山田洋次がキャラクターに血肉を通わせてドラマに説得力を持たせるのと同じ意味合いから、滝田洋二郎は登場人物にドライでブラックな味わいを持たせる。普通、こういうキャラクターではコメディにしかならないのだが、滝田洋二郎の場合はその中に一片の真実を込める。その真実に説得力があり、胸を打つのだ。クライマックス、高橋(真田広之)がゲリラに向かって切るタンカの小気味良さを見よ、である。辞令一枚で地の果てまで単身赴任させられ、会社のために働き詰めに働く日本のビジネスマンの悲哀がにじみ出てくるではないか。かといって、笑わせて最後には泣かせる従来のコメディ(山田洋次やジョン・ヒューズが代表例だ)とは一味も二味も違う。ぺーソスとほとんど無縁のところで成立しており、こういう映画を僕は新しいと思う。
タルキスタンという東南アジアの小さな国で4人の日本のビジネスマンがクーデターに巻き込まれる。橋を架けるプロジェクトで、5日間の予定で出張してきた高橋と現地駐在員の中井戸(山崎努)、ライバル会社の富田(岸部一徳)、升本(嶋田久作)だ。プロジェクトを巡って反目していた両社だが、命の危険にさらされて脱出するために仕方なく4人は協力し合うことになる。途中、もう一人の日本人駐在員(ベンガル)を助けようとするが、駐在員はあっけなく市街戦に巻き込まれて死んでしまう。この場面はショッキングだ。戦車が登場する市街戦の迫力は日本映画には珍しく、緊迫感に満ちている。タイでロケした成果だろう。もう少し予算があれば、もっと大量に火薬を使うこともできたのだろうが。
4人は空港を目指してジャングルの中に分けいる。ニシキヘビと格闘したり、ゲリラの仕掛けたブービートラップにかかりそうになったりの危険な目に遭う。ある農村の住民をゲリラの攻撃から助けたことで、中井戸が政府軍のスパイであったことが分かり、中井戸はゲリラにつかまる。他の3人はようやくの思いで空港にたどりつくが、そこで中井戸の救出に向かうことを決意する。そしてゲリラにタンカを切るクライマックスとなるのである。
極めてユーモラスな展開でありながら、底にあるのはまっとうなテーマ。中井戸や富田は単身赴任で家庭生活はほとんど崩壊している。富田の妻はマラリアにかかったことでタルキスタンに嫌気がさして帰国。中井戸も家族に理解を得られず、離婚してしまった。それでもジャングルでしたためた遺書には家族のことを書くというところにオジサンたちの悲哀を感じてしまう。そういう部分のキャラクターの造型がとてもうまい。一色信幸の脚本には、滝田洋二郎の視点がかなり入っていると思う。
前作の「病は気から 病院へ行こう2」にも感心したが、今回も期待を裏切られることはなかった。本来的にはプログラム・ピクチャーの感覚だけれども、一定の水準を維持し続けている滝田洋二郎監督に拍手を送ろう。次作は「新宿鮫」という(今月号の「ときどきシネマ」を参照してください)。まさかコメディにはならないと思うが、地に足のついたキャラクターの活躍が見られるのではなかろうか。(1993年5月号)
【データ】1993年 松竹 1時間55分
監督:滝田洋二郎 製作:小林壽夫 原作・脚本:一色伸幸 撮影:浜田毅 美術:山口修 音楽:清水靖晃
出演:真田広之 岸部一徳 嶋田久作 ベンガル 螢雪次朗 田根楽子 早見優 山崎努
続編が第1作の出来を上回ることは邦画では珍しいが、これは前作よりはるかに面白い。外科病棟を舞台にした前作に対して、今回は死を間近に控えた末期ガン患者を収容するホスピスが舞台。深刻にならざるを得ないような状況にあるため、ギャグが不発の場面もあるのだが、滝田洋二郎監督は重たいテーマをエンタテインメント精神にくるめて総合的な娯楽作品に仕上げた。「深刻なテーマだから映画の雰囲気も暗くていい」と思い込んでいるような監督が多い中で、そうした野暮な邦画とは一線を画している。洋画のように洗練されているという点で、昨年の邦画では「シコふんじゃった。」と双壁だと思う。出演者もよく、特に小泉今日子の良さに感心した。
