画のような筋立てだったが、今回は菅原文太が出てくる実録路線のヤクザ映画を彷彿させる。冒頭、理髪店の椅子に座った男が首を切られるシーンから凄絶な描写。従来のマフィア映画であれば、剃刀をスーッと横に滑らせるだけだが、この映画ではのこぎりの歯を引くように左右にグビグビと動かして喉笛を切る。マフィアを描いたといっても社会派の映画ではさらさらなく、リアルなバイオレンス描写が前作から続いてのクローネンバーグの関心なのではないかと思えてくる。バイオレンスと緊張感に満ちた作品だ。

内容はタイトル同様に明快である。助産師のアンナ(ナオミ・ワッツ)が働く病院に妊娠中のロシア人少女が胎盤剥離で搬送される。少女は死ぬが、子供は生まれる。少女の身元を探すためアンナは少女が持っていたカードからロシアン・レストランを訪ね、店の前でニコライと名乗る男(ヴィゴ・モーテンセン)に出会う。レストランの主人セミオン(アーミン・ミューラー=スタール)は温厚そうな人柄だったが、少女が残した日記に強い興味を示す。日記はロシア語で書かれており、アンナには読めない。ロシア人の叔父に訳してもらうと、そこにはロシアン・マフィアの恐ろしさが綴られていた。セミオンはマフィアのボスで、ニコライはその息子キリル(ヴァンサン・カッセル)の運転手だった。

スティーブ・ナイトの脚本は過去によくあるマフィア映画の設定をロシアン・マフィアに移し替えたもので、取り立ててよく出来ているわけではない。ボスの息子が酒浸りでダメな男だったり、そのそばに優秀なニコライがいる設定など何度も見た覚えがある(ちなみに、スティーブ・ナイトは別名で本当はスティーブン・ナイト。作品によって最後のnを取ったり取らなかったりしているのは何か理由があるのだろうか)。それなのにこんなに緊張感のある映画に仕上がるのはやっぱり映画は監督に左右されるからだろう。クローネンバーグのギャング映画はマーティン・スコセッシともコーエン兄弟とも異なる独自のものだ。サウナで全裸のモーテンセンがチェチェンマフィアの男2人と繰り広げるアクションは凄絶で極めてリアル。

ヴィゴ・モーテンセンは冷徹な男をクールに演じて隙がない。ヴァンサン・カッセルのダメ男ぶりもうまいと思う。どちらも演技に奥行きがあった。

以上、コピー終了。

なぜ、これを日記に移さなかったかというと、まだ途中なのだ。もう少しちゃんと書いて仕上げてからコピーしようとしてそのままになっていた。

僕は必ずしもこの映画に100%満足したわけではない。何が物足りないかと言えば、ストーリー。よくある話すぎるのだ。それが単なるよくある映画に落ちなかったのは描写がものすごいから。ただし、描写の凄さだけで評価して良いものかどうか迷った。前作と同じような趣向というのも気になった。上に書いた文章は褒めっぱなしなので、そういう批判的な部分を付け加えるつもりだったのだ。

ところで、このブログの画像はデフォルトで横幅100ピクセルになっていたが、それでは小さすぎるので150ピクセルに変更した。元の画像はだいたい200ピクセルぐらいでスキャンしている。映画パンフレット のページにもコピーしているので、今後は300ピクセルぐらいにした方がいいか。

「WALL・E/ウォーリー」パンフレット 昨年の映画ベストテンを選んでいて痛感したのが感想を書いていない映画が多いこと。いろいろと忙しいためもあるが、「母べえ」も書いてませんでした。これはいかん。今年からは短くてもいいから必ず書こう。ちなみに選んだベストテンの1位は洋画が「ラスト、コーション」、邦画は「おくりびと」という極めて普通の選択になりました。

最近見て感想を書いてなかったのが昨年末に見た「WALL・E/ウォーリー」。合評会の課題作でもあるので、自分のためにメモしておくと、これ、正直な映画だと思う。キャラクターがかわいくて3DCGの技術も脚本もうまくまとまっている。地球環境保護のテーマも真っ当だ。700年間宇宙を旅している人間たちがいずれも太っているのは実にありそうだ。そしてこれもエコのテーマにつながっていく。ロサンゼルス批評家協会賞を取っても異論はない。

