愛と宿命の泉

PARTI フロレット家のジャン Jean de Florette
PARTII 泉のマノン Manon de Source

この長大な物語の主人公はタイトル・ロールのジャン(ジェラール・ドパルデュー)でもマノン(エマニュエル・ベアール)でもなく、スベラン家のセザール(イヴ・モンタン)である。ここでは多くの悲劇が描かれるが、ラストでそれらがすべて、フロレットの手紙がセザールに届かなかったという、ただ1点に集約されていく。このダイナミズム! 運命のいたずらと言うか、あまりにも皮肉な人生がここにはある。そして最も大きな悲劇がセザール自身に起きたものであることは言うまでもない。だから、最初から最後まで事の顛末を見つめ続けたセザールこそが主人公たりうるのである。

第2部が第1部よりも劣るのは、セザール役のイヴ・モンタンに対抗しうる俳優が存在しないからにほかならない。マノンを演じるエマニュエル・ベアールはただ美しいだけで、演技らしい演技ができていない。第1部のジェラール・ドパルデュー(ジャン)の圧倒的な演技を見たあとでは何とも物足りないのである。都会から来たインテリ紳士として登場したジャンは、住んだ土地に水がないばかりに(セザールと甥のウゴランが泉を埋めてしまったために)馬車馬のように働く羽目になる。1時間もかかる泉まで毎日、水を汲みに行き、作物を育て、井戸を掘る(この描写は執拗に何度も繰り返され、悲痛感を煽る)。しかし、その努力にもかかわらず、ついに命を落としてしまう。

第1部のラストでマノンは、セザールとウゴランの悪業を知る。そして10年後、かつての家の近くで、羊飼いとしてイタリア人の老婆と暮らしている。実はこれが、2人への復讐のためなのか、それとも単に思い出の地であるからなのかが、よく分からない。マノンは恋心を寄せてきたウゴランに冷たい態度をとることで、そして偶然見つけた村の泉の源を埋めることで結果として復讐を果たすが、これでは強い意志に基づいた復讐とは言えないと思う。

それはそれで構わない。この映画には悪意を持つ人物はいても、単純な悪人は存在しないのだから。セザールが隣人を殺してしまったのは不幸な事故であるし、ウゴランは恋したマノンのリボンを胸に縫いつけるという純粋さを持っている。村人たちがジャン一家に冷たいのも田舎ゆえの閉鎖性が災いしている…。人物の描き方は重層的であり、さまざまな要素が介在して、映画は悲劇へと突き進む。これがドラマというものだろう。

聞くところによると、「泉のマノン」は原作者のマルセル・パニョルによって以前、映画化されているのだそうだ。ラストで明らかになる意外な(というほどのものではなく、容易に想像はつく)人間関係は、その映画では描かれなかったという。映画の主題が水と火、愛と憎しみの対比であるのならば、確かにこの部分は不要かもしれない。しかし、ここは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のラストのように人生の愚かさ、主人公の無念の思い、後悔を鮮やかに浮かび上がらせる。映画の手法は極めて大衆的で、芸術的な香気には欠けるけれども、ぶ厚い長編小説を読んだ後のような満足感が残った。

それにしても3時間56分。途中で休憩がなかったのはつらいが、主観的な長さとしては最近の日本映画のタワケタ大作よりもずっと短い。ヒッチコックの言うケーキの断面ではなく、人生の断面を描くためには、これくらいの長さは必要なのである。(1988年7月号)

【データ】1986年 フランス フロレット家のジャン(2時間2分) 泉のマノン(2時間24分)
監督・脚本:クロード・ベリ 製作:ピエール・グルンステイン 原作:マルセル・パニョル 脚本:ジェラール・ブラッシュ 撮影:ブリュノ・ニュイッテン 音楽:ジャン・クロード・プティ
出演:イヴ・モンタン ダニエル・オートゥイユ ジェラール・ドパルデュー アマニュエル・ベアール

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アキラ

AKIRA

待望の映画化と言うべきだろう。原作は第4巻までで300万部の大ベストセラー。それが原作者の大友克洋自身の手で、アニメになるというのだからファンにはたまらない。「幻魔大戦」でキャラクター・デザインを担当し、「迷宮物語」と「ロボット・カーニバル」でそれぞれ第3話とプロローグ、エピローグを演出しているとはいっても、長編ではこれが初めてのオール・アバウト大友克洋。僕がどれくらい期待していたかについては、昨年8月号に書いたとおりだ。製作費10億円、セル原画15万枚。これは日本のアニメ史上空前のことで、恐らく絶後にもなるのではないか。

原作はまだ完結編の第5巻が出ていないから、映画の方は設定だけは同じだが、話は大幅に簡単にしてある。核戦争後に構築された2019年のネオ東京。暴走族の金田と鉄男がある夜、事故を起こしたことから政府の極秘プロジェクトに巻き込まれていく。鉄男は薬を投与され、超能力を得る。同じ能力を持つ少年たちはほかにもおり、それぞれ番号が付けられている。その中心が、アキラ(28号)と呼ばれる少年である。アキラはデュワー壁に囲まれた絶対零度の中に閉じ込められている。鉄男はそのアキラに接触を図る…。