映画の冒頭でいきなり主演の小泉今日子は死んでしまう。これはラストに死の場面を持ってくると、どうしても従来の“お涙ちょうだい"ものになってしまうから、それを回避するための措置である。ここから小泉今日子はどのように死んだのか、という話になる。急性アルコール中毒で病院に運び込まれた小泉今日子は吐瀉物の中に血が混じっていたことから胃ガンを発見される。若い女性に多いスキルス・ガンで、発見された時には既に手遅れだった。この病院には真田広之と三上博史という対照的な考え方を持つ兄弟の医師がいる。真田はあくまで延命措置が医師の使命と考え、三上は助からない患者には安らかな死をと願って、試験的にホスピスを建設した。一般的な意味から言えば、真田が悪役となるが、この映画は類型的な描き方をせず、どちらが正しいとの判断は控えている。これによってキャラクターに深みが出た。
入院した小泉今日子は抗ガン剤の副作用で髪の毛が抜け、弱って立つこともできなくなる(夜中に絶望して、体中に付けられた管を取り去り、鮮血にまみれる場面が強烈だ)。ホスピスに入ることを決めたのは、治療で弱っていくことに耐えられなかったためである。ホスピスでは延命治療は一切行わず、末期ガンの痛みを取り除くことに主眼が置かれる。治療をやめた小泉今日子が元気を取り戻し、日光を浴びて芝生を歩く場面は生のきらめきを感じさせる良い場面だ。
そのまま安らかに死んで行くのなら普通の映画だが、一色伸幸の脚本はここで大きな転換を図る。小泉今日子はホスピスを抜け出して生命保険のCMに出演するのである。余命3ヵ月であることを公表して「私も(保険に)入っていませんでした」と訴えるこのCMはショッキングであり、実際に胸を打つ。だから小泉今日子が一躍脚光を浴び、アイドルとなる展開にも納得させられるのである。
残された短い命を懸命に生きようとする小泉今日子のひたむきさがとても良い。三上博史とのラブシーンには際どいセリフと場面があり、大人っぽい魅力も見せてくれる。前作はスラップスティック過ぎてそれほど好きではなかったが、今回はよく練られた脚本と的確な演出、出演者たちの好演に支えられて満足できる映画となった。ガンにかかった病院長が詳しく描かれないとか、コンサート場面で小泉今日子が役柄を離れて自分自身に戻るとかの小さな傷はあるにしても、昨年の収穫の1本であることは間違いない。(1993年2月号)
【データ】1992年 フジテレビジョン=メリエス 1時間50分
監督:滝田洋二郎 製作:村上光一 脚本:一色伸幸 撮影:浜田毅 美術:中沢克己 音楽:梅林茂
出演:小泉今日子 三上博史 真田広之 柄本明 木野花 ベンガル 天本英世 もたいまさこ
「ミンボーの女」で暴力団に襲われたと思ったら、今度は「大病人」上映中の映画館のスクリーンを切り裂かれるという事件に見舞われ、災難続きの伊丹十三監督にはご同情申し上げる。しかし、暴力団に狙われたからといって、「言論の自由に対する攻撃だ」などと社会派ぶった言動をするのは筋違いである。伊丹十三が社会派でありえないのは「マルサの女」シリーズ2本と「ミンボー…」を見れば良く分かる。社会派には不可欠の権力に対する批判精神などさらさらなく、いずれも国の方針を分かりやすく伝えてくれる政府広報のレベルに過ぎない。
で、「大病人」である。これは「お葬式」や「タンポポ」と同じく、一つの物事に対するウンチクを傾ける映画だ。伊丹監督の作品は“政府広報"とウンチク映画との2つの流れに分けられると思う(「あげまん」だけはどちらにも入らない。だから失敗したのだ)、実は“政府広報"の方もウンチクを傾ける姿勢では変わるところはなく、要するに、この人の映画はストーリーを語るよりも、知識を語ることに主眼が置かれているのである。伊丹監督のエッセイもこの方式であって、自分の意見より物事の説明が多く、インテリが知識をひけらかす姿勢が見えて僕は嫌です。「大病人」のウンチクはガンである。暴力団に襲われて入院した経験を生かした作品というから、どんな映画が出てくるかと思ったら、 ガンとはね。題材の面白さでもってきた部分が多かった伊丹作品の中で、最も平凡な題材と言えよう。それゆえ、出来の方も平凡である。
映画の撮影中、監督(三国連太郎)に胃ガンが発見される。監督には愛人(高瀬春奈)がおり、妻(宮本信子)とは離婚寸前である。入院した病院の医師(津川雅彦)は妻の知り合い。監督が撮っている映画はガン患者を題材にしており、監督と愛人が主演している、こういう設定のもと、監督が手術を経て、安らかに死ぬまでが描かれる。やりたい放題にやってきた主人公が死を覚悟していく過程は本来なら、ある程度の感動があるはずだが、極めて同情しにくいキャラクターなのでそういうこともない。良かったのは宮本信子が脇に回った(「お葬式」以来ではなかろうか)ことくらいで、あとはいつかとこかで見たような病院内の風景が繰り返されるばかり。
