オーロラの彼方へ

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「オーロラの彼方へ」 30年の時を隔てて父と息子が無線交信するSFファンタジー。消火活動中に事故死するはずの父親を救ったことが未来に影響し、今度は母親が連続殺人の犠牲になってしまう。後半は母親(と他の犠牲者)を救うために現代と過去の両方で連続殺人の犯人捜しが描かれる。時間テーマSFに今流行のサイコな題材を盛り込んだわけだが、なんだか2本の映画を見せられたような気分。父と息子の交流を温かく描いた前半の作りがグッとくるだけにちょっと残念な思いがする。前半はニューヨーク・メッツがワールドシリーズを制した1969年の時代設定もいいし、デニス・クエイドが家族を愛する理想的な父親役を好演している。かといって後半の描写がつまらないわけではない。前半のタッチと異なるのと、ありふれた題材なのが困るのである。時間テーマSFならではの描写が多数あって楽しく(よくよく考えてみるとパラドックスも多い)、グレゴリー・ホブリット監督は手堅くまとめているのだが、その点だけが気になった。

映画は1969年、父親フランク(デニス・クエイド)の視点で始まる。タンクローリーの火災で逃げ遅れた2人を必死に救出する場面を迫力たっぷりに見せた後、妻のジュリア(エリザベス・ミッチェル)、息子のジョン(子役)との幸福な家庭が描かれる。ジョンは野球が好きで、将来はプロ選手になる夢を持っていた。ちょうどニューヨーク・メッツが快進撃を続けていた時代。人々の関心はワールドシリーズの行方に集まっている。そして30年後の場面。成長したジョン(ジム・カヴィーゼル)は警察官となっていたが、恋人と別れ、私生活では孤独な日々。父親は事故死し、母親も一人暮らしだった。ある日、幼なじみのゴード(ノア・エメリッヒ)の息子が物置にしまっておいたフランクの無線機を見つける。その無線機から応答を求める声が聞こえてきた。交信しているうちにジョンは相手が30年前の父親であることを知る。ニューヨークの空に現れたオーロラが時空を超えて2人の交信を可能にしたらしい。ジョンはフランクが事故死することを告げ、「父さんは直感に従って行動したんだ。ほかの脱出ルートなら助かる」と忠告する。

フランクはジョンの忠告に従って助かる(ジョンの記憶が父親が生きているように変わるのをグレゴリー・ホブリットはうまく表現している)。フランクが机に「まだ生きてるぞ」と文字を刻みつけたのが30年後、同じ机に浮かび上がるという描写は時間テーマSFならではで面白い。しかしその晩、フランクが妻の勤める病院に行ったことが未来に影響。ジョンの記憶はまた変わった。母親は連続殺人の犠牲になってしまっていたのだ。しかも元の世界では3人だった犠牲者が、10人に増えている。ジョンとフランクは協力し、無線交信で犯人を追いつめていくことになる。

俳優の序列や描写の多さから見ても、主人公はデニス・クエイドなのだが、観客としては1999年の立場で見てしまう。一方だけの視点で物語を組み立てた方が時間テーマSFとしては面白くなったと思うが、難しいところではある。主人公の記憶に世界が変わる前と変わった後の2つが保持されているというのがポイントで、これが完全に変わってしまったら物語は成立しない。デニス・クエイドの視点だけで描けば、これは回避できたと思う。しかし、そうした設定上の弱さがほとんど気にならないのは監督の手腕だろう。絶対にこうなるはずと予想がつくラストも含めて気持ちよく見られる作品と思う。

【データ】2000年 アメリカ 1時間58分 ギャガ=ヒューマックス共同配給
監督:グレゴリー・ホブリット 製作:ホーク・コッチ グレゴリー・ホブリット ビル・カラロ トビー・エメリッヒ 製作総指揮:ロバート・シェイ リチャード・サパースタイン 脚本:トビー・エメリッヒ 撮影:アラー・キヴィロ 美術:ポール・イーズ 衣装デザイン:エリザベッタ・ベラルド 音楽:マイケル・ケイメン
出演:デニス・クエイド ジム・カヴィーゼル エリザベス・ミッチェル アンドレ・ブラウワー ノア・エメリッヒ