これは単純に超能力SFと見ることもできる。薬を投与した結果の超能力とは、スティーブン・キング「ファイアスターター」を想い起こさせる。しかし、アキラの能力はこれまでのSFに登場したどの超能力者と比べても桁違いに大きい。「伝説巨神イデオン」の無限エネルギー・イデのように、宇宙の根源にある力と深くかかわっているようだ。少年たちは兵器として開発された。その力を制御できなかったために東京は壊滅した。核爆発を起こしたのはアキラなのだ。

映画はアキラの謎を解き明かしながら、鉄男と金田の確執を描いていく。幼いころから金田に主導権を取られてきた鉄男は、金田に対して愛憎半ばする感情を抱いており、超能力を得たことでそれが一気に表面化してしまう。大友克洋はこの二人の確執に焦点を当てることに力を入れている。SF的で難解なラスト(これは主に説明不足のためだ)があるにしても、これは結局、金田と鉄男の物語として収斂していく。だから、「ファイアスターター」がそうであったように設定はSFでもテーマ的にはSFとしてそう深くはない。原作との一番の違いはそこだろう。まだ完結していないから分からないのだが、劇画の「アキラ」は宇宙の力とアキラの関係をもっと詳しく描きこむのではないか。映画では、ケイが金田に少し説明するだけだ。

サイバーパンクSFに特徴的なジャパネスク趣味が、当然のことながらこの映画にはあふれており、緻密な作画と相まって独特の世界を作りだしている。そうでなくても日本のアニメは世界のトップレベルにあるのだから、外国にも十分通用するだろう。ただ、アニメーテイングに関しては、宮崎駿の諸作に比べるとスピード感で劣る面があることは否めない。前半のゆったりとしたペースに比べて、後半が駆け足になったのも残念である。

ともあれ、これが画期的な作品であることは間違いなく、芸能山城組の音楽を使ったセンスの良さとも併せて大いにほめておこう。あとは来年発売される第5巻を首を長くして待つだけである。それこそが本物のアキラなのだ。(1988年8月号)

【データ】1988年 2時間4分 アキラ製作委員会
監督・原作・脚本:大友克洋 脚本:橋本以蔵 作画監督:なかむらたかし 美術:水谷利春 撮影:三沢勝治 音楽:山城祥二
声の出演:岩田光央 佐々木望 小山芙美 玄田哲章 大竹宏 北村弘一 池水通洋 渕崎由里子 大倉正章 荒川太郎 草尾毅

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機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

これは正しく戦争アニメである。この悲壮感、この死者の多さ。ヘタをすると、あの胸クソの悪くなる「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」になるところだった。それを危ういところでクリアしているのは、ひとえにニュータイプという、テレビシリーズ第1部以来のテーマを備えているからにほかならない。ここで繰り広げられるシャアとアムロの確執は、筋1部の中でも際立って傑作だった「光る宇宙」のエピソードを踏襲している。「Zガンダム」も「ガンダムZZ」も関係ない。この映画は第1部に直接つながる続編としてのみ見るべきだろう。ガンダムシリーズのテーマは「光る宇宙」に凝縮されていたのだから、これは当然のことである。

「光る宇宙」で描かれるのは、アムロとララァの宿命的な出会いと別れである。卓越したニュータイプである二人は、戦場で出会ったがために戦わなければならない。そしてお互いのニュータイプとしての能力を認めあったときに悟る。人間は変わっていくのだ、と。ニュータイプは人類の革新であり、それは宇宙に進出した人類から生まれた。戦闘能力だけでなく、人類の新たな飛躍の一歩となる能力を兼ね備えたタイプなのである。しかし、アムロはシャアをかばったララァを誤って殺してしまう。

「逆襲のシャア」でもこの場面は回想シーンで登場する。時代は10数年後だが、シャアもアムロもいまだにララァにこだわっている。シャアはネオ・ジオン軍の総帥となっており、地球人を根絶やしにするため隕石落とし作戦を始める。かつての宇宙要塞アクシズ(これは「Zガンダム」で反連邦軍ティターンズの本拠だった)を手に入れ、地球に落とそうとする。その阻止を図るアムロと新たなニュータイプたちのドラマが戦闘の中で描かれていく。シャアの野望はニュータイプだけの世界を作ることにある。地球人は地球を汚染するだけの存在でしかなく、人数の進化にとって有害なのである。

コンピュータ・グラフィックを用いたいたスペース・コロニーとか画面のスピード感などは、漫画映画と呼んだ方がふさわしかった第1部に比べれば、格段の進歩である。たしかに見物ではあるのだが、テーマの深化は一切ない。ここにあるさまざまなシーンは「Z」「ZZ」で主人公のカミーユ・ビダン、ジュドー・アーシタを通じて1度似たような形で見たことがある。ファンとしてはそこが物足りない。ラストに現れる、地球を取り巻くオーロラは、ある種の希望を暗示しているのかもしれない。しかし、それは同じ富野由悠季監督の「伝説巨神イデオン」の壮大なラストには到底及ばない。無限エネルギー・イデの発動によって宇宙の半分が噴き飛び、登場人物たちがすべて死ぬ。その魂がある惑星の海に入り、新たな生命力がまれるという輪廻転生の暗示。そうしたSF的なセンス・オブ・ワンダーが、「逆襲のシャア」には感じられなかった。テレビシリーズには豊富にあったキャラクター描写も不足している。戦闘シーンだけが目立ってはつまらない。総体的に見れば決して悪い出来ではないが、そんな不満が残った。