だが、個人的には正直に作ってあるだけでそれ以上のものはないと感じた。SFのセンスは普通、語り口も普通。過不足はないのだけれど、ここは凄いと感心した所がないのである。子供向けあるいはファミリー映画としてこれほどまとまった映画なら不満を述べる筋合いはないが、ただまとまっているだけのことなのである。監督のアンドリュー・スタントンの作品には「バグズ・ライフ」「ファインディング・ニモ」のどちらにも同じようなことを感じた。平均的にそつなくヒットを打つが、ホームランは少ないタイプと言えようか。で、この映画のパンフレット、確かに買ったのだが、家の中で見あたらない。年末の大掃除でどっかに消えたようだ。車の中にあったのでスキャンした。

「WALL・E/ウォーリー」に関してはキネ旬1月下旬号で立川志らくが、映画の中に出てくる「ハロー・ドーリ?!」について、数ある傑作ミュージカルの中でこれを選んだことに不満を書いている。これも「ハロー・ドーリー!」にかこつけて映画全体への微妙な不満を述べているのではないかと思う。「ハロー・ドーリ?!」という普通の出来のミュージカル(IMDBで6.8)を選んだのは普通の監督のアンドリュー・スタントンにはふさわしいかもしれない。といっても僕は見てないんですけどね。スタントン、かなり優等生でマニアックなところはないのではないか。

キネ旬1月下旬号と言えば、東宝の2009年ラインナップが紹介されてあった。期待できるのは24日公開の「誰も守ってくれない」(君塚良一監督)、映画館のマナーの爆笑CMにも使われている「クローズZEROII」(三池崇史監督)、「アマルフィ 女神の50秒」(西谷弘監督)、「BALLAD 名もなき恋の歌」(山崎貴監督)、「ヴィヨンの妻」(根岸吉太郎監督)、「ゼロの焦点」(犬童一心監督)などか。

「20世紀少年」の第2章と第3章に関してはあまり期待はしていなが、第1章をあそこまでつまらなく作ったのだから、あれ以上に落ちることは考えにくい。といっても原作は第1章の部分が一番面白かったんだけど。

「K-20 怪人二十面相・伝」パンフレット クライマックス、ビルから落ちる金城武を間一髪、松たか子がジャイロコプターで救いに来る場面を見て確信した。これは「ルパン三世 カリオストロの城」だ。パンフレットのインタビューで監督の佐藤嗣麻子はまったく触れていないけれども、この空中アクションの多さと令嬢の松たか子の在り方、事件が終わった後に思わず2人が抱き合いそうになる場面などなど「カリオストロの城」との類似点が多い。

もちろん、一見すれば、主人公が持つ武器から「バットマン」や「スパイダーマン」を思い起こすのは当然だし、怪人二十面相のダークな扮装は「バットマン」そのものなのだけれど、本筋は「カリオストロの城」である。時代錯誤的な企画としか思えなかったこの題材をエンタテインメントに仕上げた佐藤嗣麻子の手腕は褒められて良い。しかし、それより何より金城武のアクションと山崎貴が加わったVFXを褒めるべきだろう。金城武は演出の緩みが気になったところで軽やかにアクションを見せ、画面を引き締める。こういう優れた俳優を中国や香港映画にばかり出していて良いわけがない。最近の日本のアクション映画の中で出色の快作。シリーズ化を望みたい。

第二次世界大戦が回避された1949年の日本が舞台。そこでは一部の金持ちである華族と貧困層に二分され、両者の間では結婚もできないという厳然とした差別があった。という説明で始まり、上空からVFXで描いた帝都を移すカメラワークが良い。帝都では華族を専門に狙う泥棒の怪人二十面相が暗躍していた。主人公のサーカス団員遠藤平吉(金城武)はカストリ雑誌の記者(鹿賀丈史)から明智小五郎(仲村トオル)と華族羽柴家の令嬢羽柴葉子(松たか子)との結婚式を撮影するよう頼まれる。厳重な警備をかいくぐって天窓から写真を撮ろうとしたその時、ビルの中で爆発が起こり、平吉は怪人二十面相と間違えられて逮捕されてしまう。護送の途中、天才カラクリ師の源治(國村隼)らの手助けで脱走した平吉は無実の罪を晴らすため怪人二十面相を追うことになる。

