60年代の同名テレビシリーズを「メン・イン・ブラック」「アダムス・ファミリー」のバリー・ソネンフェルドが映画化した荒唐無稽なSFアクション西部劇。ソネンフェルドの映画はブラックな笑いが特徴で、この映画でもそれは随所に現れている。このブラックさ、もう少し突き詰めれば、傑作が生まれる予感もするのだが、普通のブラックさにとどまっている。意外性がない、というか常識的なのだ。そこが惜しいところ。今回は“西部劇版ジェームズ・ボンド”を目指したそうで、各種の小道具やタランチュラを模した巨大な兵器と美女が多数登場する。兵器などの造形は悪くないのだけれど、演出が単調でストーリーに観客を引きつけるものが足りない。キャラが立っていない。その場その場の場面で終わり、映画が終わった後にはそれこそ何も残らない。個人的には好きなジャンルの映画だが、演出が緩んだ凡作と言わざるを得ない。
1869年のアメリカ。高名な科学者が次々に行方不明になる。事件の首謀者はアーリス・ラブレス博士(ケネス・ブラナー)。ラブレスは南北戦争中、南軍の兵器開発中に事故を起こし、下半身が機械という姿になってしまった。以来、北軍に復讐心を抱き、科学者たちを誘拐して新兵器を開発。グラント大統領(ケヴィン・クライン)に対し、無条件降伏と合衆国の引き渡しを要求してきた。大統領は陸軍大尉のジム・ウエスト(ウィル・スミス)と連邦保安官アーティマス・ゴードン(ケヴィン・クライン二役)の2人にラブレスの野望を砕くよう命じる。ウエストは凄腕のガンマン。仲間を殺した元南軍のマグラス将軍を追跡中だった。ゴードンは知性派で発明家、変装(女装)の名人という設定。2人は反目しながら、ラブレスを追う。これに父親をラブレスに誘拐されたリタ(サルマ・ハエック)が絡んでくる。
元になったテレビシリーズは見たことがないが、設定としてはなかなか面白い。特に中盤からクライマックスにかけて登場する巨大な動く要塞タランチュラのSFX(ILM担当)は魅力的である。その動きとスケールは凄い。パンフレットを見ても、こうした兵器にかなり力を入れていることが分かる。美術、セット、SFXなどは申し分ない。問題はそういう良い素材を生かしていないストーリーと演出にあり、ヒネリもメリハリもなく、退屈さを感じる。一応、ストーリーに沿って演出しました、というだけである。
ケネス・ブラナーはマッド・サイエンティストを怪演しているけれど、こんな映画に出ていてはダメでしょう。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビも今ひとつ息が合っていない。ジョークに下ネタが多いのも、あまり上等ではない印象の一因になっている。
【データ】1999年 アメリカ映画 1時間46分 ワーナー・ブラザース配給 製作:ジョン・ピーターズ バリー・ソネンフェルド
監督:バリー・ソネンフェルド 脚本:S・S・ウィルソン ブレント・マドック ピーター・S・シーマン 原案:ジム・トーマス ジョン・トーマス 撮影:マイケル・バルハウス 美術:ボー・ウエルチ 音楽:エルマー・バーンスタイン 視覚効果監修:エリック・ブレビグ
出演:ウィル・スミス ケヴィン・クライン ケネス・ブラナー サルマ・ハエック M・エメット・ウォルシュ テッド・レビン フレデリック・バン・ダー・ウォル ミュゼッタ・バンダー ソフィア・エング バイ・リン
この映画ほど、予告編と本編のイメージが違う映画も珍しい。予告編では「ストリート・ファイター」や「ダーティー・ファイター」(古いね)のようなストリート・ファイトを描いた作品と思わされたが、本編のテーマはそんなところにはない。不眠症に悩む青年ジャック(エドワード・ノートン)が陥る破壊への衝動。サイコロジカルな映画なのである。今夏にアメリカで起こった銃乱射事件に影響したと話題になった作品で、現代人の精神の病巣をえぐってなかなかに興味深い。極小から極大へと縦横に動き回るカメラを駆使し、デヴィッド・フィンチャーはタイトな演出を見せた。2000年正月映画では一番の注目作。
映画はジャックがビルの一室で拳銃を口に入れられた場面から始まる。周囲のビルには爆薬が仕掛けられ、爆発の時間が迫っている。なぜ、こんなことになったのか。映画はジャックの回想で描かれる。ジャックは自動車会社のリコール調査員として全米を駆け回っている。豪華なコンドミニアムで暮らすヤッピーだが、ひどい不眠症に悩まされていた。医者から「そんなのは苦しみじゃない。本当の苦しさを知りたかったら、ガン患者の会に行け」と言われ、睾丸ガン患者の告白の会に出席する。患者同士で涙を流し合うことで安らぎを得たジャックは次々にそうした告白の会に出席するようになる。そうしているうちに自分と同じように会を渡り歩く女マーラ(ヘレナ・ボナム・カーター)と出会う。マーラは「映画より面白い。コーヒーもただで飲めるもの」と理由を話す。
