書きたいことが多すぎて何から書いていったらいいか、分からない。それほど、さまざまなことを考えさせられる刺激的な映画である。こういう場合、自分に身近なことから書けばいい。まず、その手法からいこう。
一人の男が事件にかかわる人々を訪ね歩いて、真相を明らかにしていくという構成は、ハードボイルド・ミステリを思わせる。ここで提示される謎は、ニューギニア戦線に従軍した2人の日本兵が終戦後23日目になぜ死んだか、ということである。遺族には戦病死と伝えられたが、実は2人は銃殺処刑されていた。なぜか。主人公の奥崎謙三はそれを探るために、2人の遺族とともにかつての上官たちを追及していく。映画が撮られた時点で38年前のことだから、関係者はなかなか口を割ろうとしない。突然、訪ねてきた奥崎たちに無礼な態度を取る人もいる。しかし奥崎は時に暴力を振るいながら、強引なやり方で真相をつき止めていく。
周囲4キロを米軍に包囲されるという極限状況のジャングルで、1万数千人の日本軍の間では、飢えと疲労から人肉食がおこなわれていた。関係者はポツリポツリとあるいは平然と、その事実を打ち明ける。2人の日本兵は、その事実を隠蔽するために殺されたらしい。関西のある食堂のおやじは白人を白ブタ、原住民を黒ブタと称していたことを話し始める。
「じゃあ、プタというのはすべて人肉のことだったんですね」
「土人のブタを取ったら、土人から殺されるからね」
「でも白ブタも黒ブタも捕まえられないこともあったでしょう。そういう時は部隊の下の方から殺して順番に食べていったんじゃないですか」
「いや、私のいた部隊では日本兵は食べなかった」
こうした非日常的なセリフが日常生活を営む普通の人間の口からポンポンと出てくるのだから、驚かされる。もっとも、人肉食(カニバリズム)自体は衝撃的なことであっても、歴史においてはそんなに珍しいことではない。江戸時代、天明の大飢饉の時には犬の肉と称して人肉が売られていたというし、この映画と同時代のドイツでは閉じ込められた2人のドイツ兵のうち1人がもう1人を食べて生き延びた。発見された時、この兵士は発狂していたという(この事件は有名な一人芝居になっている。「告白」とか「審判」とかいう題ではなかったか)。近いところでは、アンデス山中に落ちた飛行機の乗客が死体を食べたというのもあった。乗客たちはキリスト教徒であったため、生き延びる道があるのにそれをせずに餓死することは、禁じられている自殺をするのと同様だ、という理屈からカニバリズムに踏み切ったのだ。恐らく、人間は追い詰められれば人間を食べる。
話がそれた。この映画が明らかにする事実は十分にショッキングであるし、謎が解かれていく過程は人を引きつけて離さない。だが、この映画の凄さはそれだけにとどまらない。ここで何よりも凄いのは奥崎のキャラクターであり、相手の反応である。そして映画が求めたのはまさにこの部分であったのだと僕は思う。
もし、謎を解明するだけが映画の目的であったなら、こういう微妙な問題を扱う場合、関係者の顔を隠すのが常識である。テレビでよくやるように顔にボカシをかけるとか、後ろから撮るとかするのが普通だろう。しかし、ここに出てくる人たちはすべて実名、自宅も顔もカメラの前にさらけ出される。その人間性までもがカメラの前であらわにされてしまう。プライバシーの保護という心配がチラリと頭をかすめるが、映画はそれを無視したところから始まっている。だから、悪いといっているのではない。だからこそ、無類に面白いのだ。
画面に張り詰めた緊張感は、そうした事実の重みによるものである。奥崎の怒り、殴られる人の痛み、遺族の悲しみが見ている者の胸をえぐる。そして決して奥崎にも関係者にも介入しないカメラの存在。監督の原一男が自ら回したこのカメラには強い意志が働いて、ストイックなまでに中立の立場を保っている。いや、もちろん奥崎を主人公にした映画であるから、奥崎を中心に撮られてはいるのだが、カメラは記録者の位置を動こうとはせず、目前に起きたことを忠実にとらえようとするのみなのである。ドキュメンタリーの本質とはこういう撮り方なのではなかろうか。
これを可能にしたのは、究明者としての奥崎の存在があったからだ。短時間で、しかもカメラに写された下で、重い事実を話させるには奥崎が取ったような過激な方法がなくては無理だっただろう。