金城武がビルから飛び降りたり、鉄塔に上ったりするアクションは明らかにワイヤーで吊られているが、それでもアクションに慣れていないとできない動きだろう。この映画、ベタなギャグもあるけれど、ユーモアを散りばめた展開とアクションのバランスが良い。アクション監督は海外の作品にも参加している小池達朗と横山誠。この名前は記憶しておきたい。

帝都には東京タワーのようなタワーがあるが、時代を考えれば、まだできていないはず。昭和33年を舞台にした「ALWAYS 三丁目の夕日」で建設途中の東京タワーを見せた山崎貴の遊び心なのだろう(VFXディレクターは渋谷紀世子で、山崎貴は協力とクレジットされている)。空撮で貧困層の街並みとその奥にある近代的な建物を対比させるのがうまいところで、この帝都もまた現代以上の格差社会なのだ。佐藤嗣麻子はそうした世相を反映させつつ、映画の架空世界を構築している。僕は佐藤嗣麻子作品は吉野公佳主演の「エコエコアザラク」しか見ていないが、あれもまたVFXに見るべき所のあった作品だった。

松たか子はコケティッシュでキュートな役をうまく演じている。國村隼の妻役・高島礼子もユーモラスな部分を見せて良かった。「カリオストロの城」と似ているなと思って見ていると、浪越警部(益岡徹)は銭形警部に見えてくる。

Tokyosonata カンヌ映画祭「ある視点」部門で審査員賞受賞。ようやく見た。リストラされた中年男の家族をめぐる物語で、終盤に非日常的なことが家族それぞれに起こって、バラバラになった家族は再生に向かう。クライマックスのピアノのシーンで弾く手と音が合っていないのは興ざめなのだが、些細な欠点か。厳しい話をファンタスティックに語るところが黒沢清監督らしく、家族を描いてもマイク・リーほど厳しくならず、血の通った自然なユーモアに彩られているのがいい。小泉今日子は「空中庭園」に続いて、どこか憂いのある主婦を演じてうまい。キャスティングした監督にも「空中庭園」の好演が頭にあったのではないか。

46歳で総務課長から突然、リストラされる香川照之の立場が身にしみてよく分かる。この映画が海外でも評価されているのは父親のこうした立場にはどこの国でも共通するものがあるからだろう。香川照之はハローワークに行ったり、公園でホームレスに提供される食事配給の列に並んだりする。そこで同じくリストラされたかつての同級生(津田寛治)に再会する。同級生も失業を家族に言っていなかった。香川照之がリストラを家族に言えないのは家庭での威厳を保ちたいからで、父親としてどう振る舞っていたかは次男(井之脇海)が密かにピアノを習っていることを知った場面のむちゃくちゃで横暴な態度に表れている。

妻はそうした夫の本質を見抜いており、それがどこか憂いを感じさせる描写につながっているのだろう。家族は脆いもので、不協和音を奏で始めると、一気に崩壊していくものなのかもしれない。それが再生するのはそれぞれの非日常的な出来事によって日常の重要性を認識することになったからだ。酔いつぶれて「もう一度やり直したい」とつぶやく夫と、「ここからもう一度スタートしてやり直せるでしょうか」と言う妻。ともに再生の意志があるからこそこの家族は再生していくのだろう。

監督のインタビューによれば、オーストラリア人のマックス・マニックスのオリジナル脚本は父親と次男を中心にしたものだったという。それに監督が長男(小柳友)の米軍入りと母親を連れ去る泥棒(役所広司)の話を付け加えた。これで映画に変化が生まれたが、同時にややリアリティを欠くことにもつながっている。世界的な不況で派遣社員や契約社員が大量に解雇されている現状を考えると、リストラの話に絞り込めば、さらに現実を反映した映画になっていただろう。ただし、家族の再生というテーマは後退するかもしれず、難しいところだ。次男にピアノの「並外れた天才」の才能があったという設定は現実にはありにくいけれども、監督が言う「ある種の希望」を描くためには効果的だと思う。