ある夜、ジャックが出張から帰ると、コンドミニアムはガス爆発を起こしていた。泊まるところもなく、困ったジャックは飛行機の中で隣に座った男タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)に助けを求める。タイラーとは同じカバンを持っていたことから話が合い、名刺を交換していた。一緒に飲みに出た帰り、タイラーは「泊めてやるから、俺を殴れ」という。暴力とは無縁の生活を送っていたジャックはタイラーと殴り合うことで、解放感を得る。タイラーの廃屋で一緒に生活を始め、週末には殴り合うようになるのだ。殴り合いに共感する仲間は徐々に増え、秘密のファイト・クラブが結成される。クラブ内での暴力はやがて外に向かうようになり、そしてクラブはジャックが予想もしなかった狂気の破壊集団へと変わっていく。
紹介が長くなったが、このストーリーは表面的なもので、映画はその奥に現代的な主題を抱える。表面的なストーリーとこのテーマが絡み合い、焦点深度が深い作品になった。肉が裂け、骨が砕ける暴力になぜ人は惹かれるのか。カルト集団はなぜ生まれるのか。この映画はそうした世紀末のアメリカが抱える病巣を照らした作品とも言える。個人の病巣と社会の病巣が一致するところに怖さがあるのだ。ビジュアルな描写も含めて、デヴィッド・フィンチャーは初めて自分のスタイルを確立したようだ。エドワード・ノートンとブラッド・ピットの演技も納得のいくレベルである。
【データ】1999年 アメリカ映画 2時間19分 製作総指揮:アーノン・ミルチャン 製作:アート・リンソン ショーン・チャフィン ロス・グレイソン・ベル
監督:デヴィッド・フィンチャー 原作:チャック・ポーラニック「ファイト・クラブ」 脚色:ジム・ウールス 撮影:ジェフ・クローネンウェス 音楽:ザ・ダスト・ブラザーズ
出演:エドワード・ノートン ブラッド・ピット ヘレナ・ボナム・カーター ミート・ローフ・アディ ザック・グレニアー デイビッド・アンドリュース ジョージ・マクガイアー ユージニー・ボンデュラント クリスティナ・キャボット
「男になぶられているうちに化け物になったな」。こうつぶやいた土方歳三(ビートたけし)は、そばにあった桜の木を一刀両断にする。夜桜がはらりと倒れる場面を完璧な構図でとらえて、映画は唐突に終わりを告げる。大島渚13年ぶりの映画「御法度」は新撰組に入隊した1人の美少年をめぐる隊員たちの衆道(男色)の確執を描く。池田屋事件のような大きな事件も起こらず、新撰組内部の話に終始、スケールとしては小さい。そのスケールに合わせたカタルシスがこの場面なのである。極めて的確なラストと思う。隊員の中で衆道趣味のない土方にとって、組織を揺るがす美少年の存在は魔物なのだ。大島渚は破綻のない演出で、主題を描ききった。しかし、この映画、ストーリーや主題よりもスタッフの一流の仕事の方に目を奪われる。栗田豊通の陰影に富んだ撮影をはじめ美術、衣装、音楽、殺陣、俳優の演技がどれも高いレベルでまとまっているのである。その意味でこれは映画の技術そのものを見るための映画とも言えるだろう。スタンリー・キューブリック「バリー・リンドン」のように器が中身を凌いだ好例と言えようか。
栗田豊通は脚本を読んで、「ベニスに死す」のセンで撮影することを提案したという。なるほどと思う。美少年が老教授の心を惑わす「ベニスに死す」とこの映画、構造的には似ている。「ベニスに死す」の場合、影響されるのは老教授だけだったが、「御法度」は数人の隊員を巻き込み、殺傷事件に発展する。その原因となる美少年・加納惣三郎(松田龍平)は隊員を選ぶ試合で剣の腕を見込まれて、田代彪蔵(浅野忠信)とともに入隊した。前髪をまだ落としていない18歳。隊長の近藤勇(崔洋一)もその美しさに興味を持った様子だ。田代は当初から惣三郎に惹かれ、布団に潜り込む。加納は断ったが、新撰組の中では「加納と田代はできている」との噂が立つ。同じく隊員の湯沢藤次郎(田口トモロウ)も加納に言い寄り、衆道の関係を結んでしまう。やがて湯沢の斬殺死体が発見される。以上が原作の「前髪の惣三郎」の部分。これに「三条磧乱刃」の話、つまり40代の隊員井上源三郎(坂上二郎)のエピソードを挟む。井上は近藤、土方とともに新撰組設立時からの主要メンバーだが、剣の腕はまるでない。井上と加納の剣の練習を見た浪人2人から嘲笑される。隊として見過ごすわけにはいかない、との判断で土方は浪人2人の始末を井上と加納に命じる。必死の捜索の末、加納は浪人の居場所を突き止め、井上とともに乗り込むが、逆に凄腕の浪人から太刀を浴びせられ、ケガをしてしまう。