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バトル・ロワイアル

「バトル・ロワイアル」 本多勝一が家庭内暴力や登校拒否のルポに「子どもたちの復讐」と名付けたのは、そうした事象が現在の歪んだ社会への不満の噴出と見たからだが、少なくとも深作欣二はこの映画で社会を直接的に照射することなど考えてはいなかっただろう。クラスメートを殺さなければ自分が死ぬという極限状況は戦争に近いシチュエーションである。深作欣二は自分の戦争中の原風景を織り交ぜ、戦争映画としてこの題材を映画化した。そしてこのことで映画は普遍性を得た。殺し合う中学生を普通の大人に変えても成立する映画なのである。しかし同時に深作欣二はダメな大人の視点から若者へしっかりとエールを送ってもいる。リストラされ、妻に逃げられた主人公秋也の父親は「頑張れ秋也、頑張れ秋也、頑張れ秋也」と書き残して自殺する。家でも学校でも馬鹿にされる教師キタノ(北野武)は好意を寄せる女生徒に自分を殺すよう仕向ける。そして主人公2人が都会を駈けていく姿に「走れ。」と出る字幕。「頑張れ、頑張れ、頑張れ」「走れ、走れ、走れ」。深作欣二はダメな社会を変革する若者の力を信じ、鼓舞しているのだと思う。生ぬるさとは無縁の熱い熱い映画だ。疑いようのない傑作であり、絶対の必見。

考えてみれば、BR(バトル・ロワイアル)法という不条理な法律を作った社会は全体主義社会の怖さを思わせ、国民を総動員して一部階級の利益のために他国と戦争をさせたかつての日本の姿とだぶって見える。殺し合いの場に放り込まれた中学生たちは生き残るために進んで殺し続ける者もいれば、戦いを放棄して自殺するものもいる。平和を呼びかけ、あっけなく殺される者もいれば、疑心暗鬼から内ゲバを起こして自滅するグループもいる。悲惨な戦い、不条理な戦い、絶望的な戦い、かっこいい戦い、みじめな戦い、恐怖の戦い、自分を守るための戦い、あらゆる種類の多くの戦いが立て続けに描写され、圧倒される。だからこそこれは戦争映画なのである。戦いとはどういうものか、殺し合いがどういう結果につながるのか、人が極限状況の中でどんなエゴイズムを見せるかをしっかりと描いている。

殺伐とした戦場の中で唯一のヒューマニズムを象徴するのが主人公・七原秋也(藤原竜也)と中川典子(前田亜季)で、与えられた武器が鍋のふたと双眼鏡という役に立たないものでなくても、この無条件に信じ合う2人の姿には希望を抱かされる。それに謎の転校生川田章吾(山本太郎)の存在がある。川田はかつてバトル・ロワイアルに参加させられ、好きな女生徒と2人生き残ったが、最後には殺し合ってしまった過去を持つ。女生徒が死ぬ間際に言った「ありがとう」という言葉の意味を知るために再び戦いに参加したという設定である。川田が秋也と典子の姿にかつての自分の姿をだぶらせているのは間違いなく、この2人を殺さず助けるのはそのためだろう。この映画で唯一の不満はこの3人が自分たちをこんな状況に追い込んだ社会に対するファイティングポーズを明確にしないこと。深作欣二はラストシーンに都会の群衆に向かって銃を乱射する秋也も考えたという。それならば、社会への復讐の意志がはっきりするのだが、よくよく考えてみれば、それでは物語が矮小化されてしまったかもしれない。単なるテロリストになってはこの映画のラストのような希望を感じることはできなかっただろう。

「きょうは皆さんにちょっと殺し合ってもらいます」。キタノがいうセリフやバトル・ロワイアルの方法を解説するビデオ(宮村優子が爆笑の怪演)など、全体を覆うブラックユーモアは映画を絵空事のように見せるけれども、深作欣二は本気である。本気で自分の思いを込め、映画製作にあくまでも真摯な姿勢を貫いている。そのエネルギッシュさには脱帽するしかない。主演の2人もいいが、鎌を振りかざして凄絶な戦いを繰り広げ、「あたしただ奪う側に回ろうと思っただけだよ」とつぶやく柴咲コウと、「あたしの全存在をかけてアンタを否定してあげる」ときっぱりと言い放つ栗山千明が鮮烈に輝く。殺されていく他の中学生たちも総じて印象に残る演技をしており、この映画には「仁義なき戦い」のような集団劇的魅力も満載されているのだった。

【データ】2000年 1時間53分 配給:東映
監督:深作欣二 企画:佐藤雅夫 岡田真澄 鎌谷照夫 香山哲 エグゼクティブ・プロデューサー:高野育郎 プロデューサー:片岡公生 小林千恵 深作健太 鍋島壽夫 脚本:深作健太 撮影:柳島克己 美術:部谷京子 音楽:天野正道 主題歌:「静かな日々の階段を」Dragon Ash
出演:藤原竜也 前田亜季 山本太郎 塚本高史 高岡蒼佑 小谷幸弘 栗山千明 石川絵里 三村恭代 島田豊 宮村優子 柴咲コウ 安藤政信 ビートたけし