香川照之が勤めていた会社は健康機器メーカーのタニタ。会社の実名を出すのは珍しいが、タイアップがあったのだろうか。それにしては劇中にタニタの製品は出てこなかったような気がする。小泉今日子が運転する車はプジョー207CC(クーペカブリオレ)。これは2回も出て来て、PR効果が大きい扱いだった。買いたくなった人がいるのではないか。

パンフレットは残念ながら完売。写真はチラシ。

Himitsu2 アイデアがあってもそれを作品にできる筆力がなければダメというのは小説の場合によく言われることだが、映画でもそれは同じこと。この作品にもそれがすっぽり当てはまる。SF的なアイデアを生かせていない。前半の青春ラブストーリーの部分が下手すぎるので、クライマックスに秘密が明らかになっても盛り上がらないのだ。後半を生かすには前半にもっと緻密な作りが必要だったと思う。これをSFとは言いたくない気分。ファンタジーなら許せるか。

音楽学校に転校してきたシャンルン(ジェイ・チョウ)は、旧校舎の古いピアノを弾くシャオユー(グイ・ルンメイ)と出会う。2人は学校徐々にきずなを深めるが、シャオユーは持病のぜんそくのせいで学校も休みがちになる……。というのが前半のストーリー。

このだらだらした前半を見ながら、秘密の予想はつき、こういうことなのだろうと思ったら、それを否定するような描写がある。あれ、そうではなかったのかと思ったら、やっぱりそういう話だったという、ふざけるのもいいかげんにしろ的展開なのである。秘密を伏せるための都合の良い描写が目に付きすぎる。要するに物語を語る技術が足りないのだ。これがハリウッド映画ならば、同じアイデアであっても、もう少しましなものになっただろう。

アイデアも目新しくはない。過去に何本も類似作品がある。しかもアイデア自体に破綻があって、なんでそういうことになるわけと思ってしまう。論理性を欠くのでSFと言いたくないのだ。となると、映画で評価できるのはヒロインのグイ・ルンメイだけということになるが、もう少し、魅力を引き出してほしいところ。次のルンメイ作品に期待したい。

監督・主演のジェイ・チョウは台湾のカリスマ・ミュージシャンでこれが初監督作品。第44回金馬奨で最優秀台湾映画、主題歌、視覚効果賞を受賞したそうだ。台湾映画のレベルを示すというか、賞自体の本質を示す結果としか言いようがない。この程度の出来の映画に賞をやっては本人のためにもよくないだろう。

Xfile 何の期待も予備知識もなく「Xファイル:真実を求めて」。公開2日目の日曜日にしては寂しい客の入り。それを象徴するように内容も何のために作ったのか分からない出来栄えだった。テレビシリーズが始まったのは1993年。2002年まで続いたそうだが、僕は第一シーズンのみ見ていた。1998年には映画も製作されたが、見ていない。今回は映画の前作から10年ぶり、シリーズ終了から6年ぶりの作品ということになる。

しかし、誰もこういう形での再登場は望んでいなかったのではないか。一番の不満は事件にSF味が極めて薄いこと。描かれるのは女性の連続失踪事件で、事件が終わった後に100年以上前のクラシックSFを引用した形容がなされるけれども、表面は単なる猟奇的な事件に過ぎない。

FBIに協力するサイキックは1人登場するが、それだけ。とても映画のスケールではなく、テレビで十分な内容なのだ。監督のクリス・カーターはテレビシリーズで製作・脚本・監督を務めた。かつてのテレビシリーズのファンのために作ったのかもしれないが、ファンもこの内容では満足しないだろう。カーター、自分のためだけに作ったのではないか。

少し老けたジリアン・アンダーソンはジュリアン・ムーアに似ている。デヴィッド・ドゥカブニーのセックス依存症は治ったんだろうか、なんてことを考えながら見ていた。この2人も結局、映画の世界ではスターにはならなかったので、B級キャストによるB級映画の域を出ていない。もうアイデアが決定的に足りない映画なのである。

