脚本家ができるまで

丸山昇一インタビュー

宮崎県日向市でかつて「日向映画祭」という映画祭が開かれていた。その1988年の日向映画祭に脚本家の丸山昇一さんがゲストとして参加された際、1時間ほど取材することができた。主に脚本家になるまでの経緯を聞いたのだが、冗談を交えながらの話は大変面白かった。インタビューの時期が10年以上前のもので古いが、丸山さんが脚本家になるまでの経緯は分かりますので参考までにアップしておきます。

丸山昇一(まるやま・しょういち)1948年、宮崎県北郷町生まれ。1979年テレビ「探偵物語」(松田優作主演)でデビュー。映画は「処刑遊戯」「翔んだカップル」「野獣死すべし」「ヨコハマBJブルース」「汚れた英雄」「俺っちのウェディング」「紳士同盟」「ラブ・ストーリーを君に」「ふたりぼっち」などがある。

−まず、脚本家を日指したきっかけは何だったんですか。

丸山 日南高校で演劇部に入ったんだけど、秋に文化祭があるよね、あれで上演する予定の脚本がまったく面白くない。「なーんだ、こんな物、俺だって書けるよ」って言って1年生の時に一晩で書いた。それが地元の新聞に取り上げられてね。3年生のマドンナには「あなた、才能あるわよ」って褒められるし、「もう、俺の行く道はこれしかない」って思っちゃった。次の日から脚本のことしか頭になくなって、夢遊病みたいな感じになった。お陰で300何十人中真ん中ぐらいだった成績が300何十番まで落ちたりしたね。親は心配するわな。

−その作品はどういうものだったんですか。

丸山 あんまり覚えていないんだけど、何かよくある青春物だったね。親父は「まだ物置の中に置いてある」って言うけど、見ていないんだ。で、夏休みに1万円持って東京に家出したわけよ。喫茶店でバイトを見つけて、生活の道を確保して六本木でまず芝居を見た。モリエールだったかな、外国の芝居で、セットは素晴らしいし、これは自分には無理だと思った。で、映画に鞍替えした。銀座の本屋に入ったら、「シナリオ年鑑」という本が目について、シナリオなんて言葉は何のことかも知らなかったけど、何となく感じるものがあったんだろうね、1800円出して買ったんだ。新藤兼人の「鬼婆」が入ってて、これにはショックを受けたね。夏休みも終わりに近づいたんで、喫茶店のマスターに旅費を借りて−結局、返さなかったんじゃないかな−北郷に帰って、年鑑を読みふけった。

−そして日大芸術学部に進学するわけですね。

丸山 そう、映画学科のある大学だからね。旺文杜の全国模試を受けたら、定員60人中60播。これはヤバイってんで、似たような学科を捜したら、早稲田に演劇科があった。ところが、こちらは300番なんだ。問題の意味も分からない。で、日大を受験した。奇跡の的中率というか、試験科目のヤマが全部当たって、3科目とも満点で入学時のトップだった。これは語り草だぜ。入学式で新入生代表のあいさつやったんだから。でも、入ってみて驚いたね。みんなすごいんだ。フェリー二とかアントニオー二とかいう言葉がポンポン出てくる。こっちは北郷の山猿で黒沢明の「赤ひげ」ぐらいしか見ていなかったからさ、いったい何のことやら分からない。詩人の名前かと思ったぜ。でも、そういう連中は学校の講義とかぽとんど馬鹿にしちゃってまともに聞きゃしない。基本的なことしか教えないからね、大学じゃ。俺は原稿用紙の書き方から教わったね。とにかく何も知らないから、砂の中に水がしみこむように何でも吸収するわけよ。すべてが新鮮だったね。1年間そういうふうに過ぎていって、最初に書いたのが「蒼いさすらい」っていう本だった。

−学生時代に好きな映画はありました?

丸山 ニューシネマの影響をすごく受けているんだけど、なかでも「卒業」が好きだね。文芸座の試写会で見たのかな。「蒼いさすらい」もほとんど「卒業」の模倣なんだ。映画が変わっていった時代だったな。それまでのハリウッド映画と違って何でもないことを描くんだから。