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ダンサー・イン・ザ・ダーク

DANCER IN THE DARK

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」 「目が見えないのか」と問われて、主人公が歌い出す“I've Seen It All”のシーンが素晴らしい。「私はすべて見た。もうこれ以上見るものはなにもない」。ビョークの歌に合わせて列車の上の労働者が、付近の家の夫婦が歌い、踊る。過酷な運命を生きる主人公の思いを振り絞るように表現したとてもミュージカルらしいシーンだ。この前にある工場での最初の歌と踊りのシーンも、それまでの暗い画面とストーリーを払拭する鮮やかさで、溌剌としている。しかし、素晴らしいのはこの2つの場面だけだった。ラース・フォン・トリアーはミュージカルを根本的に誤解している。具体的には書かないが、この主人公はラスト近く、過酷な運命に暗く恐怖を覚ているのに空想のミュージカルシーンになると、笑顔を見せ、楽しそうに踊るのである。抑えきれない感情の高まりが歌になり、踊りになるのが本来のミュージカルなのに、現実の気持ちと乖離していては著しく興ざめである。この映画は救いようのない悲劇だからダメなのではなく(いや、そういう部分もあるが)、歌と踊りに必然性がないからダメなのである。ミュージカルの組み立て方がまるで分かっていない。ビョークの歌そのものは良いだけにトリアー演出の不備が余計に目立つ。

1960年代のアメリカが舞台。主人公のセルマ(ビョーク)はチェコからの移民である。息子ジーン(ブラディカ・コスティク)と2人で、警官ビル(デヴィッド・モース)のトレーラーを借りて住み、工場で働いている。一切無駄遣いをせず、つつましい暮らしだが、セルマにはそうせざるを得ない事情があった。生まれつきの病気で徐々に視力を失い、間もなく失明することが分かっているのだ。息子も手術を受けなければ、同じ運命をたどってしまう。セルマは息子に手術を受けさせるためアメリカに渡り、少ない賃金の中から蓄えを続けてきたのだった。しかし、父親の遺産を受け継いで裕福と思われていたビルは浪費家の妻のために銀行への借金が膨らみ、セルマの金を盗む。セルマはそれを取り返そうとしてビルを殺してしまう。

このストーリー自体、もともとミュージカル向きとは言えないだろう。セルマはミュージカルに憧れ、地元の劇団で舞台に立つための練習をしている。工場の騒音や生活の中のさまざまな音がリズムとなり、セルマを空想へと導く。セルマにとってこれは過酷な現実から逃れるための手段なのである。トリアーは現実の場面を暗くざらざらした映像で描き、セルマが空想するミュージカルの場面を色鮮やかなタッチで描く。本来、これは効果的なはずなのだが、前述したように2つの場面を除いては主人公の気持ちと食い違っているから、ミュージカルシーンが取って付けたような印象になるのである。これならばミュージカルにする意味はない。

トリアーがミュージカルをどう分かっていないかはパンフレットを読むとよく分かる。「私はミュージカルのようなものを真剣に受け止めさせるのは興味深いことだと思っていた」。もうこの言葉だけで、ミュージカルをシリアスドラマより下に見ているのは明白である。「ジーン・ケリーや『ウエスト・サイド物語』などの例外もあるけれど、多くのミュージカルはただ楽しませるためのエンタテインメント作品としてしか存在していない」。アホか。こんな分かっていない監督が演出したミュージカルが優れた作品になるわけがない。“ただ楽しませるためのエンタテインメント作品”がどれほど人の心を豊かにするか、この映画の主人公はなぜミュージカルに憧れるのか、トリアーは極めて表面的にしかとらえていないのだろう。だから映画の中でセルマに思いを寄せるジェフ(ピーター・ストーメア)の「なぜミュージカルは歌ったり、踊ったりするんだ」というセリフはそのままトリアーの正直な気持ちなのかもしれない。少なくともこの映画を見てミュージカルに憧れを抱く人はいないだろう。