Yaminokodomotati 「闇の子供たち」の上映に合わせて、阪本順治監督のトークショーが2日、宮崎キネマ館であった。

事前に原作を読んでいたので、映画は物語を反芻する感じにしかならなかったが、阪本順治流のアレンジが何カ所かあった。エイズにかかった少女を音羽恵子(宮崎あおい)がゴミ運搬車から助ける場面と主人公を新聞記者の南部(江口洋介)に変えて、ラストにその過去をフラッシュバックさせる場面。どちらも阪本順治のエンタテインメント気質が表れた場面で、原作にはない。このラストはサイコな映画によくあるもので、映画を見ながらそれはないだろうと思ったが、トークショーでの監督の話によれば、物語を遠い国で起こったことと思って欲しくなかったための措置だとか。それにしても、これがあることで社会派作品から一瞬、サイコドラマに変わってしまった印象がある。

阪本順治の映画としては「KT」の系譜に属する作品だが、題材の重たさに比べて出来の方は水準作にとどまった。重たいといっても原作よりはるかに軽いのはペドファイル(幼児性愛者)たちの子供に対する性行為が具体的に描かれないからだ。これは仕方がない。粘膜が割け、肉がきしむような過激な描写が映画でできるわけがない。その代わりに映画は白ブタのような白人男性やオタクのような日本人を出すことで、醜悪さと嫌悪感を表現している。

映画を撮るに当たって、監督は現地で児童買春と臓器移植について取材したそうだ。原作に書かれたことは10年から15年前のもので、今は子供に足かせをはめて暗い地下室に閉じ込めるようなことはやっていないという。だから映画には取材で分かったことも取り入れられている。それならば、取材を元に映画を構成しても良かったような気がする。なぜドキュメンタリーを撮らなかったのかという点について、監督は「自分はフィクションしか撮ったことはないし、ノンフィクションであっても監督の主観は入る。ドキュメンタリーだったら、少女が這いながら自宅に帰る場面は撮れない」と説明した。それと宮崎あおいや妻夫木聡のファンが映画を見に来て、この問題について知るという効果も確かにあるだろう。

ただし、原作を読んで映画を見ても僕は臓器移植については懐疑的だ。大きな災害の後に子供がいなくなることが多いそうで、そうやって連れ去られた子供たちは売春と移植組に分けられる、と監督は言ったけれども、そこを具体的に映画の中で明らかにしてくれないと、信用できないのである。こういう部分はノンフィクションじゃないと説得力がない。まあ、原作にも臓器移植の具体的な描写はないので、これは現地の警察の捜査を待たないと、無理なのだろう。

原作には出てこない心臓移植を受ける少年の父親役を佐藤浩市がさらりと好演。ゴミ運搬車から少女を助ける場面で宮崎あおいが殴られて倒れても反撃に転じる場面はいかにも阪本順治のタッチになっていた。

このほか、トークショーで印象に残ったこと。
 原作ではタイの山岳地域から子供が売られる場面があるが、これも今は変わっていて国境を越えて(ミャンマーやカンボジアあたり?)連れてこられることが多く、だから映画の中でタイ語を話す子供は1人だけにしたのだとか。そう言えば、タイ国境の場面が映画にあった。

細かいアレンジの部分では取材の成果が生かされているわけだが、分かりにくい部分だと思う。

それと、映画の中で音羽恵子が「さっちゃん」を歌うのは「子供の名前を重視したからだ」という。被害に遭っている子供たちが無名の存在ではないという主張の表れ。これは単に原作で妹の名前が幸子だったからじゃないかと思っていた。豊原功補が「つぐない」をカラオケで歌うのはテレサ・テンが死んだのが映画の舞台ともなっているチェンライだからだとか。これは映画の本筋とはあまり関係ない部分ではある。

Pako やっぱり中島哲也の映画は見逃せないと思い直し、キネ旬でも褒めてあったので見に行く。もう公開も終わり間近にしてはまずまずの入りだった。映画は「嫌われ松子の一生」ほどではないが、まあ面白かったというのが率直な感想。まるで舞台のような展開だなと思ったら、原作は舞台劇なのだそうだ。ディズニー風の音楽とともに始まるにもかかわらず、過剰なメイクと極彩色の色遣い、乱暴な言葉遣い、過激な描写、脱ドラマとユーモアが混ざり合って、いかにも中島哲也らしいポップさだ。でも本筋は真っ当で、ほろりときそうなラストをひっくり返し、さらにほろりとさせるように持って行くのがうまい。もっともこれは元の舞台の台本通りなのだろう。前半をコンパクトにして「松子」のように歌を散りばめてくれたら言うことはなかった。「松子」のようなミュージカルを期待していたのだ。