「暴力を振るって良い結果が得られるのなら、暴力は許される」と言う奥崎はきわめてカリスマ的な魅力を持っている。と同時にアクの強い人物でもある。奥崎が天皇を非難する時、その言葉は殺意に満ちたものとなる。戦争責任をあいまいにさせてきたこの国の多くの人々はドキリとせざるを得ない。ただ、奥崎の考え方が一般的な極左(例えば「虹作戦」で天皇のお召し列車の爆破を図った東アジア反日武装戦線“狼”部隊のような)と異なるのは、その根本に神の思想があることである(だから「神軍」なのだ)。国家、法律、会社、組合などを人間を断絶させるものと規定し、切り捨てる。これはもう、一種の宗教だろう。
この映画の後、奥崎は銃殺を指示した元中隊長の長男を拳銃で撃ち、重傷を負わせる(その場面を撮るよう依頼されたが、原監督は断った)。一審で懲役12年の判決が下され、控訴も咋年12月に棄却された。控訴審ではこの映画のビデオが上映されたという(犯罪者が犯罪を起こすまでの足跡をたどった映画とみることもできるのだ)。傷害致死などの前科があること、明らかに殺意があったことを考えると、上告しても減刑の可能性は少ない。まさに事実は小説よりも奇なり。ノンフィクションがフィクションを超えた痛快な例として「ゆきゆきて、神軍」は長く記憶されるに値する。キネ旬ベストテンで2位に終わったのは、奥崎に対する反発をそのまま映画の評価とした評論家が多かったからにほかならぬ。関係者の家族から罵倒されながらもカメラを回し続けた原監督以下のスタッフに敬意を表するとともに、ビデオの発売によって、この異形の傑作が地方でも見られるようになったことを喜びたい。(1988年1月号)
【データ】1987年 疾走プロ 2時間2分
監督:原一男 製作:小林佐智子 企画:今村昌平 撮影:原一男 編集・構成:鍋島惇
出演:奥崎謙三
この映画は8月のモントリオール映画祭に出品された。その模様を原田監督自身がミステリ・マガジンの連載コラムに書いている。
“「さらば愛しき人よ」はコンクール外の招待作品として23日に2回上映された。400席弱の劇場は2回とも満員で、反応は、控え目に見て、熱狂的であった。ヴァラエティ紙の批評家リチャード・ゴールドは私をつかまえると「ダズリング!ダズリング!ダズリング!」と連呼して祝ってくれた。ひとつのダズリングがクラクラするほど素敵だという程の意味だから、彼は殆ど立っていられない状態だったことになる。地元のTVでも我が作品を取り上げ、あまり映画をよく見ているとは思えない批評子は「"マイアミ・バイス"とソープ・オペラとやくざものの巧みなコンビネーション」と誉め上げ、我が国のギャング映画の登場人物も「さらば-」のやくざのようにドレス・アップしてくれると嬉しいのだが、と結んだ。一般からの反応も上々だった。”(「ミステリマガジン」11月号・「遥かなるドジャー・ブルー」第31回=伝説が死ぬとき又は、センチメンタル・ジャー二ー)
例えば、楢山不二夫の「冬は罠を仕掛ける」が良い例だと思うが、翻訳ミステリで育った作家の書く小説が時として翻訳ミステリのような構成、文体になることがある。そういう作家はミステリといえば、チャンドラーやクイーンが思い浮かぶのであって、松本清張や横溝正史は頭にないわけだ。ロサンゼルスに住んだこともある原田真人監督の映画にも、同じことが言える。「さらば愛しき人よ」は日本的な情景の中で進行しても、基本的にはアメリカのギャングスター映画、あるいはフランスのフィルム・ノワールの再現である。だからこそ、カナダ人(に限らず西洋人)にも理解しやすかったのだろう。
なにしろ、主人公の男女の幼いころの思い出がマーク・トゥエイン「トム・ソーヤーの冒険」と重なるのだ。出てくるヤクザにしても、東映の実録路線のそれとはまるで異なるもので、郷ひろみの役柄は最盛期のアラン・ドロンを彷彿させる。この種の映画は、へたな監督が撮ると、目も当てられぬ駄作となるのだが、原田監督にはそうならないだけの技術があった。郷ひろみが安岡力也を襲うシーンの鮮やかなカット割りを見よ。最近の日本映画でこれほど映画的なシーンはない。拳銃のアップ、驚きの表情、スローモーション…。そのモンタージュはブライアン・デ・パルマ的と言ってもいい。映画本来の魅力が長回しではないことが、この場面ではっきりと分かる。そして、石原真理子との2分強に及ぶキス・シーン。ヒッチコックの「汚名」を参考にしたというこのシーンは、まさにエモーションの高まりを感じさせる。「日本映画史キス部門の記録を塗り変える」と、豪語するだけのことはある名シーンだ。