はっきり言って「衆道の話だけだったらかなわないな」と思っていたが、このサイドストーリーを入れたことで、映画は幅を広げた。井上を演じる坂上二郎の飄々とした持ち味がいいし、浪人役の的場浩司も出番は少ないながら凄みのある面構えで強烈な印象を残す。後半に登場する監察役の山崎(トミーズ雅)のユーモアもまた映画の収穫だろう。こうした出演者の好演とワダエミの従来の新撰組観を払拭する衣装、坂本龍一の流麗な音楽、西岡善信の完璧な美術が相俟って、映画の印象は極めて豊かなものになった。剣の練習場面ほか、殺陣には迫力があり、チャンバラ映画としての魅力も併せ持つ。急いで付け加えておけば、そうした個々の技術をまとめ上げていくことも監督の手腕がなければ始まらない。
故松田優作の長男松田龍平は真意を明らかにしない役柄のせいもあってミステリアスだ。僕はストーリーが進むにつれて、この若者は新撰組を瓦解させるために入隊したのでは、と裏読みしたが、これは土方のセリフ通りの役だった。他の出演者もそれぞれに適役である。主要登場人物の中で唯一まともなビートたけしは儲け役ではあるが、真っ当な演技を見せる。崔洋一監督もこんなにうまいとは思わなかった。十分に役者としてやっていけると思う。
【データ】1999年 1時間40分 企画・製作:大島渚プロダクション 製作・配給:松竹
監督:大島渚 原作:司馬遼太郎「新撰組血風録」(「前髪の惣三郎」「三条磧乱刃」) 脚本:大島渚 撮影:栗田豊通 美術:西岡善信 衣装デザイン:ワダエミ 音楽:坂本龍一
出演:ビートたけし 松田龍平 武田真治 浅野忠信 的場浩司 トミーズ雅 崔洋一 坂上二郎 伊武雅刀 桂ざこば 神田うの 田口トモロウ 藤原喜明 吉行和子
1000年紀の終わりに悪魔が牢獄から出る−という言い伝えを元にしたホラー。というよりもシュワルツェネッガー主演だから、アクションの方に重点が置いてある。しかし、描写が陰惨なうえ、「オーメン」を連想させるようなストーリーにも目新しさがなく、見るべき部分はほとんどない。ピーター・ハイアムズは出来不出来の激しい監督で、今回は不出来、それも相当に不出来な方である。20年以上前、やはり正月映画として公開された「カプリコン1」にあった鮮烈な娯楽映画的感動は「エンド・オブ・デイズ」には微塵もなかった。こんなレベルではかつてのファンとしては泣きたくなる。スタン・ウィンストンのSFXも今ひとつピリッとしていない。
1999年12月、ニューヨークの地下からサタンが現れ、ウォール街のエリート銀行マン(ガブリエル・バーン)の体を乗っ取る。サタンの目的は20年前に生まれた女クリスティーン(ロビン・タニー)に自分の子どもを生ませること。そうすれば、神の時代に代わって悪魔の時代が到来する。悪魔復活の前兆に気づいたバチカン市国の一部の修道士たちはそれを阻止するため、クリスティーンを殺そうとする。ガードマンのジェリコ(アーノルド・シュワルツェネッガー)はある日、エリート銀行マンの警護中に狙撃してきた修道士と格闘。その際、修道士が口にした言葉「1000年紀の終わりに悪魔が復活する」の謎を探り始める。同僚のシカゴ(ケヴィン・ポラック)とともに修道士の身辺を洗い、クリスティーンの存在を知る。修道士の襲撃からクリスティーンを救ったジェリコは続いて襲ってきた悪魔と否応なく決死の戦い始めることになる。
とりあえずミレニアムの終わりだから、何かそれにちなんだ映画を−との企画なのだろう。底の浅い脚本が最大の失敗原因。一つのアイデアだけで、アクションを連ねる構造には無理がある。だいたい悪魔とただの人間が闘って勝てるわけがない。ここはやはり神の要素をもっと明確に取り入れるべきだった。クライマックスの悪魔とジェリコの戦いは、ハルマゲドン的様相がなくてはならないと思う。ただのアクションではスケールが小さすぎるのだ。アンドリュー・W・マーロウ、力量不足である。
こんな脚本でも製作費を150億円かけているのだから、それなりにアクションの見せ場はある。ハイアムズの演出は個々のアクション場面に関してはまずまずなのだが、その場その場で終わってしまい、全体が盛り上がっていかない。殺戮に終始するので、そのうち飽きてきてしまう。本当の姿を現した悪魔の造形にもがっかり。ウィンストン、もう少しなんとかならなかったものか。シュワルツェネッガーも慎重に主演作品を選んでいかないと、ヤバイことになるような気がする。
【データ】1999年 アメリカ 2時間2分 ビーコン・ピクチャーズ提供 ギャガ・ヒューマックス 東宝東和共同配給 製作総指揮:マーク・エイブラハム トーマス・A・ブリス
監督:ピーター・ハイアムズ 脚本:アンドリュー・W・マーロウ 撮影:ピーター・ハイアムズ 音楽:ジョン・デブニー VFX総監修:スタン・ウィンストン
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー ガブリエル・バーン ケヴィン・ポラック ロビン・タニー CCH・パウンダー ロッド・スタイガー デリック・オコナー ウド・キアー ヴィクター・バルナード