原作は後藤ひろひとの「MIDSUMMER CAROL ?ガマ王子VSザリガニ魔人?」。CAROLで分かるようにこれは「クリスマス・キャロル」にインスパイアされた物語だ。主人公の大貫(役所広司)は一人で会社を興し、仕事一筋に生きて会社を大きくしたが、発作で倒れて入院。「お前が私を知ってるってだけで腹が立つ」と周囲に当たり散らしているスクルージのような男で、周囲からはクソジジイと呼ばれている。ある日、大貫は病院の庭で「ガマ王子対ザリガニ魔人」という絵本を読んでいる女の子パコ(アヤカ・ウィルソン)に出会う。

パコは交通事故の後遺症で1日しか記憶が持たなかった。だから大貫の大事なライターを持っていて、大貫からぶたれても翌日は天使のような笑顔を見せる。パコの1日は誕生日で、ママから「毎日読んでね」とプレゼントされた絵本を毎日読んでいるのだった。両親は事故で死んだが、パコはそれを知らず「ママ、会いに来てくれないかな」と願っている。パコの頬に手を触れた大貫に対してパコは「おじさん、昨日もパコに触ったわね」と言う。大貫はパコに思い出を残してやりたいと病院の人たちにパコの絵本を演じてくれるように頼む。

「先生、俺は子供時代から泣いたことがないから涙の止め方が分からない。どうやったら止まるんだ」
 「簡単ですよ。いっぱい泣けばいいんです」

パコの身の上に涙した大貫に病院の院長(上川隆也)が言う。いっぱい泣いて、涙が涸れるまで泣いたら、涙は自然に止まる。泣きたいときには泣けばいいという当たり前のことをさらりと言うセリフが心に残る。そのほか、ユーモアの中での真実みのあるセリフが詰まっていて、これまた中島哲也らしいなと思わせる。

「ざけんじゃねえよ」と言いつつ、子供時代の不幸と唯一の希望だった思い出を、その希望を与えてくれた当事者で今は薬物依存症の入院患者(妻夫木聡)に語る土屋アンナのまるで「下妻物語」の延長のような弾けた役柄が良い。小池栄子の歯がギザギザですぐにかみつく凶暴な看護師も良い。残念なのは何回も見せられた予告編で物語の大筋が分かり、本編にはそれを大きく超える意外性がなかったことか。パコのために病院全体をセットにして絵本の扮装をした登場人物が所々で3DCGに変わるクライマックスもこちらのイメージ以上のものはなかった。

出演者は唯一過剰なメイクのない劇団ひとりや過剰だらけの阿部サダヲ、加瀬亮、國村隼などいずれも好演していた。

Eagleeye 巻き込まれ型のノンストップアクション&スリラー。全然内容を知らずに見て、それこそノンストップのアクションを堪能し、ヒッチコックの効果的な引用に感心し、クライマックスの「知りすぎていた男」のうますぎる換骨奪胎にしびれた。個人的には主人公のエモーションが最後まで持続する点で、ジェイソン・ボーンシリーズなんざ裸足で逃げ出す大傑作と思うのだが、世間的には評価が高くない。IMDBでは6.9。うーむ。まあいいや、十分すぎるほど楽しめたから。僕はベストテンに入れます。

主人公のジェリー・ショー(シャイア・ラブーフ)はスタンフォード大学を中退してふらふらしている男。双子の兄は空軍に入り、ジェリーとは違って優秀な男だったが、事故死してしまう。兄の葬儀の翌日、ジェリーの口座に75万ドルが振り込まれ、アパートに帰ると、部屋には大量の兵器が届いていた。戸惑うジェリーの携帯にFBIが踏み込むので逃げろ、と女の声で連絡が入る。半信半疑だったジェリーはテロリストとして逮捕されてしまう。同じ頃、シングルマザーのレイチェル・ホロマン(ミシェル・モナハン)にも女の声で電話があった。指示通りにしなければ、息子を殺す。ジェリーには再び女が電話をかけ、指示通りに行動してFBIのビルから脱出。レイチェルの運転する車にたどり着く。2人は訳が分からないままFBIから逃げ、謎の女の指示通りに動く羽目になる。