−僕は「バニシング・ポイント」が好きでした。

丸山 あれも何もないけど、いいよね。で、2年目に日大紛争が始まった。これが訳が分からなかった。どうして警官隊と殴り合わなくちゃいけないのかって、唖然としてた。バリケードの中に入っても分かんない。1年ちょっとして落ち着いて、師匠の猪股勝人さんに付いて勉強するようになった。この人は田山カ哉さん(註・亡くなった映画評論家。田山さんも日向映画祭にはよく参加してくださった)の伯父さんなんだけど、どっしりしたものを書かないと怒られたね。毎週60枚−テレビの30分物ぐらいの長さ−を書いてた。弟子というのが俺一人で、マン・ツー・マンで教えてくれるわけ。喫茶店で会って、こっちはもうただでコーヒーとかココアとか飲めるから、それを楽しみにして書いてたね。卒業する時に作品を提出するんだけど、最優秀とれた。友達から頼まれて、5人分10本書いたよ。

−卒業後は広告会社にいらっしゃったそうですね。

丸山 「ふたリぼっち」に出てくるような従業員3人の小さなPRプロダクションに2年間いた。電通とかの下請けの下請けのそのまた下にある会社で、こういう所は人間扱いされないからね。ここで社会の仕組みを全部覚えた。そこにいる時に書いたのが「ロッキー・マウンテン・ブルース」でこれが事実上の第1作。師匠はとにかく祉会派の力作が好きな人でね、軽いのを書くと怒られる。2、3本書いたんだけど、テーマが先に決まって書いても面白くない。そこで力を抜いて書いたのが「蜜月」なんだ。これは「俺っちのウェディング」になった。友達の間では評判良かったけど、やっぱり師匠は怒ったね。

−あの映画のラストの鉄腕アトムのシーンは、脚本にもあったんですか。

丸山 ああ、あれは根岸(吉太郎監督)のアイデアだよ。俺も見ていてぴっくりしたね。何だろうこれは、って思った。

−話をもとに戻しますけど…。

丸山 あ、そうそう。そんな生活を続けてて、30歳前になったらビビったね。周りはみんな結婚してさ、子供なんかも生まれてるしさ、それに比べて俺は何してるんだろうと思った。そのころはフリーのライターになってて、けっこう収入もあって、脚本の方もたしかに技術的にはうまくなってたんだけど、ビビってくるんだよね。ダメになっちゃうんじゃないかって。まだ脚本が売れたわけじゃないし…。ちょうどそのころ、テレビの2時間物−テレビ朝日の土曜ワイド劇場−が始まってね、日活から企画を頼まれた。推理小説のプロットを書いていく仕事なんだけど、俺はずっとオリジナル物しか書いていなかったから、嫌だった。その時、日活の撮影所長をしていたのが、黒沢満さんだった。黒沢さんはその後、東映セントラルフィルムを作って、第1作が松田優作さんの「もっとも危険な遊戯」。これがヒットしたんで、続編を作ろうということになってベテランの脚本家に脚本を頼んだんだけど、なかなか出来上がってこない。黒沢さんが俺を覚えていてくれてね、それで話が持ち込まれたんだ。だけど時間が2日間しかない。ニック・ノルティの映画に「48時間」というのがあったよね、あんな心境だった。必死になって書いて出したら、黒沢さんは「とてもいい」って褒めてくれたんだ。だけどその後、企画会議にかけなくちゃならない。そこでOKが出たら、連絡があることになってた。こっちはもう2日間も徹夜してたからさ、フラフラで家に帰った。それから仲間を集めてドンチャン騒ぎ。とにかく、17のころに脚本家を志して14年、初めて誰かが自分を振り向いてくれたことがとてもうれしくてね。人生最良の時だったね。大感激したんだ。で、電話がくるのをずっと待ってたんだけど、こなかった。実はベテランの脚本家がギリギリになって本を完成したんだよね。俺の本自体は会議でも評判良かったらしい。

−なるほど。それで遊戯シリーズの第3作「処刑遊戯」でも脚本の依頼があったわけですね。

丸山 その前にテレビの「探偵物語」がある。これも最初はベテランの人が書いたんだけど優作さんが「ダメだ」って言って、俺が書くことになった。今度は5日間しかなかった。でもこの仕事は体質的に俺に合ってたね。主人公の性格がチャランポランだろ。もう、俺にピッタリなわけ。あんなに楽しい仕事はなかったよ。結局26話中、4話書いた。それから、「あいつはとにかく速いし、一応まとまったものを書いてくる」っていう評判が立って、依頼がくるようになったんだ。でも、俺がこの世界に入れたのは黒沢さんとの出会いであり、優作さんとの出会いが大きかったね。(1988年7月30日・日向市ホテル「源屋」で)

後記 映画祭の実行委員をしていたので、丸山さんには2日間にわたっていろいろな話を聞かせてもらった。だから、このインタビュー記事にもその間に聞いた話が混ざっている。機関銃のようなしゃべりで、すべてをメモすることはできず、テープレコーダーを準備しておくべきだったと後悔した。(1988年8月号)
[UP]