これでは、話の行き着くところが分かっているだけにツライものがある。病院映画が氾濫している中では仕方がないのだが、それにしても工夫が足りない。黒沢明の「生きる」や「ゴーストニューヨークの幻」からの引用とか、極めて常識的な臨死体験の場面(まさか「大霊界」からの引用ではないと思うが)とか、何をやっているのかね。唯一のオリジナリティーは映画中映画の中でもクライマックスとなる般若心経の合唱とオーケストラを合体させた場面だが、これに何の意味があるのか。わざわざ字幕を出すところに監督のイヤラシサを感じる。「一般庶民は般若心経なんて読んだことがないだろう」という意識がミエミエである
三国連太郎はBSで伊丹監督の演技指導をほめていたが、リップサービスが過ぎるのではないか。(1993年7月号)
【データ】1993年 伊丹フィルムズ 1時間56分
監督:伊丹十三 製作:玉置泰 脚本:伊丹十三 撮影:前田米造 美術:中村州志 音楽:立川直樹
出演:三国連太郎 津川雅彦 宮本信子 木内みどり 高瀬春奈 熊谷真実 三谷昇 田中朗夫 村田雄浩 南美希子 清水よし子 左時枝 高橋長英
この映画が哲学的だなどというのは、何かの勘違いである。あのジェームズ・キャメロン監督のパート2に比較すると、いかにも貧相で、大作を締め括る完結編にはふさわしくない。ストーリーの暗さはいいとしても、画面の暗さには我慢できない。想像していたほどつまらなくはなかったけれど、エイリアン軍団との戦争を見た後で、たかが1匹のエイリアンに右往左往するスケールの小ささに満足できるわけがないではないか。5000万ドルと言われる製作費はいったいどこに使われたのだろう。
閉鎖された場所にエイリアンが紛れ込んで、人間たちを襲う−という設定は1作目とよく似ている。1作目はA・E・ヴァン・ヴォートの傑作「宇宙船ビーグル号」のアイデアを借りており、エイリアンは凶暴性と高い知能を合わせ持つ生物だった(もっともそう言うのは人造人間のアッシュだけで、高い知能を発揮する場面はなかったが…。また、ジョーンジーという猫が登場するのはヴァン・ボートの小説のエイリアンが猫型だったからではないかと思う)。エイリアンの生態は2作目で、クイーンを中心にコロニーを形成するアリやハチのような生物として描かれた。そして今回は寄生した生物の遺伝子を取り入れる生物へと変わり、犬から生まれたエイリアンは四本足で走り回るのだ。
舞台は染色体異常の凶悪犯を収容した流刑惑星。宇宙船に緊急事態が発生し、リプリーたちは冷凍睡眠のまま、救命艇でこの惑星に流れ着く。墜落の衝撃でニュートとヒックスは死亡。人造人間ビショップも大破してしまう。しかし、救命艇にはエイリアンも潜んでいた。犬に寄生したエイリアンは腹を食い破って現れ、人間たちを襲い始める…。1作目よりも、ジョン・カーペンター「遊星からの物体X」と比較した方がいいかもしれない。犬から現れるという二番煎じだけで、もはやマイナスである。その後はエイリアンとリブリーたちの戦いとなるわけだが、アイデアが足りない。SFXも少ない(リチャード・エドランドのボス・フィルムはいったい何をやっておるのだ)。閉鎖的な汚いセットと魅力のない登場人物たちぱかりでは、リプリーに起こる運命的な悲劇が盛り上がらない。スキンヘッドのシガニー・ウィーバーの熱演も空回りしている。
この映画の製作を巡るゴタゴタは映画雑誌に多数紹介されている。ウィリアム・ギブスンに始まった脚本は難航し、多くの脚本家が携わったが、決定稿が出来上がったのは撮影開始の2週間後。監督もあの「ダイ・ハード2」のレニー・ハーリン、ヴィンセント・ウォードを経て、ようやく27歳の新鋭デヴィッド・フィンチャーに落ち着いた。そうしたゴタゴタはすべて負の要素として働いてしまった。個人の力ではどうしようもない破滅へのうねりが映画を飲み込んでしまったかのようだ。ハーリンが監督を降りた後に語った「スコットとキャメロンの偉大な作品の退屈なカーボン・コピー」という言葉が、この映画のすべてを表現しているように思う。