【データ】2000年 デンマーク 2時間20分 配給:松竹 アスミック・エース
監督:ラース・フォン・トリアー 製作:ヴィベケ・ウィンデロフ 製作総指揮:ペーター・オールベック・ヤンセン エグゼクティブ・プロデューサー:マリアンネ・スロット ラース・ヨンソン 脚本:ラース・フォン・トリアー 撮影:ロビー・ミュラー 振付:ビンセント・パターソン 音楽:ビョーク 美術:カール・ユリウスン 衣装:マノン・ラスムッセン 音響:ペア・ストライト
出演:ビョーク カトリーヌ・ドヌーブ デヴィッド・モース ピーター・ストーメア ジョエル・グレイ ビンセント・パターソン カーラ・セイモア ジャン・マルク・バール ブラディカ・コスティク ジョブハン・ファロン ゼルイコ・イヴァネク ウド・キアー

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レッド プラネット

RED PLANET

「レッド プラネット」 昨年の「ミッション・トゥ・マーズ」に続く火星を舞台にしたSF映画。いきなり宇宙船内部のシーンで始まり、地球が一切登場しない作り方は宇宙SFとして大変好ましい(もっとも環境汚染が進んだ未来の地球を描くのにもそれなりに金はかかるだろうから、予算的な制約があったのかもしれない)。SFXも最近の例に漏れず充実しており、リアルな宇宙と宇宙船を見せてくれる。設定がリアルなのはいいのだが、話もそれほど現実から飛翔しない点は残念。これならばまだ、ありふれた描写にがっかりさせられたとはいえ、「ミッション・トゥ・マーズ」の展開の方が映画的には面白いと言える。CMディレクター出身で監督デビューのアントニー・ホフマンの演出は緩急に乏しく、十分なサスペンスやスリルを盛り上げることができていない。冒頭、物語の設定と乗組員を船長ボーマン(キャリー・アン・モス)のナレーションで説明する点もやや安直な手法だ。手慣れたブライアン・デ・パルマと新人との力の差が出たと言えようか。

2057年、地球環境は破壊され、人類は存亡の危機を迎えていた。一縷の望みを託して人類は火星地球化計画(テラフォーミング)を進める。極冠の氷を溶かし、藻類を火星に移植、酸素を発生させたが、ある時、順調に送られていたデータが突然途絶える。その調査に出かけるのがこの映画が描くマーズ1号だ。船長のボーマン以下、乗組員は6人。マーズ1号は火星に接近した所で大規模な太陽フレア(太陽風のこと?)の直撃を受け、宇宙船の機能が停止する。着陸船で火星への脱出を図るが、自動制御できず、ボーマンが船内に残って手動で着陸船を射出する。火星に到着した乗組員のうち、最年長のシャンティラス(テレンス・スタンプ)は着陸時の衝撃で膵臓が破裂。残った4人で火星基地に向かう。しかし基地は粉々に破壊されていた。しかも同行した犬型のナビゲーションロボットのAMEE(エイミー)が着陸の衝撃で戦闘モードに変わり、乗組員たちを襲ってくる。

残り少なくなる酸素やロボットの恐怖、基地を破壊したものの正体(これはちょっとがっかり)など火星上の場面と、地球と交信しながら宇宙船修理にあたるボーマンの様子が描かれる。危機また危機という感じがしないのは演出が弱いためだろう。ロボット自体のSFXは大変良くできているが、これとの対決がクライマックスとなるのはちょっと違うような気がする。やはりここは基地を破壊したものとの対決を持ってくるのが本筋。しかし、この映画が設定した生物では役者不足である。最近、少し先の時代の宇宙をリアルに描く作品が多いけれど、こちらが宇宙SFに期待するのは壮大なスペキュレーションであり、スペクタクルなのである。大嘘を描く宇宙SF映画を見たいものだ。

キャリー・アン・モスは「マトリックス」に続いて非常にいい。主演のヴァル・キルマーの上司という感じの貫禄があり、それでもなおヴァル・キルマーと恋に落ちる女らしさもまた情感たっぷりに漂わせている。

【データ】2000年 アメリカ 1時間46分 配給:ワーナー・ブラザース
監督:アントニー・ホフマン 脚本:チャック・ファーラー ジョナサン・レムキン 原案:チャック・ファーラー 製作:マーク・カントン ブルース・バーマン ジョージ・サラレギー 製作総指揮:チャールズ・J・D・シュリッセル アンドルー・メイソン 撮影:ピーター・サシツキー 美術:オーウィン・パタソン 音楽:グレイム・レベル 衣装:キム・バレット 視覚効果監修:ジェフリー・A・オークン
出演:ヴァル・キルマー キャリー・アン・モス トム・サイズモア ベンジャミン・ブラット サイモン・ベイカー テレンス・スタンプ

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