富野由悠季はアニメ作家としては一流だと僕は思っている。捲土重来を果たしてほしいものだ。(1988年4月号)

【データ】1988年 2時間 サンライズ 監督・原作・脚本:富野由悠季 キャラクターデザイン・作画監督:北爪宏幸 作画監督:稲野義信 南伸一郎 山田きさらか 大森英敏 小田川幹雄 仙波隆網 音楽:三枝成章
声の出演:古谷徹 池田秀一 鈴置洋孝 榊原良子 白石冬美 川村万梨阿 弥生みつき 佐々木望 山寺宏一 伊倉一恵

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メンフィス・ベル

MEMPHIS BELLE

第2次大戦中に空の要塞といわれた戦略爆撃機B17とその乗組員を描いた力作だ。メンフィス・ベルとは、ノルマの25回出撃に初めて成功する爆撃機に付けられた愛称で、映画はその最後の出撃の模様を詳しく描いている。傑作に成り損ねたのは、乗組員10人の出撃前の様子を描く前半が退屈だからだが、クライマックスの爆撃シーンの素晴らしさによって、見終わった後には深い満足感が残る。昨年公開された「スキャンダル」に次いで2作目となる新鋭マイケル・ケイトン・ジョーンズ監督の力量というよりも、これはやはりプロデューサーのデヴィッド・パットナムによるところが大きいのだろう。

実際、前半は話が拡散してしまっている。25回目の爆撃に成功すれば、英雄として国へ帰れるとあって、乗組員たちの写真撮影から映画は始まリ、それぞれのエピソードが綴られていくのだが、どれもありきたりの話で描写の仕方も平板である。10人をそれぞれに取リ上げるのが悪いのであって、一応の主役級であるマシュー・モディンにもっと絞り込めば、良かったかもしれない。演出力の無さはこういうところで分かってしまうのである。

しかし、とにかく後半が見違えるように素晴らしい。最後の任務はドイツ北部の町にある工場を昼間、爆撃することだった。これに向かってバラバラだった10人の話が一挙に収斂してくる。そして爆撃の様子が微に人り細にわたって描写されるのだ。これが凄い。B17は要塞と言われるだけあって、前後左右上下に銃座が備えられている(下部の旋回銃座は「スター・ウォーズ」のミレニアム・ファルコン号を思わせるが、絶対に座りたくない場 所だ)。これだけの装備があれば、無敵の爆撃機に思えるが、その割りには機体がなんと脆いことか。攻撃してきたドイツのメッサーシュミットによって編隊は次々に撃墜される。

機体の前部をもぎ取られて落ちていくパイロットの遠景や、真っ二つになって空中をゆらゆらと漂うB17の姿は哀しさとともに美しさすら兼ね備えている。機体を揺るがす対空砲火の怖さも真に迫ったものだ。SFXが大変良くできておリ、実写と区別がつかないくらいである。メンフィス・ベルもまた旋回銃座を破壊され、銃撃によって乗組員の一人が重傷を負う。さらに帰還の際に車輪が出ないなど、最後までサスペンスフルな展開が用意されている。

この綴密な描写によって映画は反戦、好戦の枠を超えることができた。キネ旬で増淵健が「フェティッシュな映画」と評したのは的を得ていると思う。映画の主役はあくまでもB17という爆撃機なのである。細部へのこだわりが奏功したと言えるだろう。基になったというウイリアム・ワイラー監督のドキュメンタリーも見てみたいものだ。

ただ、猛烈な空爆が線り返された湾岸戦争の折に見たので、気分的には高揚感がなかった。映画で描かれたことと今の現実とがどうしてもオーバーラップしてしまう。爆撃する側の怖さよりも、地上でそれにさらされる側の方が悲惨に決まっているのである。好戦映画にはなっていないものの、「いい気なものだ」と感じられてしまうのである。

パットナムの映画は「キリング・フィールド」も「ミッション」も優れた出来だが、いつも視点に問題があるように思える。取り上げる題材を見ると、この人は一見ハト派のようだが、その仕上がり具合から実はタカ派なのではないかと、僕はひそかに疑っている。現に戦意高揚の意味合いが大きかったと思われるワイラー版「メンフィス・ベル」が、この映画の出発点になっているのだからね。(1991年4月号)

【データ】1990年 アメリカ 1時間47分
監督:マイケル・ケイトン・ジョーンズ 製作:デヴィッド・パットナム キャサリン・ワイラー 脚本:モンテ・メリック 撮影:デヴィッド・ワトキン 音楽:ジョージ・フェントン
出演:マシュー・モデイン エリック・ストルツ テイト・ドノヴァン D・B・スウィーニー ハリー・コニックJr ジョン・リスゴー

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