シリーズ物が回を追うごとにつまらなくなるのは珍しいことではない。「スター・ウォーズ」だって3作目は面白さに欠けた。エイリアン・シリーズは2作目が抜群の面白さだっただけにその落差が大きいのである。3作目も高い水準を保った「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズ(3作.ともロバート・ゼメキスが監督したのが良かったのだろう)のような成功例は、極めてまれであることを改めて痛感した。(1992年10月号)
【データ】1992年 アメリカ 1時間55分
監督:デヴィッド・フィンチャー 製作総指揮:エスラ・スワードロー 製作:ゴードン・キャロル デヴィッド・ジャイラー 原作:ビンセント・ウォード 脚本:デヴィッド・ガイラー ウォルター・ヒル ラリー・ファーガソン 撮影:アレックス・トムソン 音楽:エリオット・ゴールデンサル
出演:シガニー・ウィーバー チャールズ・ダンス チャールズ・S・ダットン ランス・ヘンリクセン ポール・マクガン
ケン・グリムウッドの小説「リプレイ」に大変よく似たファンタシジーだ。と、言うよりも「リプレイ」の中心アイデアをいただいているのは間違いないと思う。藤子・F・不二雄の原作を確かめてはいないけれど、これと同じ話だったら、まずいのではないか。物語の展開は異なるが、少なくともヒントにはしており、映画のクレジットにはグリムウッドの名前を入れておいた方が良かっただろう。女優を美しく撮る森田芳光の作品らしく、清水美砂も工藤静香もきれいで(意外なことに工藤静香がとても良かった)、面白い映画になっているのだが、ストーリーの類似性だけが気になった。
グリムウッドの小説は43歳の男が心臓発作で死に、気が付いたら18歳の時代に帰っていた−というのが発端である。現在の自分の生活に満足していなかった主人公は今度こそ、違う人生を生きようとする。記憶は前のままだから、金儲けも思いのままだ。しかし、また同じ日の同じ時刻に主人公は死んでしまう。それから、壊れたテープレコーダーのように何度もリプレイが繰り返される。そのうち自分と同じ境遇にある女がいることも分かる。2人は同じ世界を何度も生きる。国の機関に利用されて世界が破滅に瀕したりもするが、それでも前と同じ日に2人は死んで、再びリプレイが繰り返される…。「自分の人生をやり直すことができたら…」という願いを徹底的に描いてこれは傑作小説となった。リブレイの理由もからくりも説明されないが、思索的ですらある。
「未来の思い出」は漫画家志望の納戸遊子(清水美砂)が出版社主催のゴルフコンペでホールインワンをした途端に心臓発作で死に、10年前の1981年に帰る。売れない漫画をかいてきた遊子は今度こそ売れる漫画家になろうと、自分の記憶(つまり未来の思い出だ)にあるヒットした漫画を先取りして発表し、名声を得る。リプレイしているのはもう一人いた。死ぬ直前のクリスマス・イブに出会った不幸な人妻・金江銀子(工藤静香)だ。銀子もまた、今の夫と出会わない違う人生を生きようとする。しかし、2人ともまた前と同じ日に死んでしまい、二度目の人生が繰り返されることになる。
「日本の漫画のストーリーは世界的レベルにある」(森田監督)などと言っている場合ではないのである。オリジナリティがなければ、どうしようもない。例えば、テレビドラマで映画のストーリーをパクることは珍しくないけれども、少なくとも映画に関しては気をつけなければならない。「エイリアン3」の作品評で触れた第1作と「宇宙船ビーグル号」との類似性で、ヴァン・ヴォートは訴訟を起こし、結局、映画会社は和解金を出したのである。あの程度のことでそうなのだからね。
「未来の想い出」は所々にかったるい部分があるにせよ、このストーリーの類似性さえなかったら、良い出来の映画だと思う。森田監督は映画的な技術を駆使して、魅力的な世界を作り上げている。イッセー尾形や唐沢寿明の使い方などは爆笑ものだ。俳優選びと選曲のセンスも相変わらずいい。清水美砂が良いのは「シコふんじゃった。」で分かっていたが、工藤静香の良さをこれほど引き出したのは初めてだろう。それだけにオリジナリティのなさが惜しいのである。(1992年10月号)
【データ】1992年 光和インターナショナル=藤子・F・不二雄プロ 1時間50分
監督・脚本:森田芳光 製作:鈴木光 原作:藤子・F・不二雄 撮影:前田米造 美術:今村力 岡村匡一 音楽:加古隆
出演:工藤静香 清水美砂 和泉元弥 デヴィッド・伊藤 橋爪功 唐沢寿明