訳が分からないまま動く2人が巻き込まれるアクションが壮絶。カーアクションは「フレンチ・コネクション」を参考にしたらしいが、ちょっと撮り方に難はあるものの、スピード感は満点だ。何よりも謎だらけの展開なのに面白く物語っていく手腕に感心した。謎が途中で明かされるのはヒッチコック映画を踏襲している。その後は敵の目的が謎として残り、それも明らかになった後はサスペンス的展開となる。2人が選ばれた理由もここで分かる仕組み。謎が分かってしまうと、途端に失速する映画がよくあるけれど、この映画の場合、そこでSFチックな展開になるのがよろしい。そこにもやっぱり名作SFを引用してあるのが微笑ましかったりする。

FBIの捜査官にビリー・ボブ・ソーントン、空軍の捜査官にロザリオ・ドーソン。D・J・カルーソ監督の前作「ディスタービア」はヒッチコック「裏窓」の盗作であるとして製作のスピルバーグが訴えられた。カルーソは「テイキング・ライブス」でもヒッチコックタッチを引用していたから、相当にヒッチコックが好きなのだろう。もうそのあたりで贔屓の引き倒しにしてしまいます。ヒッチコック映画を知っていれば、より楽しめるが、知らなくてもスピーディーな展開に不満はないはずだ。アクション映画、サスペンス映画のファンは見逃してはいけない作品だと思う。

Yougisyax ほとんどスルーしようかと思っていたが、見て正解だった。原作の映画化としては成功の部類だと思う。といっても僕は原作にはそんなに思い入れはない。トリックの部分で感心しただけである。

原作にほぼ忠実な映画化で、「県庁の星」の西谷弘は今回も手堅い演出を見せている。これ、原作ファンにも不満はないのではないか。なんと言っても松雪泰子と堤真一がよろしい。ラストの慟哭の場面は切実さが足りない感じはあるが、我慢できる範囲内。原作もそうだが、この話は湯川(福山雅治)がメインではなく、この2人が中心なので、それ相応の演技力がいるのだ。大学時代は数学の天才と言われたのに今は冴えない中年の高校教師に堤真一はリアリティーを与えている。松雪泰子はどんどん良くなる感じ。

問題は容疑者Xの動機の部分の弱さか。これは原作にも感じたが、もっともっとキャラクターを描き込むべきだった。なぜ自殺しようとしたのか、隣に住む親子のどこが生きる希望を持たせてくれたのかを詳細に描かないと、殺人の動機に説得力がないのだ。原作の感想について、どう書いたか調べたら、あっちの日記にこう書いていた。

「よくできた本格ミステリで1位にも異論はないが、ぜいたくを言えば、もっと石神のキャラクターを掘り下げた方が良かったと思う。キャラクターよりもまだトリックの方が浮いて見えるのだ。社会に認められなかった天才数学者の悲哀をもっと掘り下げれば、小説としての完成度をさらに高めることができたのではないかと思う。これの倍ぐらいの長さになってもかまわないから、そうした部分を詳細に描いた方が良かった。一気に読まされてある程度満足したにもかかわらず、そんな思いが残った」。

映画もこうした部分の弱さを克服できていなかったわけである。

柴咲コウは相変わらず目の演技に細かさがある。所轄の刑事の描写に「踊る大捜査線」っぽい部分があるのはフジテレビが絡んでいるからか。福山雅治の演技も僕はありだと思う。脚本と音楽も手堅くまとまった佳作。見て損はないです。というか、ほとんど失敗する本格ミステリの映画化としては褒めていい出来だと思う。

アーカイブ

ウェブページ

2010年4月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち2008年観賞映画カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは2007年観賞映画です。

次のカテゴリは2009年観賞映画です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。