そうした優れた場面を支えるのが、細部のこだわりである。郷ひろみはガムを小さく丸めて食べ、砂糖が一粒も残らないように、完全に溶けるまでコーヒーをかき回す。木村一八はタバコを半分にちぎってから吸う。プロットには関係ないが、キャラクターの豊かさは、そんな描写から生まれる。
佐藤浩市演じる金髪のパンク・ヤクザ、「ストーム・フィールド」という酒場のマスター役の内藤陳(ロバート・B・パーカーなら云々というセリフをつぶやく)も適役だ。銃火器の迫力も日本映画の枠を超えている。技術が見えすぎるきらいはあるにせよ、これはやはり第一級のエンタテインメントであることは間違いない。(1987年10月号)
【データ】1987年 1時間42分 松竹富士=バーニングプロ
監督:原田真人 製作:奥山和由 周防郁雄 脚本:原田真人 原作:西岡琢也 撮影:藤沢順一 美術:丸山裕司 音楽:中西俊博
出演:郷ひろみ 石原真理子 木村一八 佐藤浩市 南條玲子 嶋大輔 内藤陳 高品格
単純なストーリーを力強い映像で押しまくるキャメロン・タッチを堪能した。評判の高いSFXはもちろん、アクション場面にも例を見ないほどの迫力とスピード感がこもっている。キャメロンのスペクタクルに徹した映画作りが成功した一例だ。ストーリーを極秘にしたという割りには、意外な展開はまったくなく、見終わった時の印象は「まあまあの映画」ということになるのだが、この映像、一見の価値はある。いや、必ず見ておいた方がいい映像だ。
前作から10年後の1994年、ロサンゼルス。未来社会を支配するコンピューター・スカイネットが再び、タイムマシンで新型ターミネ一夕ーを送り込んでくる。今回の標的はサラ・コナー(リンダ・ハミルトン)ではなく、未来の指導者となる少年ジョン・コナー。それを阻止するために人間側もプログラムし直したターミネ一夕ーを送る。ここからT1000型とサイバーダイン101型という新旧2台のターミネ一夕ーの対決が展開されることに なる。第1作よりさらに強い敵を登場させるという続編の王道をいくプロットだが、「エイリアン2」で続編の作り方を心得ているキャメロンには、「ロボコップ2」のような惨めな失敗はあり得なかった。「エイリアン2」の強力なエイリアン・クイーンのように、T1000型は凄まじい能力を持っている。まるで液体のように何にでも変形する体は、穴がボコっと開いても簡単に修復してしまう。材質そのものが意志を持っているかのように不死身なのだ。この変形シーンはコンピューター・グラフィックスで処理されたらしいが、驚嘆すべき技術である。「アビス」で宇宙人が操る海水を表現した時の技術がさらに進歩して、見たこともない映像が繰り広げられる。SFXを担当したスタン・ウィンストンのアカデミー視覚効果賞は決まりだろう。
冒頭の未来社会のイメージもチャチだった前作とは比べものにならない。製作費に1億ドルもかけただけあって、スケールは随分大きくなった。アクション・シーンも冴え渡っており、オートバイで逃げるジョンを大型トラックに乗ったT1000型が執拗に追い掛けるシーンは、キャメロンらしい粘りに満ち、緊迫感に溢れる。ただ、前作で俳優としてのキャラクターを決定づけたアーノルド・シュワルツェネッガーは今回、善玉でオールドタイプ。冷酷無比な機械が人間らしさを学ぶという、ありふれた損な役回りと言えよう。しかもジョンから人間を殺さないよう命令され、手足を縛られたも同然。T1000型より目立たないのは仕方がない。
惜しいのはあまりにも単純なストーリーである。ジョンとサラは1997年に起こる核戦争を回避するため、スカイネットの開発計画を阻止しようとする。スカイネットの基になったマイクロチップを破棄するわけである。これに絡んでもうひと捻りすれば、前作以上にセンス・オブ・ワンダーを備えた凄い傑作になっていただろう。しかし、キャメロンは承知のうえで見せる映画に徹したのだと思う。
機械に支配された未来社会という前作の設定を見て、僕は「銀河鉄道999」の影響を受けているに違いないと思ったが、その後の展開は独自のものになった。さらに続きを撮るのはもう無理だろうが、どうせなら未来社会を描いた番外編でも作ってほしい。それは「エイリアン2」のようなSFバトル・アクションの傑作になるはずだ。(1991年10月号)
【データ】1991年 アメリカ 2時間17分
監督:ジェームズ・キャメロン 製作総指揮:ゲイル・アン・ハード 製作:B・J・ラック ステファニー・オースティン ジェームズ・キャメロン 脚本:ジェームズ・キャメロン ウィリアム・ウィッシャー 撮影:アダム・グリーンバーグ 音楽:ブラッド・フィーデル
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー リンダ・ハミルトン エドワード・ファーロング ロバート・パトリック
気のいい大男というと、僕はすぐにレイモンド・チャンドラー「さらば愛しき女よ」の大鹿マロイを思い浮かべてしまい、それだけで作品に対する評価を甘くしがちである。この相米慎二監督の新作「光る女」の主人公・仙作(武藤敬司)も“キングコング”と評される野人みたいな大男。それが東京に出たまま帰らない婚約者を捜しに、北海道から上京してきたという設定だから、好意的に見てしまうのは仕方がない。実を言えば、冒頭の場面で“光る女”こと芳乃(秋吉満ちる)が夢の島でオペラを歌っているのには、「難解な映画なのではないか」と警戒したのだけれど、ストーリーはまったくのメロドラマ、あるいはラブストーリーであって、とても面白く見させてもらった。
ただ、ストーリーはメロドラマであっても、相米監督はストレートには作っていない。ドラマの至る所にさまざまな要素を散りばめており、それが例えば、フェリーニ的なナイトクラブであったりするものだから、映画評も一筋縄ではいかないことになる。恐らく小檜山博の原作は、ストレートな話なのだろうと思う。その枝葉末節になぜごたごたと、過剰な描写を付けるのか、僕にはよく分からない。この過剰な描写がストーリーに何らかの効果を与えているのかと言えば、全然ないとは言わぬまでも、それほどの効果は挙げていないのだ。むしろ、ドラマの盛り上がりを排除する方向にそれは働く。映画なり、小説なりの細部は本筋を引き立てるためにのみ存在するはずのものだろう。“神は細部にこそ宿り給う”という言葉はそれを踏まえたものだと思う。それがここでは、まったく正反対の役割なのである。
で、そのことが僕は嫌だったとかというと、そうではない。紙一重で浪花節になりそうな話を、細部が本筋に対抗することで救っているからである。映画のタッチが渇いているのもそのためだ。
仙作が捜していた婚約者・栗子(安田成美)は、スナックのホステスをしており、ナイトクラブの経営者・尻内(すまけい)の情婦でシャブ中毒にもなっている。家を出た妻を捜しにやはり北海道から東京に出てきた赤沼(出門英)はナイトクラブでおかまショーを演じ、体をこわし、結局、新宿西口のバスの中で焼身自殺する。歌えなくなった歌手・芳乃は仙作と出会ったことで、歌えるようになる。つまり、都会に押しつぶされた人間の悲劇とか愛の力とか、題材は極めてありふれたことで、それをそのまま描いては見ている方が気恥ずかしくなる。いや、こういう題材を非常にうまく作る監督ももちろんいるが、相米慎二はそれを別の方法で撮ったのだ(意図的かどうかは疑わしいにしても、結果的にはそうなっている)。キネ旬979号で映画評論家の田山力哉さんが、それを“持って回った”撮り方と批判しているのだけれども、僕はそういう方法があってもいいと思う。
基本的には、贅肉を削ぎ落とし、夾雑物を排した映画が僕は好きだ。しかし、例外はある。「光る女」は数少ない例外の1本であり、昨年のうちに見ていたら、きっとベストテンに入れていただろう。英語なまりが気になるが、秋吉満ちるがとてもよかった。(1988年3月号)
【データ】1987年 1時間58分
監督:相米慎二 製作:羽佐間重彰 大川功 矢内広 山本洋 入江雄三 宮坂進 原作:小檜山博 脚本:田中陽造 撮影:長沼六男 美術:小山富美夫 音楽:三枝成章
出演:武藤敬司 秋吉満ちる 安田成美 すまけい 出門英 中原ひとみ 児玉茂